新東宝単語

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新東宝株式会社(しんとうほう)とは、かつて日本に存在した映画制作配給行会社である。倒産後、映像諸権利は際放映に移り、現在も同社が保持している。

概要

設立の経緯

名前が示す通り、元々は東宝体の会社である。第二次世界大戦直後の1947年東宝で労働争議が発生する。労使の着状態が続き、映画が出来ないことに業を煮やした大河内次郎が発起人となり、当時の東宝が誇る10人のスター俳優(長谷川一夫や山田五十鈴、原節子、高峰秀子ら)が独立して新東宝映画製作所を立ち上げる。これが新東宝の体となる会社であった。
1948年4月には新東宝映画製作所を体に株式会社新東宝が設立され、映画制作は新東宝が担い、配給東宝が担当することで映画制作を進めるはずであったが、新東宝設立直後の1948年10月に労働争議が決着を見たため、東宝自主制作を再開させることとなる。ここにいたって新東宝は東宝からの独立を決定、自配給を開始することとなった。
笠置シヅ子と高峰秀子の代表作となった『銀座カンカン』やヴェネツィア国際映画祭際賞を受賞して溝口健二監督の出世作となった『西一代女』のような評価の高い文芸作品を世に送り出す。しかし、映画民的な娯楽でどんな映画でもヒットしていた時代にもかかわらず、全体として行成績は振るわず、苦に陥る。

新東宝エログロ路線

1955年定期株主総会として都内の映画館を多数所有し、東京映画界のドンと称された大蔵貢が出席する。大蔵の会社再建策に新東宝の大であった株式会社後楽園スタヂアム(現在株式会社東京ドーム)が同調、大蔵が新東宝の社長として辣腕を振るうこととなる。
大蔵は、最初こそ文芸作品を出したもののその後は底した大衆路線を取る。その路線は「エログロナンセンス」という昭和初期に流行ったアングラ文化をなぞるものであり、「新東宝エログロ路線」と呼ばれた。
文芸作品を志向する俳優監督は新東宝を次々と去って行ったもののそのかわりに新人俳優や大部屋俳優、助監督らを次々と抜、そうした俳優の中から昭和の名優として今にも名が残る井健、高島忠夫天知茂菅原文太丹波哲郎池内子らが世に出たほか、宙明サウンドが名高い渡辺宙明、のちに東映で「東映異常路線」のを打ち立てる石井監督らもこの時代の新東宝が育てた人材である。

そして倒産

こうした底した大衆路線を取った結果、史上空前の大ヒット作品となった『明治天皇と日露大戦争』(1957年、動員数は2200万人、2001年に『千と千尋の神隠し』が2300万人の記録を打ち立てるまで約44年間日本映画行成績第一位の座に君臨していた)など、ヒット作が多数生まれ、新東宝の経営は黒字化する。
しかし、黒字化とともに大蔵の独善的なワンマン経営が立つようになり、企画も似たり寄ったりのものが増え、行成績は次第に低下する。1960年には労働組合が大蔵追放を掲げてストライキに突入するに至り、1961年新東宝は倒産する。
新東宝は清算部門と配給部門、制作部門に3分割される。制作部門は現在際放映株式会社として存続しており、新東宝で制作した諸映画の権利を保持している。配給部門は大宝株式会社となり、大島監督か初期に撮した問題作である『飼育』などを配給したものの6本配給したところで業務を停止し、そのまま解散している。
新東宝を追放された大蔵は、富士映画を設立、その後大蔵映画と組織をめ、映画界と関わり続けた。

主な映画作品

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