矢作芳人 (やはぎ よしと) とは、JRA所属の調教師である。
概要
生い立ちと学生時代
1961年、大井競馬場の調教師である父のもとに生まれる。母もトウメイを管理した坂田正行調教師の妹であり、生粋の競馬一族の出である。
幼い時から父の仕事の関係やハイセイコーブームの到来で競馬に興味を持った一方で、勉学の成績も極めて優秀であり、中学は毎年日本一の東大合格者を輩出する日本最高峰の名門、開成中学校へ進学する。
しかし、開成中では自分よりも勉強ができる人の存在を目の当たりにして、矢作は徐々に勉学への情熱を失い、テニスへ熱中、高校生になると競馬や競輪、麻雀などのギャンブルにもハマり始め、中学から留年制度がある開成で危うく留年になりかねないほど遊びまくった。
周囲が東大や国公立医学部を志望する中、矢作は既に受験のための勉強に嫌気がさしており、「金を稼ぐために好きでもないことを仕事にしたら、人生地獄だ」という教師の言葉を受けて、高校卒業後の進路に競馬の世界を選んだ。当初父は反対したものの、最終的に「中央競馬に身を置くこと」と「海外で修行すること」という二つを条件に容認した。これは矢作の父は地方競馬が将来的に苦境に立たされるであろうことと、日本にも競馬国際化の波が訪れることを予見した上で掲示した条件であり、実際に地方競馬はバブル崩壊を機に多くの競馬場が経営難で廃止或いは廃止の危機に見舞われ、日本競馬界全体も矢作が高校を卒業してから一年後の1981年に第一回ジャパンカップが行われ、それを境に日本競馬の国際化が加速していったため、矢作の父の予見は全て的中していたと言えるだろう。これに関しては矢作自身も自著の中で「親父には先見の明があった。つくづく感心させられるし、感謝の念に堪えない」と述懐している。
また、中高時代の友人との親交は未だに続いているらしく、矢作を特集したドキュメンタリー番組では同じ開成の同級生との飲み会の様子も映し出され「俺が一番この中じゃバカだった」などと冗談交じりに話しながら笑い合う姿も見られた。
海外修行
矢作は半年間語学を学んだ後、海外修行先としてオーストラリアを選び、およそ1年間オーストラリアで修業した。その結果、馬の疲労回復や厳しいローテーションでも馬を走れるようにするコツ、馬場状態に応じた調教掛けの他、特に矢作はオーストラリアで「馬があっての我々」ということを学んだとしていて、たとえ馬がビリになってしまっても怒ったりせずに「良く頑張ったね」と声をかけるオーストラリアのホースマンの姿が今でも印象に残っているという。
また、長期の海外滞在により英語も上達し、この英語力は調教師となってから海外セリに馬主の代理で参加するときや、海外の競馬関係者と関係を構築する際に役立ったとしている。
厩務員時代
矢作は帰国後、大井競馬場で父親の厩舎の手伝いをしながら、JRA競馬学校の厩務員過程に3度目の試験で合格し、1984年7月に競馬学校に入学、因みに不合格だった1,2回目の試験は一次試験の筆記はパスしたものの、二次試験の体力測定と面接で落ちたとのこと。
10月には厩務員課程を卒業し、栗東トレセンの工藤嘉見厩舎の厩務員になるが、担当馬が調教中の予後不良や内臓破裂によって死亡するという憂き目に遭い、一勝も挙げれないまま1987年3月に名伯楽として名高い武田文吾の長男である武田博厩舎へ移籍、しかしその3か月後、新人調教師の菅谷禎高が矢作の才覚を見抜いて厩舎のスタッフに勧誘し、結果菅谷禎高厩舎に移籍した。
菅谷は矢作の手腕を信頼し、管理馬の調教や矢作の担当馬のローテーション策定を一任していた、その中で矢作は厩舎の経営理念や厩舎スタッフへの対応が学べたと述懐しており、自著においても菅谷を「師匠」と呼んでいる。
また1990年にはJRAのドバイ奨学生に選ばれ、イギリスの厩舎で3か月間の研修を行うなど、将来を期待される厩務員の一人になっていた。
長い調教師への道のり
そんなこんなで幾つかの躓きはあったにせよ厩務員として着実に実力を付けていき、ゆくゆくは調教師になるだろうと目されていた矢作だったが、1991年に事件が起こる。なんと矢作が暴力団相手に喧嘩をしたということで警察のお世話になってしまったのである。
幸い相手が暴力団ということもあり、書類送検で事は収まったが、この事件を機に周囲は「矢作は調教師試験に通らない、JRAは事件を起こした奴を調教師にはしない」とささやかれるようになる。本人もそれを自覚して、調教師試験の受験勉強にも身が入らなかった。しかし師匠である菅谷の励ましや、同世代の藤岡健一が2000年に調教師試験を合格したことで徐々に本気で調教師試験に取り組むようになり、2004年に14回目の受験で遂に調教師試験に合格した。
調教師時代
調教師試験に合格した人は、合格後1年間は開業までの猶予期間が与えられる。殆どの合格者はその期間に何処かの厩舎で調教師としての研修を受けるのだが、矢作は厩舎の退職金や父親からの借金を使い、北海道の競走馬生産牧場を巡る他、日本国外の競走馬セールや競馬を視察して過ごし、2005年3月に厩舎を開業した。
厩舎スタッフは同じ年に解散した松永善晴厩舎(ナイスネイチャの調教師として有名)から引き継ぐ予定だったのだが、不運にも同年には“牝馬の河内”として名を馳せた河内洋も厩舎を開業するということで松永善晴厩舎のスタッフの大半はそちらへの移籍を希望してしまい、残ったのは平均年齢50歳以上、馬に乗れるスタッフは2人だけという厳しい状況に置かれる。
しかしそんな厳しい状況の中、矢作は様々な施策を行い厩舎の士気や人材の流入、収益率を高めようと模索した。
具体的には、
- 厩舎で管理する競走馬の入れ替えを積極的に行い、出走回数を増やし、手当や賞金等の収入源を確保する。
- 厩務員の進上金 (レースで担当馬が勝った時の担当厩務員の賞金取り分) 5%を一旦厩舎預かりとして、3%を担当厩務員に、2%を厩舎スタッフ全体に分配し、スタッフ間の収入格差を生じにくくすることと、担当厩務員のみならず、厩舎全体で馬を勝たせるという意識を根付かせる。
- 福利厚生やオンオフ意識の徹底、競走馬のリラックスのために火曜日の午後を完全オフとする。
- 矢作自身は基本的に管理馬の調達、入れ替え、馬主とのローテーションに関する相談等「調教師にしかできない仕事」に専念し、現場の事 (管理馬の世話や細かな調教掛け等) はスタッフを信頼して、自分は必要以上には介入しないようにしている。
- 「一銭でも多くぶんどる」をスローガンに、少しでも上位に食い込めるレースに優先的に出走する他、輸送費やスタッフの渡航費を主催者側が出してくれる上、賞金も総じて高額なドバイミーティングや香港国際競走等の国際招待競走には管理馬を積極的に出走させている。
- オーナーとの信頼関係のためにも、オーナーを何でも費用を出してくれる打ち出の小槌のように扱うことには否定的で、厩舎側もコストカットのため経営努力を怠ってはいけないと考えている。
- ファンサービスも重要視して「世界一ファンに愛され信頼される厩舎」を目指している。その為、調教助手であった1998年からファンとの交流イベント「矢会」を催している。
これらの施策の効果もあり厩舎スタッフのレベルの向上や移籍してくる厩務員も増え、2008年には史上最速で通算100勝を達成、2009年にはわずか開業5年目にも関わらず関西リーディングトレーナーの座に輝く等目覚ましい活躍を見せ、現在に至るまで関西屈指の名門としての地位を維持し続けている。
そして、2020年にはコントレイルが無敗で三冠を達成。史上3人目となる無敗の三冠馬を管理した調教師となった。
人物・エピソード
- 厩舎のイメージカラーは「赤」と「白」。所属馬のメンコやバンテージ、スタッフのジャンパーなどもこの色で統一されている。
- 起用する騎手は成績重視ではなく、その馬との相性を重視する。
- 連闘策を得意としており、「肉体的疲労さえしっかりとケアしていれば、連闘も問題ない」と語っている。
- フチありの帽子をよく着用しており、そこからか海外では「ハットマン」「The man in the hat (帽子の男)」のあだ名で呼ばれているという[1]。
主な管理馬
関連動画
参考資料
矢作芳人著 開成調教師の仕事 Amazon商品ページ
関連リンク
関連項目
中央競馬の三冠達成調教師 | ||
クラシック三冠 | 牡馬三冠 | ★田中和一郎 | 尾形藤吉 | 藤本冨良 | ★武田文吾 | ★松山康久 | ★野平祐二 | 布施正 | ★大久保正陽 | ★池江泰郎 | 角居勝彦 | 長浜博之 | ★池江泰寿 | 友道康夫 | ★矢作芳人 | |
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牝馬三冠 | 尾形藤吉 | |
変則三冠 | 尾形藤吉 | |
中央競馬牝馬三冠 | 稲葉幸夫 | ★奥平真治 | 松田由太郎 | 鶴留明雄 | 松田博資 | 伊藤雄二 | ★松本省一 | 西浦勝一 | 松田国英 | ★★国枝栄 | ★石坂正 | ★杉山晴紀 | ★中内田充正 |
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古馬三冠 | 春古馬 | 達成者無し |
秋古馬 | 岩元市三 | 藤沢和雄 | |
★は同一馬による達成者。変則三冠、古馬三冠は同一年達成者のみ。 | ||
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脚注
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