リスカム・ベイ(USS Liscome Bay CVE-56)とは、第二次世界大戦中にアメリカ海軍が建造したカサブランカ級護衛空母2番艦である。1943年8月7日竣工。11月24日、マキン近海で日本海軍の伊175の雷撃を受けて沈没。太平洋戦争でアメリカ軍が最初に失った護衛空母となった。
概要
1942年12月12日、ワシントン州バンクーバーに所在するカイザー造船所で起工。当初の艦名はアミールでありイギリス海軍に譲渡される予定だったが、計画の変更によりアメリカが取得してボーグ級護衛空母バフィンズが代わりに譲渡された。1943年4月19日、ベン・モレル少将の妻クララ・クリンクシック夫人の後援によって進水。6月28日にリスカム・ベイと命名される。艦名はアラスカ半島南東沖にあるダール島のリスカム湾から取られた。7月15日に船体分類記号のCVE-56が割り当てられ、8月7日に竣工。
1943年8月7日に竣工したリスカム・ベイはサンディエゴに回航され、9月22日にサンディエゴにて艦載機60機を受領して南カリフォルニア沖で慣熟訓練を開始。10月11日、ヘンリー・M・ムリニクス少将が乗艦して第24空母師団の旗艦となる。10月21日、アメリカ本土を出港して10月27日に真珠湾へ到着。ハワイ沖で追加の訓練と演習を行って練度を高めた。11月上旬、ギルバート諸島への侵攻を行うカルヴァニック作戦への参加が決定。リスカム・ベイ率いる第24空母師団は第52任務部隊の指揮下に入って初陣を迎える。
11月10日、真珠湾を出港してギルバート諸島攻略の支援に向かう。第24空母師団はマキン島に割り当てられ、11月20日午前5時から始まった上陸作戦を援護。第24空母師団は延べ2278回に渡って艦載機を出撃。日本軍の航空基地を無力化し、防御陣地の爆撃と機銃掃射を行い、日本軍機の迎撃を追い返した事でアメリカ軍の地上作戦を円滑に進めさせた。その甲斐あって上陸から僅か76時間後にマキンを制圧。しかし島内にはゲリラ戦に移行した日本兵が潜伏しており海兵隊が掃討に手間取った結果、他の艦艇が後退していく中で第24空母師団は近海に留まり続けた。
最期
1943年11月24日黎明、マキン環礁の南西32kmを15ノットで航行していたリスカム・ベイ。潜水艦の襲撃は無いだろうとジグザグ運動を停止していた。午前4時30分に総員起床の号令が掛けられパイロットたちは午前5時5分までに集合を終えた。飛行甲板には燃料と爆弾の搭載作業を終えた13機の艦載機がずらりと並び、その下の格納庫には大量の弾薬と7機の航空機が収められていた。艦載機を発艦させるためリスカム・ベイは北東へ艦首を向けたその瞬間、右舷方向から4本の雷跡が伸びてきた。見張り員が雷跡に気付いて報告するも右舷艦尾部分に1本が命中。格納庫内の爆弾に誘爆して致命的な大爆発が起こり、飛び上がった破片が4600m離れた戦艦ニューメキシコにまで届いて第24空母師団の全艦艇が衝撃で揺さぶられた。
立ち昇ったキノコ雲は数千フィート上空にまで到達。爆発の衝撃で艦尾部分は切断され、艦体から血のように流れ出た黒い重油に炎が引火、飛行甲板に並べられていた航空機を吞み込んで火勢が増大し、たちまちリスカム・ベイは大炎上。既に消火装置は役に立たなくなっていた。生存者は海への脱出を試みたが艦の周辺を囲んで燃え盛る炎の壁が妨げる。
被雷から23分後の午前5時33分、リスカム・ベイは右舷に傾いて沈没。ムリニクス少将や艦長ウィルトジー大佐を含む53名の士官と乗組員591名が死亡し、12機のアベンジャー、7機のFM-1ワイルドキャット、4機のF4Fワイルドキャットが道連れとなった。リスカム・ベイを葬ったのは日本海軍の潜水艦伊175であった。その後、伊175は護衛艦艇からの爆雷攻撃を掻い潜ってクェゼリンに帰投した。
その後
リスカム・ベイの喪失は、アメリカ海軍にとって太平洋戦線における最初の護衛空母喪失となった。また沈没時に全乗員の4分の3に相当する644名の戦死者を出した事で海軍史上最悪の沈没事故の一つに数えられる。この件が大きく影を落としたらしく、前線の将兵からはカサブランカ級を燃えやすい(Combustible)、壊れやすい(Vulnerable)、消耗品(Expendable)、略してCVEという蔑称で呼ぶようになり、魚雷1本であっさり沈められたためアメリカ軍は爆弾庫の周りを燃料タンクで囲む対策を全カサブランカ級に施したが、航空作戦を優先して本格的な対策を取らなかったばかりに今後も特攻機の突入などで火だるまになって沈没する艦が出ている。
ギルバート諸島の攻略作戦自体は成功したものの、伊175によりリスカム・ベイが、トラックの監視任務に就いていたガトー級潜水艦コーヴィナが伊176に撃沈されていて少なくない代償を支払った。
関連項目
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