二見単語

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フタミ
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二見(ふたみ)とは、

  1. かつて三重県度会に属していた町(2005年伊勢市に吸収合併されて消滅)
  2. 日本苗字の一つ。→日本の苗字(名字)の一覧
  3. 大日本帝國海軍が運用していた熱海砲艦2番艦
  4. 父島にある港の名前

である。

2の一覧

実在の人物

架空のキャラクター

その他

  • 二見書房 - 日本の出版社。

3の概要

熱海型砲艦

熱海砲艦1927年度計画で建造が決定。前の運用実績と現地調査で得た情報をもとに、勢多良した新しい砲艦である。勢多は大化し、重量過多になりつつあったため熱海は小化に務めた。軍艦が小化するケースは非常にしい。しかし長期の航に耐えられるよう装備が後付けされ、結局大化してしまった。

ちなみに今までの砲艦は航続距離が短く、支那で活動するには上海武漢まで分解状態で運び、現地で組み立てるのが流だった。熱海砲艦にしては航続距離に優れ、初めて分解せず本土から支那へ自回航した砲艦となった。また砲艦外交的によく使用されるため、菊の御紋を艦首に付けて軍艦扱いされた。

機関は勢多同様混燃が採用されたが、運用実績から重を減らして石炭を増やしている。

戦歴

1929年6月25日永田所にて起工。9月11日に二見と命名され、類別等級を二等砲艦に制定。11月20日に進し、同30日に擬装委員長として掘勇五郎少佐が着任。12月7日、造所内に装員事務所を設置して事務を開始。1930年2月22日大阪港外で試験を実施。そして2月28日工。佐世保鎮守府に編入され、第一予備艦となった。3月4日大阪港を出発してに回航され、自で揚子江に到着した。

排水量206トン、全長46.3m、全幅6.3m、喫0.92m、出1200、速16.7ノット、乗員77名。武装は28口径8cm1門、機関銃6丁。艦名の由来は三重県の二見湾から。

1933年6月14日砲艦とともに上海から重慶に向かって揚子江を遡行中、上流の万県手前で突如操不能になる。路図には載っていない暗礁に乗り上げて座礁してしまったのだ。7月8日に離礁し、引き返して上海修理を受けた。1936年6月1日、類別等級の変更により砲艦となる。同時に軍艦から除かれ、艦首の菊の御紋が外された。1937年8月第二次上海事変が勃発。僚艦とともに二見も出撃し、増援部隊上海上陸を支援。長江川を遡行して中国国民党軍を攻撃した。10月20日支那事変勃発の長期化により第3艦隊第11戦隊に転属。これまでに何度か対兵装と通信機が強化されている。

1941年12月8日大東亜戦争が勃発。上海拠点に四方八方へ動き回り、支那派遣軍作戦支援1943年1月7日、大通下流8里で座礁した南需第43号の救援を行う。7月6日午前9時、蘄(きしゅう)県の塹壕を築く国民党軍を発見し、撃。約1時間後に陸戦隊を揚陸して制圧した。1944年10月10日支那方面艦隊揚子江方面特別根拠地隊第23砲艦隊に転属。上海で入渠整備を受ける。11月28日砲艦隅田から重の補給を受ける。

戦況が悪化してくると後方の上海にも敵艦載機が飛来。1944年12月7日15時、九江にP-51戦闘機4機が出現し、初の対戦闘を行っている。そこから毎日のように敵機が襲撃し、苦闘を強いられている。1945年5月24日上海への回航命が下り、25mm単装機2名と機手6名を供出。武漢派遣された。5月29日には擬装と機関を持っていかれ、航行不能と化す。そしてこの状態のまま8月15日終戦を迎えた。9月30日に除籍。

終戦を迎えても二見の戦いは終わらなかった。今度は中国国民党に接収され、永安(ユンアン)と名。第二次共内戦に投入された。1949年11月30日、朔江で中国共産党軍と交戦して投降。そのまま拿捕され、珠江と名された。その後、1960年代まで運用されて退役・解体された。

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