仁木義長(?~1376)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
概要
仁木氏は細川氏と同じく足利義兼の兄・足利義清の子孫であり、庶流も庶流なので鎌倉時代はほとんど被官のような存在だった家門である。その仁木氏の家格を一気に上げたのが仁木頼章、仁木義長兄弟なのだ。
仁木義長は元弘の乱の足利高氏の討幕への参加から協力し、建武政権から離脱した際も歩調を同じくし、多々良浜の戦いでは菊池武敏軍を圧倒させる活躍をみせた。その後九州探題が設置された際、一色範氏の補佐として残されたが、室町幕府が成立すると京に上り、以降兄ともども尊氏の補佐を務めた。
彼に対する足利尊氏の信頼は絶大で、備後、遠江、伊賀、伊勢、志摩5カ国の守護と侍所頭人に任じられたのだ。観応の擾乱が起きると兄ともども積極的尊氏派に属し、高い信頼を勝ち得、見事に勝利していったのである。
しかし1358年の足利尊氏、1359年の仁木頼章の死後、仁木義長は後任の執事となった細川清氏と不和になる。清氏は土岐頼康、畠山国清を味方につけると討伐軍を組織し、一方仁木義長は足利義詮を味方につけようとする。しかし逆に細川清氏に義詮を抱きこまれ逆賊として認定され、敗走。南朝に降ったものの積極的な軍事活動は行わず、1366年に帰参した。
そして伊勢の守護に復帰したものの、以後仁木氏の勢威は振るわず、乱世によって築いた権勢は乱世の中で消えていったのであった。
関連項目
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