概要
定義
地方切り捨てとは、財政収入の乏しい地方公共団体に渡すお金を中央政府が削減したり、財政収入の乏しい地方自治体の主力産業である農林水産業を保護する関税を中央政府が削減したりすることを批判的に表現する言葉である。
地方切り捨ての「地方」とは、財政収入の乏しい地方公共団体のことを意味するのであり、財政収入に恵まれた地方公共団体のことを意味するのではない。
方法
地方切り捨てを実現するには様々な方法がある。
都市国家への復古
地方切り捨てを行うと、財政収入の乏しい田舎の地方公共団体から人口が流出し、財政収入に恵まれた都会の地方公共団体に人口が流入する。ゆえに地方切り捨てを行うと田舎の過疎化が進んで都会の過密化が進む。
ある国において田舎の過疎化が進んで都会の過密化が進むことは、その国が「面」を支配する領域国家という国家形態から離れていくことを意味するし、その国が「点と線」を支配する都市国家という国家形態に近づいていくことを意味する。
都市国家というのは人類の歴史の中で最初に出現した国家形態である。中国でもヨーロッパでもメソポタミアでもインドでも、まず最初に「点と線」を支配する都市国家が出現して、そのあとに田舎に人が進出していって「面」を支配する領域国家が出現した。
そこから考えると、「地方切り捨ては歴史を逆戻りさせる復古的な現象である」ということができる。
長所
地方切り捨てをすると、ロクな産業もない土地にお金を注ぎ込んで人を張り付かせるという無駄で非効率的なことから解放されるようになり、人的資源配分の効率化が進む。
地方切り捨てをすると、生産性の低い産業しか存在しない田舎から人が逃げ出すようになり、生産性の高い産業が集中する都会に人が流れ込むようになる。
地方切り捨てをすると、生産性の高い産業に属する企業は、労働需要が一定であるのに対し労働供給が増えるので、低い賃金を支払うようになり、人件費の削減が進み、税引後当期純利益が増え、株主に支払う配当が増え、株価が上昇し、株式を発行して返済の必要のない資金を得ることが可能になり、発展しやすくなる。つまり、地方切り捨てをすると株主資本主義が達成される。
短所
地方切り捨てをすると、財政収入の乏しい地方自治体の過疎化が進み、人口空白地域が多く発生する。人口空白地域というものは凶悪犯罪者が凶悪犯罪の証拠品を隠滅することが容易な場所であり、治安の悪化を引き起こす場所である。つまり地方切り捨てをすると人口空白地域の発生を引き起こして治安を悪化させる。
治安が悪化した国ではカントリーリスクが増大し、国際的投資家がその国の企業に対してリスクプレミアムを高く設定するようになり、その国の企業が投資の資金を借り入れるときに多くの利子を支払うようになり、その国の企業の設備投資が少なくなる。設備投資が少なくなると将来において資本ストックが減少し、国家の供給力が小さくなり、経済が停滞する。
支持者
新自由主義や株主資本主義を支持する人に地方切り捨てを支持する人が多い。
財政収入の乏しい地方公共団体の選挙において自民党が強いことに対して不満を持つ人の中に、地方切り捨てを支持する人がいる。そういう人は「自民党が財政収入の乏しい地方公共団体の選挙に強い理由は、公共事業の利権をもたらしているからであり、金で票を買っているようなものである」と厳しく非難する傾向にあり、財政収入の乏しい地方公共団体において国庫支出金を投入して公共事業をすることに猛反対する傾向にある。
地方切り捨てを側面支援する性質を持つ政治運動や思想
地方切り捨てを直接的に支持するわけではないが、地方切り捨てを側面支援する性質を持つ政治運動や思想がある。それは一票の格差を問題視する政治運動であり、「手つかずの自然は尊い」という思想である。
これらについて本記事の『地方切り捨てを側面支援する性質を持つ政治運動や思想』の項目で紹介する。
地方切り捨ての方法
国庫支出金と公共事業の削減
地方切り捨てで使われる手段の1つは、財政収入の乏しい地方公共団体に対する国庫支出金を削減したり、財政収入の乏しい地方公共団体における道路などの公共事業を削減したりするものである。
地方公共団体において公共事業をするときは国庫支出金が中央政府から地方公共団体に支払われることが常である。ゆえに、国庫支出金の削減と公共事業の削減は表裏一体であり、同時に行われる。
財政収入の乏しい地方公共団体における道路などの公共事業に反対するときによく使われる言い回しは「人よりも動物が多いような土地で公共事業をするのは無駄である」というものである。その中で最も有名なものは石原伸晃の「北海道の高速道路でヒグマが跳ねられた。車よりクマが多いからだ」という発言である[1]。
財政収入の乏しい地方公共団体において国庫支出金と公共事業を削減することは、「国土の均衡ある発展」という標語とは正反対の政策である。
「国土の均衡ある発展」の元祖というべき政治家は田中角栄であり、その田中角栄の在籍していた派閥を引き継ぐ派閥というと経世会である。そのため地方切り捨てを目指す政治勢力は田中角栄を厳しく非難し、経世会を批判の対象にする[2]。
農林水産業の分野で自由貿易を導入する
財政収入の乏しい地方自治体は必ずと言っていいほど農林水産業を主力産業にする。
その農林水産業の分野で自由貿易を導入して農林水産業に対する保護関税を撤廃すれば、地方切り捨てを実現することができる。
農林水産業の分野における自由貿易により農林水産業が大打撃を受けるのだが、地方切り捨てを目指す人は「農林水産業がGDPに占める割合は非常に少ないので、それらの産業を潰しても全く問題にならない」という態度を示す[3]。
農林水産業の分野の価格統制を廃止する(日本ではまだ導入されていない)
日本政府は農産物や林産物や水産物の価格を統制する体制を維持していて、農林水産業に従事する者の収入が安定するように努めている。たとえば、天候に恵まれて農家が農産物を過剰に作りすぎてしまったとき、農産物を廃棄して農産物の供給を減らして農産物の価格を高い状態に維持している。こういう政策を「豊作貧乏を防ぐための緊急需給調整施策」といい、農林水産省や農協が指導して行っている。
地方切り捨てを目指す人は、農林水産業の分野における政府の価格統制を敵視し、そうした政策を「全体主義のような統制経済」と厳しく非難することが多い。
農林水産業の分野における政府の価格統制が廃止されれば、農林水産業の窮乏化が進み、地方切り捨てが進んでいく。
地方交付税交付金の制度を廃止する(日本ではまだ導入されていない)
地方切り捨てを目指す人は、地方交付税交付金の制度を敵視する傾向があり、「有力な産業がある豊かな地方公共団体に住む個人・企業から富を吸い上げて、ロクな産業がない貧乏な地方公共団体へ富をばらまく制度である」と猛批判する傾向がある。
地方切り捨てを目指す人は、地方交付税交付金の制度を廃止することを主張する。
地方交付税交付金の制度が廃止されれば、「財政収入の乏しい地方公共団体は粗末な校舎の学校しか建設できず、財政収入に恵まれた地方公共団体は立派な校舎の学校を建設できる」といった現象が起こるようになり、地方公共団体の間で格差が拡大し、地方切り捨てが進んでいく。
地方切り捨てを側面支援する性質を持つ政治運動や思想
一票の格差を問題視する政治運動
日本において一票の格差を問題視する政治運動が行われることがあり、国政選挙が終わった直後に全国各地の裁判所で議員定数不均衡訴訟が起こされることがその典型例である。
一票の格差を問題視して衆院選や参院選の区割りを変更すると、人口過疎地域において選挙区が巨大になり、立候補者がその選挙区を回りきれなくなって民意を吸収できなくなり、「国庫支出金で公共事業の援助をしてほしい」という声を集めきれなくなり、地方切り捨てが進んでいく。
また、一票の格差を問題視して衆院選や参院選の区割りを変更すると、人口過疎地域を代表する国会議員の数が減り、人口過密地域を代表する国会議員の数が増え、人口過疎地域の意見が国会の多数決の場で通らなくなり、「国庫支出金で公共事業の援助をして人口過疎地域を助けよう」という法案が通りにくくなり、地方切り捨てが進んでいく。
「手つかずの自然は尊い」という思想
地方切り捨てを側面支援する性質を持つ思想というと「手つかずの自然は尊い」という思想である。
「手つかずの自然は尊い」という思想は「自然は尊い」という思想と似ているが、一致していない部分がある。「自然は尊い」という思想は、人が林業を通じて植林する人工林もある程度まで肯定することになる。しかし「手つかずの自然は尊い」という思想は人が林業を通じて植林する人工林を否定することになり、人の手があまり入っていない天然林や、人の手が全く入っていない原生林を大いに肯定することになる。
「手つかずの自然は尊い」という思想は、自然に人の手を加えることを嫌がる思想であり、農業や林業を否定する思想であり、「日本において農業や林業はGDPへの貢献度が非常に少ないから縮小してしまえばいい」とか「恵まれない土地から撤退して恵まれた土地に集まればよい。それが無駄を排除した効率化というものだ」という地方切り捨ての政策の追い風になりやすい思想である。
「手つかずの自然は尊い」という思想に対して批判的な人は「手つかずの自然のなかに凶悪犯罪者が兇悪犯罪の証拠を隠滅することがある。手つかずの自然は凶悪犯罪の温床になりやすいものであって、危ない場所である。手つかずの自然はものすごく尊いわけではない」と言ってみたり、「手つかずの自然に立ち入る人は、『ここで遭難したら誰にも見つからず、あの世行きになる』と直感して遭難への恐怖心が心の中に湧き起こる。そうした遭難への恐怖心を『手つかずの自然に対する畏怖心』に錯覚しているだけではないか」と言ってみたりする。
「手つかずの自然の中に尊い場所がある」という思想
「手つかずの自然は尊い」という思想によく似た思想として、「手つかずの自然の中に尊い場所がある」という思想がある。この思想も「手つかずの自然の中に神聖な場所があるのだから、手つかずの自然を残したままにしよう」という考えを生みやすく、農林水産業の否定につながりやすく、地方切り捨ての政策の追い風になりやすい。
「手つかずの自然の奥深くに、豊かに水が湧き出てくるような静かで清浄で神聖な場所がある。そうした場所についてのイメージが日本人の魂の奥底にひそかに残っていて、日本人は『逝去したらそこに帰りたい』と誰もが考えている」という思想がある[4]。
ちなみに日本は火山が多い国であり、全世界の活火山の7%が日本に集中しているほどである(資料)。火山の周辺には火山噴出物(火山砕屑物)が積もっていて、普通の土でできた土地よりも隙間が多くて水を通しやすい土地になっており、雨が降ったら地下に水がしみ込んでいきやすく、地下水や湧き水を作り出しやすい(資料1、資料2)。火山である富士山の周辺には湧き水が多く、各種の飲料メーカーがその湧き水を利用してミネラルウォーターを作っている。静岡県富士市も地下水を使って上水道を供給している(資料1、資料2)。火山の多い日本国では湧き水が多く、手つかずの自然の奥深くに豊かに水が湧き出てくるというような風景が発生しやすい。
つまり、「手つかずの自然の奥深くに豊かに水が湧き出てくるような静かで清浄で神聖な場所がある」という思想は、火山国特有の思想ということができる。
関連項目
脚注
- *石原伸晃は、2001年10月16日に島根県松江市でのタウンミーティングで「北海道の高速道路でヒグマが跳ねられた。車よりクマが多いからだ」と発言した。この発言は2004年4月14日衆議院国土交通委員会でも取り上げられ、国土交通大臣に就任していた石原伸晃は答弁に追われている(資料1、資料2、資料3)。
- *日本において新自由主義と地方切り捨ての推進者となったうちの1人は小泉純一郎だが、その彼は、1990年代後半に「経世会支配からの脱却」を訴えていた。経世会は田中角栄の流れを汲む自民党の派閥であるので、「経世会支配からの脱却」は「田中角栄が推進した政治からの脱却」という意味になる。
- *2010年10月19日に、前原誠司外務大臣は「日本のGDPのうち、農業など第1次産業は1.5%。1.5%を守るために98.5%が犠牲になっているのでは」と講演で発言した(記事)。外務省が作成する外交専門誌の『外交 vol.4』においても、8ページで全く同様の発言をしている(資料)。このときの日本政府はTPPという自由貿易協定の加入に前向きだった。
- *この思想を持っているとされるのが宮崎駿であり、「TECH WIN 10月号別冊/VIDEO DOO! vol.1(1997年10月1日 アスキー)」などのインタビュー記事でそのようなことを語っている。杉田俊介は、「宮崎駿は『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』『となりのトトロ』『もののけ姫』『風立ちぬ』といった映画で、手つかずの自然の奥深くにある清浄で神聖な場所を描写している」と指摘している(宮崎駿の自然観について-そのアジア主義的な命脈-杉田俊介)。
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