酒井忠清(1622~1681)とは、江戸時代前期に活躍した大名である。
概要
酒井忠世の孫として生まれ、寛永13年(1636年)の酒井忠世、および翌年である寛永14年(1637年)の父・酒井忠行の死後、遺領10万石を引き継ぎ、従五位下・河内守に任じられた。この時点で晴儀の役を命じられる等、すでに門閥譜代として重んじられてたようだ。
徳川家光没後の承応2年(1653年)には老中に任じられ、同族・酒井忠勝と同格どころか、書類上では筆頭の位置にあった。承応3年(1654年)には同じく老中だった松平乗寿が亡くなり、明暦2年(1656年)には徳川家綱元服のために酒井忠勝が隠居。さらに寛文2年(1662年)に松平信綱も亡くなると、その前年に若年寄を復活させ、久世広之・土屋数直両名を任じていた。寛文3年(1663年)には武家諸法度を改正して殉死を禁止。久世広之を老中に任じる。さらに寛文5年(1665年)には養子の制度を改める。
かくして平時体制への移行ともいえる「寛文の治」を主導した酒井忠清だったが、延宝年間になると評判は芳しくなかった。というのも、すでに老臣たちは退き、また徳川家綱が病弱だったため家綱側近系の老中は振るわず、忠清一人の専横に映ってしまっていたためである。
かくして延宝8年(1680年)に徳川綱吉が将軍に就任すると、有栖川宮幸仁親王を迎え入れようとしたかどうかはともかく、あっけなく免職されてしまった。その後天和元年(1681年)に酒井忠清は亡くなる。
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