P26/40(P40)とは、イタリア軍が第二次大戦中に開発した重戦車である。
開発経緯
1939年に第二次世界大戦が勃発した時点で、ムッソリーニ率いるイタリア軍の機甲戦力の「数の上での」主力は、2000両以上生産されていたCV33をはじめとするカルロ・ベローチェ(快速戦車)であった。(一応100両程度のM11/39中戦車も保有していた。)
このカルロ・ベローチェであるが、いわゆる豆戦車であり、乗員2名、武装は8ミリ重機関銃2挺と、連合軍に相対するには心もとないどころの騒ぎではなかった。(実際に、主な用途は偵察・輸送等であった。)
100両程度しかない正に虎の子であるM11/39にしても、主砲は40口径37ミリ砲であり、イギリス軍のマチルダⅡなどには全く歯がたたない状況であった。
この事態を重く見たイタリア軍は、1940年に同車の主砲を47ミリ砲にするなどの改設計を行ったM13/40を開発するなど戦力の増強を進めるが、焼け石に水。
さらなる機甲戦力の増強のため、同年の1940年に設計が開始されたのが、P26/40重戦車である。
名称について
名称における「P」とはイタリア語で「重い」を意味する“Pesante”、「26」は戦車の重量を表し、「40」は1940年に採用が決定したことを表している。また、イタリア軍における正式名称は「カルロ・アルマートP26/40」であるが、カルロ・アルマートとは装甲車両を表している。
M13/40の記事を参考にして和訳するならば、「26トン級40年式重装甲車両」となる。
・・・えっ?26トンだとドイツのⅣ号戦車と同じぐらいで重戦車とはいえないだろうって?
いーんだよ自国開発の中では一番重い戦車なんだから(その辺は13トンしかない戦車に中戦車名乗らせる極東の同盟国と事情は似ている)
開発経過
このようにかなり切迫した状態で始まったP40の開発であるが、エンジンをガソリンエンジンにするかディーゼルエンジンにするかでいきなり大揉めしている。イタリア軍側としては、比較的難燃性の高いディーゼルエンジンの採用を要求したが、要求性能を満たすディーゼルエンジンを新規開発する時間がなかったこともあり、結局イタリア軍で生産したP40にはガソリンエンジンを採用している。
エンジンを決定した後、試作車両が制作されていったP40であったが、またもや苦難に襲われる。同盟国ドイツよりソ連軍のT-34の情報がもたらされたのだ。
大口径主砲の攻撃力、傾斜装甲による防御力、幅の広い履帯による走破性と、正に三拍子揃った大戦中の傑作中戦車。ドイツ軍にすらT-34ショックを起こさせたのだから、イタリア軍が受けた衝撃は想像に難くない。
それまではM13/40の拡大設計版に過ぎなかった試作車両の設計は急遽変更され、傾斜装甲を備えた見た目たのもしい戦車となった。
なお、T-34は傾斜装甲はもちろん、鋳造一体型の装甲であることもその防御力の向上に寄与していたが、当時のイタリアは鋳造装甲を作る能力に乏しかったため、傾斜装甲ではあるが装甲はリベット留めという、ある種アンバランスな見た目となっている。
リベット留めであるため、被弾した際、装甲を貫通していなくても、衝撃でリベットが剥離、飛散し、内部の乗員を殺傷する危険があった。
また、ドイツのⅣ号戦車が5名乗りであるのに対して、P40は4名乗りであった(車長が砲手を兼ねていた)ため、照準中の周辺警戒や砲塔の旋回など、戦闘能力に問題が残っていた。
しかし、様々な問題がありつつも、26トンの車体に長砲身75ミリ砲を備えたP40は、紛れも無いイタリア軍最強の戦車として華々しく活躍!
・・・するはずだった。
活躍
紆余曲折あり、ついに産声を上げたP40であったが、1940年に設計開始の本車両、エンジン選定の際のひと悶着の影響か、試作車両初号機ができたのは2年後の1942年である。
これに加え、先述のT-34ショックによる改設計もあり、完成は更に遅れ、500両の生産が発注されていた本車は、1943年9月のイタリア休戦の時点で21両程度しか生産されていなかった。
結局イタリア時代には陽の目を見ること叶わなかったP40であったが、一部先進的な設計と長砲身75ミリ砲の火力はドイツ軍も注目し、100両程度がドイツ軍傘下で生産(この際のエンジンは念願のディーゼルエンジンである。)され、約60両がアンツィオの戦いに投入されるなどしている。
(残りの約40両はエンジンの不足により完成に至らず、トーチカとして運用された。)
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