ギャラントフォックス(Gallant Fox)とは、1927年生まれのアメリカの競走馬。
1930年に現行の米国三冠を全て制し、事実上の「初代米国三冠馬」となったスターホース。
名前を直訳すると「勇敢な狐」となる。
父Sir Gallahad、母Marguerite、母父Celtという血統。
父サーギャラハッドはフランスでプール・デッセ・デ・プーラン(仏2000ギニー)やジャック・ル・マロワ賞を優勝した名マイラーで、種牡馬として本馬を始め活躍馬を多数送り出し、最終的に北米リーディング4回・北米母父リーディング12回を記録した世界的大種牡馬である。母は未勝利ながら繁殖牝馬として抜群の成績を残し、本馬の他にも重賞馬を数頭送り出した。母父は1921年の北米リーディングサイアーと、まず良血と言って些かも差し支えない。
因みに本馬の全妹であるマルグリーから世界的な名牝系が構築され、一族にはトリプティクやジェネラス、トレヴやフリオーソが出ている。
ウッドワードステークスにその名を残すウィリアム・ウッドワード卿が所有するベルエアスタッドにて生産され、同スタッドの名義で競走馬生活を送ることとなった。出生自体はウッドワード卿の盟友であるブル・ハンコック所有のクレイボーンファームである。因みにサーギャラハッドをフランスから連れてきたのはハンコックであり、ウッドワード卿はシンジケートの会員で積極的に持ち馬と交配させた。その為かギャラントフォックスには全兄弟が多い。
幼少期のギャラントフォックスは好奇心旺盛な馬で、かつ調教でぶっ飛ばす程走るのが好きだったようで、併せ馬をする際には何度もパートナーを替える必要があった。因みに白目の部分が多い、いわゆる三白眼であり、最終的に550kg近くになる大柄な馬体も合わさって威圧感ある風格を持っていた。
ギャラントフォックスを預かったのは米国屈指の名トレーナー、ジェームズ・E・フィッツシモンズ調教師である。ウッドワードの所有するベルエアスタッドと懇意の関係にあり、ベルエアスタッドの馬を多数預かっていたが、その代表格にしてフィッツシモンズをスターダムへと押し上げたのが本馬、ギャラントフォックスである。
1929年の6月にアケダクト競馬場でデビュー。しかしここを3着に敗れると、続くトレモントSも8着(盛大に出遅れたらしい)。3戦目には勝ち上がるが今一勝てないレースが続く。どーしてかなーと思っていた所、マイル戦のジュニアチャンピオンSに出走させると2馬身差をつけて勝利。どうやら2歳戦特有の短い距離はお好きではなかったらしい。2歳時は7戦2勝で終わった。
3歳になると鞍上に当時32歳ながら東海岸屈指の腕っこきであるアール・サンデ騎手を迎え、以後サンデが手綱を握り続けた。前哨戦であるウッドメモリアルSをあっさり勝利し、意気揚々とプリークネスステークスへと向かう。
え? ケンタッキーダービーが先じゃないのかって? 実は1930年代まではプリークネスステークスの方が先に開催されたり、場合によってはケンタッキーダービーと同日開催の年もあった。当時米国三冠路線は確立されていなかったのである。
閑話休題。そのプリークネスステークスは道中進路が塞がれる不利があったが、馬群をすり抜けて直線の叩き合いを制し、3/4馬身差を付けて勝利。続くケンタッキーダービーでは大雨の中第17代ダービー伯爵が来場し、6万人を超える大観衆の中、4コーナー先頭に立つと後続の追撃を許さず2馬身差で押し切り勝利を収める。
最後のベルモントステークスでは前年の2歳王者ウィッチワンが復活して来たため2番人気に落ちる。しかし4コーナーで先頭に立つと、そのウィッチワンが追撃してくる中、むしろ差を離し続け、3馬身差を付けて快勝。
このベルモントステークスに前後して、米国の競馬記者であるブライアン・フィールド(チャールズ・ハットンという説もある)が本馬の活躍を見て、「三冠(Triple Crown)」という表現を用いた記事を執筆。本馬の快挙と相まって、ケンタッキーダービー、プリークネスステークス、ベルモントステークスによる米国三冠という概念が誕生した。
という訳で本馬が最初の米国三冠馬……と思ったが1919年にサーバートンが上記の3競走を制覇していた。一応当時はギャラントフォックスが初代三冠馬だったが、後に遡ってサーバートンが初代三冠馬と認定された事により、現状ではギャラントフォックスは二代目三冠馬という事になる。
ベルモントステークス終了後も休みなく走り続けたが、更に2連勝した後のトラヴァーズステークスにおいて、超不良馬場に臆さず最内を抜けていった単勝100倍のジムダンディが外を回った本馬を8馬身突き放すという大穴をこじ開け、連勝は7でストップ。米国競馬史に残る大番狂わせとして名を残す。
それでも本馬には何ら影響はなく、その後再び3連勝を飾り引退。最終レースはダート16ハロン(約3200m)のジョッキークラブ金杯である。獲得賞金32万8165ドルは引退当時の北米レコードである。次の年にサンボウに抜かれたけど。
代表産駒には1935年にケンタッキーダービー、プリークネスステークス、ベルモントステークスを勝ち、父子での三冠を達成したオマハがいる。父子による米国三冠達成は現在でもギャラントフォックスとオマハ親子のみである(別の国ならアファームドがカナダ三冠馬を出してる)。オマハの管理もフィッツシモンズ師であり、ボブ・バファートがアメリカンファラオとジャスティファイで三冠を達成するまで、三冠馬2頭を管理した調教師はフィッツシモンズ師のみであった。
他にもベルモントS優勝馬グランヴィル、アスコット金杯優勝馬フレアーズがいる。
1953年、26歳で死亡。その後は生まれ故郷のクレイボーンファームにて埋葬された。
彼の活躍した時代、アメリカ国内では世界恐慌の影響により未曾有の混乱が生じていた。そんな中、レースで赤いフードを被り、直線で他馬に影すら踏ませぬ圧倒的な強さを誇った本馬は、"The Red-headed-horse"、すなわち「赤い頭の馬」との愛称で呼ばれ、活力を失った全米に、英雄として颯爽と登場した。
死後の1957年にアメリカ競馬の殿堂入りを果たし、1999年に選定された「20世紀のアメリカ名馬100選」では28位に位置している。
Sir Gallahad 1920 鹿毛 |
Teddy 1913 鹿毛 |
Ajax | Flying Fox |
Amie | |||
Rondeau | Bay Ronald | ||
Doremi | |||
Plucky Liege 1912 鹿毛 |
Spearmint | Carbine | |
Maid of the Mint | |||
Concertina | St. Simon | ||
Comic Song | |||
Marguerite 1920 栗毛 FNo.4-n |
Celt 1905 栗毛 |
Commando | Domino |
Emma C. | |||
Maid of Erin | Amphion | ||
Mavourneen | |||
Fairy Ray 1911 栗毛 |
Radium | Bend Or | |
Taia | |||
Seraph | St. Frusquin | ||
St. Marina |
クロス:St. Simon 4×5(9.38%)、Bend Or 5×4(9.38%)
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最終更新:2024/06/04(火) 01:00
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