ギャラントフォックス 単語

ギャラントフォックス

3.3千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

ギャラントフォックス(Gallant Fox)とは、1927年生まれのアメリカ競走馬

1930年に現行の米国三冠を全て制し、事実上の「初代米国三冠馬」となったスターホース
名前を直訳すると「勇敢な」となる。

生い立ち

Sir Gallahad、Marguerite、Celtという血統。

サーギャラハッドはフランスプール・デッセ・デ・プーラン(2000ギニー)やジャック・ル・マロワ賞優勝した名マイラーで、種牡馬として本を始め活躍を多数送り出し、最終的に北リーディング4回・北リーディング12回を記録した世界的大種牡馬である。は未勝利ながら繁殖牝馬として抜群の成績を残し、本の他にも重賞を数頭送り出した。は1921年の北リーディングサイアーと、まず良血と言ってかも差し支えない。

因みに本の全であるマルグリーから世界的な名牝系が構築され、一族にはトリプティクやジェネラス、トレヴフリオーソが出ている。

ウッドワードステークスにその名を残すウィリアムウッドワード卿が所有するベルエアスタッドにて生産され、同スタッドの名義で競走馬生活を送ることとなった。出生自体はウッドワード卿の盟友であるブルハンコック所有のクレイボーンファームである。因みにサーギャラハッドをフランスから連れてきたのはハンコックであり、ウッドワード卿はシンジケートの会員で積極的に持ちと交配させた。その為かギャラントフォックスには全兄弟が多い。

幼少期のギャラントフォックスは好奇心旺盛なで、かつ調教でぶっ飛ばす程走るのが好きだったようで、併せをする際には何度もパートナーを替える必要があった。因みに白目の部分が多い、いわゆる三白眼であり、最終的に550kg近くになる大柄な体も合わさって威圧感ある格を持っていた。

トリプルクラウンを作った男

ギャラントフォックスを預かったのは米国の名トレーナージェームズ・E・フィッツシモン調教師である。ウッドワードの所有するベルエアスタッドと懇意の関係にあり、ベルエアスタッドのを多数預かっていたが、その代表格にしてフィッツシモンズをスターダムへと押し上げたのが本、ギャラントフォックスである。

1929年6月にアケダクト競馬場デビュー。しかしここを3着に敗れると、続くトレモントSも8着(盛大に出遅れたらしい)。3戦には勝ち上がるが今一勝てないレースが続く。どーしてかなーと思っていた所、マイル戦のジュニアチャンピオンSに出走させると2身差をつけて勝利。どうやら2歳戦特有の短い距離はお好きではなかったらしい。2歳時は7戦2勝で終わった。

3歳になると上に当時32歳ながら東海の腕っこきであるアール・サンデ騎手を迎え、以後サンデが手綱を握り続けた。前戦であるウッドメモリアルSをあっさり勝利し、意気揚々とプリークネスステークスへと向かう。

え? ケンタッキーダービーが先じゃないのかって? 実は1930年代まではプリークネスステークスの方が先に開催されたり、場合によってはケンタッキーダービーと同日開催の年もあった。当時米国三冠路線は確立されていなかったのである。

閑話休題。そのプリークネスステークス中進路が塞がれる不利があったが、群をすり抜けて直線の叩き合いを制し、3/4身差を付けて勝利。続くケンタッキーダービーでは大雨の中第17代ダービー伯爵が来場し、6万人をえる大観衆の中、4コーナー先頭に立つと後続の追撃を許さず2身差で押し切り勝利を収める。
最後のベルモントステークスでは前年の2歳王者ウィッチワン復活して来たため2番人気に落ちる。しかし4コーナーで先頭に立つと、そのウィッチワンが追撃してくる中、むしろ差を離し続け、3身差を付けて快勝。

このベルモントステークスに前後して、米国競馬記者であるブライアンフィールド(チャールズ・ハットンという説もある)が本の活躍を見て、「三冠(Triple Crown)」という表現を用いた記事を執筆。本の快挙と相まって、ケンタッキーダービープリークネスステークスベルモントステークスによる米国三冠という概念が誕生した。

という訳で本が最初の米国三冠馬……と思ったが1919年にサーバートンが上記の3競走を制覇していた。一応当時はギャラントフォックスが初代三冠馬だったが、後に遡ってサーバートンが初代三冠馬認定された事により、現状ではギャラントフォックスは二代三冠馬という事になる。

ベルモントステークス終了後も休みなく走り続けたが、更に2連勝した後のトラヴァーズステークスにおいて、不良馬場に臆さず最内を抜けていった単勝100倍のジムダンディが外を回った本を8身突き放すという大穴をこじ開け、連勝は7でストップ米国競馬史に残る大番狂わせとして名を残す。
それでも本には何らはなく、その後再び3連勝を飾り引退。最終レースダート16ハロン(約3200m)のジョッキークラブ金杯である。獲得賞32万8165ドル引退当時の北レコードである。次の年にサンボウに抜かれたけど。

引退後

引退種牡馬となったが、こちらでも大成功を収めた。

代表産駒には1935年ケンタッキーダービープリークネスステークスベルモントステークスを勝ち、子での三冠を達成したオマハがいる。子による米国三冠達成は現在でもギャラントフォックスとオマハ子のみである(別のならアファームドカナダ三冠馬を出してる)。オマハの管理もフィッツシモンズ師であり、ボブバファートがアメリカンファラオジャスティファイ三冠を達成するまで、三冠馬2頭を管理した調教師フィッツシモンズ師のみであった。

他にもベルモントS優勝グランヴィルアスコット金杯優勝フレアーズがいる。

1953年、26歳で死亡。その後は生まれ故郷のクレイボーンファームにて埋葬された。
彼の活躍した時代、アメリカ内では世界恐慌により未曾有の混乱が生じていた。そんな中、レースフードを被り、直線で他すら踏ませぬ圧倒的な強さを誇った本は、"The Red-headed-horse"、すなわち「い頭の」との称で呼ばれ、活を失った全に、英雄として颯爽と登場した。

死後の1957年アメリカ競馬殿堂入りを果たし、1999年に選定された「20世紀のアメリカ名馬100選」では28位に位置している。

血統表

Sir Gallahad
1920 鹿毛
Teddy
1913 鹿毛
Ajax Flying Fox
Amie
Rondeau Bay Ronald
Doremi
Plucky Liege
1912 鹿毛
Spearmint Carbine
Maid of the Mint
Concertina St. Simon
Comic Song
Marguerite
1920 栗毛
FNo.4-n
Celt
1905 栗毛
Commando Domino
Emma C.
Maid of Erin Amphion
Mavourneen
Fairy Ray
1911 栗毛
Radium Bend Or
Taia
Seraph St. Frusquin
St. Marina

クロス:St. Simon 4×5(9.38%)、Bend Or 5×4(9.38%)

主な産駒

関連動画

YouTubeにはあったけど、ニュース映画みたいな

関連商品

関連コミュニティ

関連項目

この記事を編集する

掲示板

掲示板に書き込みがありません。

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/06/04(火) 01:00

ほめられた記事

最終更新:2024/06/04(火) 01:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP