トマーシュ・マサリクとは、下記の事物を指す
1.機動戦士Vガンダムの登場人物。詳細はトマーシュ・マサリク(ガンダム)を参照。
太陽発電衛星ハイランドに棲んでいた少年で、ハイランドがザンスカール帝国から解放されたのを機に、リガ・ミリティアに加入し、ザンスカール帝国との戦いに身を投じる。(CV:関智一)
チェコスロバキア共和国の政治家・哲学者。チェコスロバキア共和国初代大統領。本項で解説する。
1850年3月7日にオーストリア帝国(1867年からオーストリア=ハンガリー帝国)のホドーニンの労働者階級の家に生まれる。
ホドーニンの街は現在で言うとチェコとスロバキアのほぼ国境付近に位置する街であり、マサリクの父はスロバキア語話者で母はドイツ化したチェコ人でドイツ語話者であったという家庭で育ち、周りはモラヴィア訛りのチェコ語が話されているという環境で育った。
お世辞にも裕福な家庭の生まれとは言えなかったが、小学校の成績が極めて優秀であった事などから校長などの薦めもあって進学をし、当時のエリートコースであるドイツ語話者の古典学校にまで入ることができた。
その古典学校時代にドイツ語発音の押しつけに反発するなどして退学寸前に追い込まれるが、ウィーンの古典学校に編入して無事に卒業。ウィーン大学では哲学科に進んで博士号の学位を得た。
教授になってからはプラハの大学で講義をし、哲学の問題を提起し、学生とともに考えるスタイルの授業で学生たちには人気教授となったが、年配の教授からは講義内容に議論を吹っ掛けてくるなどしたため生意気だと嫌われていたという。
また、チェコの文学史に置いて重大な発見とされた手稿にも真実を明らかにしないと気が済まない性格から、捏造の可能性を手稿のインクの年代などまで科学的知見から推測して雑誌に問題提起したが、これでチェコの民族主義者には「ドイツの犬」と罵られるなどしたものの、名前自体は少しづつ有名になっていった(俗にいう『手稿論争』 ちなみに手稿はガチで捏造品だったと後年においては位置付けられた)。
そして一躍有名となったのが雑誌『チャス』の評論家としての活動であり、「経済のカイゼル」「法学のクラマーシュ」「哲学のマサリク」の三人はリアリスト・グループの異名を取る存在となり、チェコ政界も彼らに注目していた。
当時、帝国内のチェコ人政党でしのぎを削っていたのがチェコ人貴族や富裕層が支持基盤で帝国との共存共栄を目指す『老チェコ党』。それの保守的な態度に苛立った若手議員たちが離脱してチェコ民族の自治的要求を受け入れさせたい中産階級以下が支持基盤となった『青年チェコ党』の二党であった。
雑誌『チャス』は両党に貴族特権の廃止やチェコ語とドイツ語の平等を謳った綱領を突き付けて改革を促す。老チェコ党は支持基盤上この綱領を受け入れられなかったが、青年チェコ党は政策の作りこみが出来る人材が不足しており、この綱領を受け入れることでカイゼル・クラマーシュ・マサリクの3人を党員として取り込むことに成功する。
1891年の議会選挙では選挙のマニフェストをマサリクら3人が作り上げ、これを武器にして選挙戦を戦った結果、青年チェコ党は大きく議席を伸ばし、老チェコ党からチェコ民族活動の主導権を完全に奪取することに成功し、マサリクも初当選を果たした。
……が、たった2年で議員辞職した。原因は党内の派閥闘争などに着いていけなかった事、またチェコ的な民族論が哲学的な精神論ばかりでどう実現に向けられるか政治の場へ落とし込めていなかった自身の未熟さを痛感した事であったという。
こうして一旦は議員を辞めたマサリクは大学教授に戻ったが、政界挑戦の野心を捨てたわけではなかった。
1900年に『リアリスト党』の結党を宣言し、党首に就任。党の機関紙を『チャス』として再度の政界復帰を伺う。この政党の主張の目玉は「チェコ人の言語・文化的な自治」…すなわちボヘミア王国などのチェコの歴史的な領土ではなく、チェコ語文化圏に基づく自治権を目指す…要するにチェコ語っぽい言語を話しているお隣スロバキア(帝国内におけるハンガリー王冠領の北部)までを内包した自治権要求まで飛躍しうるという当時としてはトンデモな主張であった。実際、党の人気はあまり広がらなかったという。
1907年の選挙では弱小政党に不利な完全小選挙区制が採用され、さらに貴重なリアリスト党のスポンサー様のご要望に応えるために地縁もクソもない保守層の強い田舎の選挙区から出馬する事になって当選すら危ぶまれたが、大学教授らしい淡々と啓蒙を促すような選挙演説は多少なりとも注目されたようで、辛うじてリアリスト党は党首マサリク含む2議席を取ることができ、政界に舞い戻った。
一度当選してしまえばこちらのものとばかりに帝国のバルカン半島政策や外交などを激しく攻撃し、動議の提出も積極的に行うなど以前の議員活動とは比べ物にならない熱量で行動し、次第に帝国内のスラヴ民族達や海外のジャーナリスト達などにもその名は知られるようになっていく。
1911年の選挙でも再選され、バルカン戦争の調停交渉にも独自に関与するなど、政治家としての存在感は高まっていたが、一方で帝国議会内でのリアリスト党の勢力は大して変わらず、あくまで良くある「党首だけは有名なミニ政党」のボス以外の何物でもなかった。
この時点では
1914年に第一次世界大戦が起きた時、マサリクは国内外のジャーナリストや政治家と会談して回り、その情報を基にこの戦争にオーストリア=ハンガリー帝国が勝とうが負けようがこのままではチェコ民族の自治権拡大は望めないという結論を弾き出す。
マサリクはフランスやイギリスが参戦して大戦になり、オーストリア=ハンガリー帝国が戦争に負けて解体されて戦後処理で独立できる可能性、逆に勝ったとしても帝国内の安定のためにチェコの自治要求を飲ませるという目標を定め、西欧諸国の関心を得ようと動き始める。
マサリクは世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が敗戦すればチェコのみで独立、ドイツも併せて敗北した場合はチェコとスロバキアで独立できるという構想を持って西欧諸国を巡り、国内のチェコ人政党にも助力を要請したが、おおよそ現実的なものとは思えず、あまり成果は無かった。しかも、帝国内ではついに反逆者として身柄を追われる身となり、妻は投獄されてしまった。
しかし、挫けずに今度は帝国の外に散るチェコスロバキア移民達に呼び掛けて「チェコスロバキア民族会議」を設立し、特にアメリカに渡っていたチェコスロバキア人からの多額のカンパを受けて活動費用の問題を解消してみせた。
もはや帝国の勢力圏で活動できなくなったマサリクであったが、そこで起死回生の鬼手となったのが「チェコスロバキア軍団」の設立であった。これはフランスやロシア国内で捕虜となっているチェコ人、およびスロバキア人兵士を軍団として再兵備させ、協商国側の戦力として戦わせ、戦後処理を優位に進める実績作りを進めようとしたのである。
マサリクは二月革命が起きて間もないロシアに乗り込んで臨時政府と直接交渉し、これを認めさせる事ができたが、後に困ったことが起きた。
これによりロシア臨時政府が打倒され、レーニン率いるボリシェビキ達が主導権を握ることとなり、ソビエト政権が樹立。ソビエトは独断で停戦交渉を行って戦争から離脱してしまい、チェコスロバキア軍団はソビエト領内で取り残されることとなった。
しかしながら、ソビエト赤軍はまだ編成が進んでおらず、しかもロシア白軍との戦いを行わなければいけなかったので、チェコ軍団を自力で解体させるだけの余力が存在しなかった。この事は事態を思わぬ方向へと進ませる。
協商国側兵力とみなされているチェコスロバキア軍団の救援を協商国に要求できる可能性が浮上したのである。さっそくマサリク自身はアメリカへ向かい、腹心であるエドヴァルド・ベネシュはフランス・イギリスとの交渉を開始する。
結果としてフランス・イギリスはチェコスロバキア軍団を協商側兵力であると認め、チェコスロバキア民族会議を将来の政府の中枢として承認。またアメリカや日本もチェコスロバキア軍団を救うという名目でシベリア出兵を開始し、これ以上ない好都合な政治状況を生み出すことに成功したのである。
1918年10月にオーストリア=ハンガリー帝国が正式に降伏する少し前の時点でチェコの首都プラハの民衆たちは独立を確信して行進し、政庁を占拠したがもはやウィーンの政府はこれに対して止める術はなかった。同時にスロバキアサイドもこの動きに同調し、「チェコスロバキア民族」としてチェコとともに一つの国家単位を形成する事を宣言した。
マサリクはアメリカで建国宣言を聴き、帰国の途に就く事になったが、その際には儀仗兵たちが立ち並ぶ中で一国の大統領としての待遇で送られた。
こうして変わり者の大学教授はチェコ民族独立の立役者にまで成り上がったのであった。
新国家においてマサリクは大統領として特定政党には属さずに、政党間の調整役、国家の父としての象徴的な存在として君臨し続けた。基本的には議会選挙の結果を重んじ、あまり干渉はしなかったが、外務大臣だけはベネシュを所属政党が下野しようとも権限で以て留任させたりしたのでそこは批判を受けた。
この国はスロバキア人団体との間で覚書を交わした「連邦化してのスロバキアの自治要求」などが達成されていない、国内に30%以上も残るドイツ人とそれが多数派を占める居住区の帰属への不満などの問題が棚上げされたままであった事は後々表面化するも、世界恐慌までは順調な経済成長と工業化を成し遂げる事ができた。
1935年に健康不安からマサリクはついに大統領職を辞し、2年後の1937年9月14日に87歳で没した。
座右は「真実は勝つ」。これはチェコスロバキア国家の国の標語にもなったが、マサリク自身も、時にはそれを解き明かすことが不利になるような事であっても真実を追い求める人物でもあった。
手稿論争でもそうであったが、ユダヤ人が儀式殺人を行ったという事件でもその事件の容疑者となったユダヤ人個人をマサリクは軽蔑するべき人間だと感じつつも、儀式殺人などという旧時代的なまじないを裁判に持ち込むことに批判の論陣を張り、ユダヤ人ひいきのレッテルと張られた。
また、第一次世界大戦時にアメリカへ渡った時も共産主義もボリシェビキもマサリク個人は嫌っていたが、それはさて置き自身の分析から「ボリシェビキ政権がロシアを掌握するだろうから早めに交渉を持った方がいいですよ?」とアメリカに勧めて煙たがられ、ソビエト贔屓のレッテルも張られたりもしている。
こういう点では先述の経歴からしてもたとえ目先で損をしようとズバズバと物を言う性格をしていたようである。
第一次世界大戦中の1915年10月19日にマサリクはイギリスの大学で「ヨーロッパの危機における小民族の問題」という題で講演をしたが、その内容は当時としてはかなり先進的であった。
すなわち、ヨーロッパでは民族を無視した帝国は維持できず、民族単位の小国が増えてそういう意味では『分解』されていくが、やがてヨーロッパはそれらを認め、そうした小国たちが経済的・文化的に影響しあいながら緩やかな連邦体制のような姿に『統合』されるであろうと説いたのである。
これは今日におけるEU(欧州連合)の政治体制を予見したような内容であった。
古典学校に居た頃、自身の帰属を強く意識したマサリクはミドルネームを『ヴラスチミル(愛国者)』と名乗るようになったが、流石に若気の至りだったのか26歳で結婚した時を機に妻の姓から取って『ガリグ』と改めた。当人曰く、恥ずかしくなってきていたらしい。
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最終更新:2024/06/02(日) 06:00
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