ニキ・ラウダ(Andreas Nikolaus "Niki" Lauda, 1949年2月22日 - 2019年5月20日)とは、オーストリア出身のレーシングドライバー、実業家のことである。
1949年オーストリアのウィーンにて製紙会社を営む資産家の御曹司として生まれる。
F1ドイツGPを生観戦したことがきっかけで、レースへの道を進む決意をする。10代後半頃から地元のレースで好成績を収め始めるも、家業を継がせたい父にレーサーになることを反対され、勘当されてしまう。
以後は、自らをスポンサー獲得の交渉も行い、レーサーになることに反対の父からの妨害・圧力などするなど金銭的苦労を重ねながらステップアップしていくこととなった。
ヨーロッパF2選手権で当時若手のホープとして注目度の高かったチームメイト、ロニー・ピーターソンと互角の走りを見せるなど活躍を見せ、1971年9月マーチからF1にデビューすることになった。
このデビューの裏側には、父によるスポンサー各所への圧力により持参金を集めることに苦闘し、自ら獲得した銀行からの融資に加え、自身の生命保険を担保として「3年以内に結果が出なければ命で償う」と交渉して獲得したものと言われている。
1971年、第8戦オーストリアGPでデビューするもリタイア。しかし当時のマーチは資金不足でエースのロニー・ピーターソンのマシン1台に注力していたため、この年は1戦のみ。
翌1972年は全12戦で走るも入賞なしに終わりマーチから契約を解除される。参戦を続ける活動資金を得るためマールボロへ自ら売り込みを行い、持参金を持ち込むことを条件にBRM(ブリティッシュ・レーシングモータース)と契約。
1973年、BRMはマシンの信頼性に問題があり、第5戦ベルギーGPで5位入賞し初のポイント獲得したものの、その後は速さを示したがノーポイントに終わる。だが、第6戦モナコGPで一時3位走行しフェラーリをリードする走りを見せ、この走りがフェラーリのボス、エンツォ・フェラーリの目に止まった。更にこの年1戦のみBRMから参戦し、翌年フェラーリへ移籍することの決まっていたクレイ・レガッツォーニの推薦もあり1974年は名門フェラーリから参戦することに決まった。
1974年、戦闘力の高いフェラーリのマシンを駆り本領発揮、第3戦南アフリカGPで初のポールポジションを獲得すると、第4戦スペインGPではポールトゥウィンを達成し初優勝、一時はランキングトップに立つも終盤に連続リタイアが響きランキングは4位。しかしながら同年最多の9度のポールポジション獲得と存在感を示した。この当時はドライバーによるテスト走行があまり重視されていなかったが、ラウダは翌年を見据え徹底的にテスト走行し、マシンの成熟性を高めていった。
1975年、前年の徹底したテスト走行が実りマシンの戦闘力はさらに向上、第5戦モナコGPで優勝するとその後も勝ちを積み重ね、14戦で5勝、リタイア0回とスピードだけでなく安定感・信頼性も抜群のものを見せ見事初のワールドチャンピオンに輝いた。
1676年、この年も開幕から順調に勝ちを積み重ね、第9戦の時点でランニングトップと順風満帆のシーズンを送っていた。
だが、第10戦ドイツGP、ラウダを悪夢が襲う。決勝レースでマシンが高速コーナーで突如コントロールを失いクラッシュ。ラウダのヘルメットが脱げマシンは発火、更に後続のマシンに追突される大クラッシュとなり、マシンに取り残されたラウダは炎に包まれた。後続にいたドライバー4名とコースマーシャル1名の懸命の消化・救助作業でマシンから運び出されたのの意識不明の状態でヘリで病院へ緊急搬送された。
ラウダは顔面に重度のやけどを負い、有毒ガスを吸い込んだ影響で肺にも深刻なダメージを受け、血液を7割入れ替える大手術を受けたものの、日に日に病状は悪化。病院は臨終の準備のために牧師を呼び、事切れる直前の状態までいったものの、妻の呼びかけで必死に意識を保ちそこから驚異的なペースで回復。
事故からわずか1ヶ月半後の第13戦イタリアGPで奇跡のレース復帰。このレースで4位に入賞し、優勝の行方は最終戦日本GPまでもつれ込んだ。富士スピードウェイで行われたこのレースはコースの一部が川のようになるほどの大雨が降り、中止にするか議論されたものの決勝レースを強行。ラウダは「また死に損なうのは御免だ」として2周走っただけでピットインし自らリタイアしたものの、チャンピオンを争うジェームズ・ハントが気迫の走りを見せ3位に入賞。これにより順位が逆転しランキングは2位に終わった。
このリタイアについてエンツォ・フェラーリは公にはラウダを庇う発言をするも、本音ではよくは思っていなかったようであり、また、事故で欠場していた際に復帰は不可能だと決めつけ、代役にカルロス・ロイテマンと契約を結んだことで関係がギクシャクし始める。
1977年、この年も安定した走りを見せシーズン3勝、2位6回、前年までよりブロッキングの技術が向上し一度抜くと後続のドライバーにオーバーテイクを許さない走りを見せ、残り2戦を残し第15戦東アメリカGPの時点で2度目のワールドチャンピオンを確定させる。
シーズン終盤には翌年の契約を更新しようとエンツォ・フェラーリが「いくらでも支払うから好きな額を書け」と白紙の小切手を提示したが、前年のわだかまり、更にはラウダとともに移籍したいと希望したメカニックを解雇したことから「あなたのチームでこれ以上走りたくない」とサインを固辞、更にラウダの残り2戦を欠場。革新的なマシンデザインのブラバムに惹かれ、翌年はブラバムから参戦することになった。
1978年、移籍したブラバムのマシンは信頼性が今ひとつ、完走したレースでは2勝を含む7度の表彰台に立つも、それ以外はマシントラブルやアクシデントに巻き込まれ9度のリタイアでランキング4位に終わる。この年ラウダ航空を創立し、実業家としても活動を始める。
1979年、パワーはあるものの前年以上に信頼性欠くマシンで苦戦。9戦連続リタイアなどと実力を発揮できず、更に同僚ネルソン・ピケの台頭などでモチベーションも下がったのか、第14戦のカナダGPのフリー走行後、「同じ場所をぐるぐる走り回るのが嫌になった」と残り1戦を残し突然引退を発表。
1981年11月、テスト走行を経て翌年のマクラーレンのレギュラードライバーとして現役復帰することが発表された。契約時マクラーレン側から「開幕から3戦で結果を残さなければ解雇」という条件付きの契約であった。
1982年、ブランクや規定の変更により活躍できないのではという前評判であったが、公約通り第3戦アメリカ西GPで優勝、第9戦イギリスGPでも優勝し2勝をあげ、復帰初年度はランキング5位の成績を残した。
1983年、開幕から2戦連続で表彰台に立つもその後はマシンの信頼性の低さに泣かされ、マシントラブルでのリタイアは7回にのぼり成績は低迷した。ただ、シーズン終盤以降は翌年のマシンの成熟に活用した。
1984年、前年終盤の走りが活き、信頼性・戦闘力ともに向上、新たにチームメイトとなったアラン・プロストとチャンピオン争いを演じる。ラウダは第2戦南アフリカGPをはじめ5勝、プロストは7勝と優勝回数こそプロストが上回ったものの、獲得ポイントはラウダに軍配が上がり、わずか0.5ポイント差で3度目のワールドチャンピオンに輝いた。2年連続でチャンピオンを逃したプロストには「気にするな。来年は君がタイトルを取るよ」と声をかけている。
1985年、第10戦オーストリアGPでモチベーションの低下を理由に引退を発表。第11戦オランダGPで優勝し、これがラウダにとってこの年唯一にしてに現役最後の勝利となった。ラウダはランキング10位に終わり、チャンピオンは前年にラウダの言ったとおりプロストが獲得した。
引退後はF1関係では、辛口の解説者・コメンテーターとして活動し、その他にフェラーリのアドバイザー(1991年~)、ジャガーのチーム代表(2001年就任、2002年解任)、メルセデスAMGの非常勤会長(2014年~2018年)などでも活動した。
実業家としてはラウダ航空の経営者として活動し、1991年に墜落事故を起こし一時経営が傾いたものの持ち直し、その後経営権をオーストリア航空に譲渡。
2003年に格安航空会社のニキ航空を創立し、2011年に共同経営者のエア・ベルリン航空へ売却、エア・ベルリンの社外取締役に就任し2012年まで務めた。
2016年Amira Air社を買収、Laudamotionと社名を変更して再び航空業界に参入。2018年1月には、前年に経営破綻していたニキ航空の株式を買い戻し、Laudamotionブランドで一部路線の運行を再開、それとほぼ同時期にラウダはLaudamotionの株式をライアンエアーに売却し、以後もLaudamotionの会長として経営への関与を続けた。
2019年5月20日、ラウダの死去が家族によって公表された。
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最終更新:2024/06/02(日) 10:00
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