東武3000系とは、かつて東武鉄道で活躍した通勤型電車である。ここでは派生形式の3050系と3070系も説明する。
昭和39年。それまで走っていた雑多な旧型車のモーター・台車・制御機器を、真新しい車体に載せ替えた更新車としてデビューした形式である。当初は3500系と呼ばれていたが、後に更新した種車の違いから3000・3050・3070の3形式に分かれている。
車体の特徴として、前年にデビューした8000系の前面に日比谷線直通専用車である2000系の側面をくっつけたような18メートル級3ドア車となっていることが挙げられる。この仕様は3形式とも共通である。
ちなみに、18メートル級になった理由はというと、旧型車の台車をそのまま再利用したので強度上の問題が発生したためである。
何故8000系が登場した翌年に、わざわざ旧型車を更新した車両をロールアウトしたのかというと、輸送人員の急激な上昇が関係する。
昭和30年代当時、東上線では池袋に丸ノ内線が開業した関係で都心へのアクセスが良くなり、尚且つ沿線に大量の空いた土地が有った関係で移り住む人が増え混雑が急に激しくなっていた。
一方の伊勢崎線系統も、営団地下鉄(現東京メトロ)日比谷線との直通が始まり、沿線に大規模団地や住宅街が出現し始めていた。東武は2方面同時に混雑対策をするハメになったのである。
ところが、この当時の東武の主力は戦前から昭和28年前後までに登場した多種多様な旧型電車だった。これらの電車は、昭和26年の大改番でモーターの出力と制御器の形式で纏められていたが、車体の方は同じ形式にも関わらず2ドアだったり3ドアだったり、ロングシートとクロスシートがゴチャマゼだったり、挙句の果てには車内放送装置も付いていなかったりで、とてもこの先予想される激しいラッシュ輸送には向いているとは思えない電車ばかりであった。
しかもこんな電車が200両近くいたのである。まだデビューしたばかりの8000系はあくまで輸送力増強用であり、これらの置き換え用も作ろうとすると、一気に300両近く製造する計算になってしまう。東武は他にも、施設改良なども行わなければならず、電車にばかり金を掛けられない状況であった。
そこで、取りあえずラッシュに対応できる様に、旧型車の車体を統一車体に載せ替える更新車方式を採用し、きたるべき大量輸送時代を乗り切ることにしたのである。
昭和39年デビュー。旧型車の中で32系と呼ばれる、97kwのモーターにデッカー式制御器を搭載した電車がこの形式に生まれ変わった。
当初はモハが3500、クハが3600を名乗り2両固定で更新されていたが、後に中間車を作り4両固定編成が登場した。この時中間車タイプのモハも3500を名乗り、更にサハも3600を名乗った為、番号だけでは中間車なんだか先頭車なんだか良く解らないといった事態が発生。
更に信じられない事に、更新した当初は「種車が解るように」といった余計な考えの元番号を付けたため、トップナンバー編成は
←浅草側
モハ3503+(サハ3669+モハ3550)+クハ3670 [但し()内の車両は昭和44年に増結]
と言ったもう何が何だか解らない番号の付け方をされたのである。後に昭和46年に3050系が登場する際に、番号が重複する恐れが有る事から、改めて次の様に改番された。
4両固定:モハ3100+サハ3200+モハ3300+クハ3400
2両固定:モハ3500+クハ3600
更新に当たって、台車・モーター・コンプレッサー・制御器は旧型車からそのまま流用したが、パンタグラフとMGは新品を搭載した。また後に、自動空気ブレーキの動作改善を図るために電磁給排弁を取り付けたり、ATSを搭載した関係でブレーキ弁を電気接点付のゴツい物に交換している。
また、地味にブレーキ専用ではあるが応荷重装置を取り付け、ブレーキ性能の向上を図ったりしている。
更新後の配置は、東上線が川越電車区(当時は森林公園検修区が存在してなかった)。本線系統は野田線の野田電車区(こちらも七光台検修区がまだ無かった)に配置された。特に混雑が激しい東上線には集中配置され、森林公園検修区が出来た後もしばらくは優等運用に入っていた写真が有るので、まさに主力といった感じであった。
野田線に配置された編成は、出揃うまで更新前の旧型車と混結したりしながら4両編成で運転されていったが、昭和40年代に入り接続している国鉄線の発展の煽りを受けて沿線の開発が進むと、大量に押し寄せる乗客を捌いていくようになる。野田線初の6両編成も3000系であり、中間に先頭車の入らない貫通6両固定も野田線では3000系が初であった。後に東上線に居た編成も全車合流し、大型車が導入され、平成4年に引退するまで常に輸送の第一線で活躍していた。
昭和46年、54系と呼ばれる110kwモーターにPR形制御器を積んだグループを更新して出来た電車。
このグループの途中から、パンタグラフやMG、さらにはベンチレーターまで8000系の冷房化改造でいらなくなったお古を再利用するようになる。モーター出力は元特急車であった5700系と同じであり、それなりにスピードも出せる。また、制御シーケンスが同じなので3000系とは混結できるが、モーター出力が段違いなのであまりやらなかった。
番号の付け方は、最初から8000系と同じ方式となったので解りやすくなった。但し最初は4両固定の予定車も一旦2両固定で出場して後から中間車を挿入している。
配置は館林と七光台、それに春日部で、更新前の所属検修区にそれぞれ戻った形である。春日部の配置車は亀戸線・大師線専用だったが、あまり使われずに七光台に移動している。
3000系が134両もいたのに対し、こちらは68両と半数程しかいない。その為廃車も平成に入ってからと遅く、3000系シリーズ全体を通しても一番最後まで活躍した形式である。
また、何故か乗務員室の運転席の部分だけ拡大したため、この分客室に出っ張っているのが特徴である。この奇妙な車内を覚えている人も多いのでは。
引退は平成8年4月29日。小泉線での運用が最後の花道となった。
昭和49年に、旧型車では最後まで残った5310系・5320系・5800系を更新したグループ。
この種車になった5310系と言うのが、初代特急車デハ10系が戦後も特急型として残ったグループの事で、この当時は野田線で通勤型に改造されて余生を送っていた。
他にも5320系は快速用として作られた形式で、6000系登場後も優等列車中心に活躍していた実績を持っていた。5800系はその5320系の一部を直角カルダンの試験車に召し上げ、後にツリカケ駆動に戻した形式で、3070系の種車たちは東武の旧型車の中でもエリート達を寄せ集めた軍団となった。
制御器の違いで他の3000系グループとは混結もできないので、新たに5000系の形式名を頂戴していたのだが、後にその形式名を7800系の更新車に譲り渡す事となり、3070系に改名した経緯を持つ。よく見ると3000・3050系では下り先頭車に付いていたジャンパ線が8000系同様上り先頭車に付いているのが解る。
この3070系はCS-5という旧型国電が積んでいたのと同じ制御器を積んでいる。本当はCS-5を積んでいたのは5310系だけだったのだが、同じ制御器を使う7300系と予備品共通化&確保の関係も有ったのだろう、この制御器に統一する事になった。その際に、当時大量に旧型国電を解体していた国鉄大船工場に東武の車両課が訪れ、山積みにされていたCS-5を購入していったことはあまりにも有名な話。この時購入の交渉に行ったのが、東武ファンならご存知、東武博物館名誉館長の花上氏である。
更新当初は新栃木と七光台に分散配置されたが、後に新栃木に集結。主に日光線と宇都宮線のローカル運用に使用された。日光線の運用は、鬼怒川線や野岩鉄道との乗り入れも行っていた為、電車を寒冷地並びに山岳仕様にする必要が有った。
なので3070系には砂撒き装置に霜取りパンタグラフ、さらにブレーキ用制輪子には鋳鉄が最後まで使われていた。霜取りパンタは、試験的にクハ3670に付けられていたが、本採用ではモハに設置された。最初は8000系等に使われていたPT48を使っていたが、3000系の廃車が進むと発生品であるPT42に変更され、見た目が統一された。
34両しかおらず、配置場所も新栃木に固まっていた為廃車は平成7年からと結構遅かった。平成8年4月27日の宇都宮線でのさよなら運転を最後に引退。3050系より二日早いお別れとなった。
多種多様な電車を種車として登場した3000系は、車体こそ統一されたが台車はそのまま流用されたため「台車の博物館」の異名を頂戴する事となった。イコライザー式の台車だけ見ても、標準的なコの字型もあれば弓型の台車も有り、1編成に台車が2種類は当たり前であった。
さらには特定の編成しか履いていないレア台車も有った。解りやすい例が3070系の3176Fで、カルダン駆動化したのをツリカケ駆動に戻した5800系が種車なのだが、最後に履いていた台車が5700系と同じゲルリッツ式台車であったため、3000系シリーズの中で唯一台車側にブレーキシリンダーが付いている編成となった。(他は全て車体ブレーキ式だったので車体側にブレーキシリンダーが付いている)
その為、工場や検修区では特定の台車用に用意しなければいけない工具なんかも多く、ばらし方や組み立て方が全然違うので現場泣かせであったと言われている。後に3000系の廃車が進むと、館林の3050系のT台車が発生品のTR11に統一されたりと、検修作業の効率化を図る様になっていった。
そしてこの事実は、東武の車両を模型で再現するモデラー泣かせでもあった事を意味する。何しろ台車で編成が特定されてしまうため、台車と編成番号の組み合わせを間違える事が出来ないからである。モデラーの中には、保育社の「私鉄の車両」や鉄道ダイヤ情報の1989年版東武鉄道特集などを求めて神保町を彷徨う者もいるとか。
3000系シリーズは全形式が自動進段式制御を採用しているが、時々手動だったのではないか、と言う声も聞かれる。特に末期の頃の野田線の3000系や3050系に乗ったことがある層からは、1ノッチずつ刻んで運転していた、という証言が多い。
結論から言ってしまうと、3000系と3050系は自動モードと手動モードの両方を切り替える事が出来たのである。前者はマスコンの切り替えハンドルで、後者は運転台に有った「高加速」というスイッチの入切で対応していた。
では何故、末期の野田線所属の3000系が手動モードで運転されていたかと言うと、ダイヤに乗せるためである。昭和後期。それまでローカル色が強かった野田線沿線も宅地化の波が押し寄せ、利用客数が年々増加していった。その為、増発や連結両数の増車。そして大型車の導入に踏み切る訳だが、5000系や8000系といった大型車と、3000系では車両の大きさは勿論足の速さにも大きな差が有り、それぞれ専用のスジが引かれていたが、ラッシュ時は加速用の応荷重装置を持たない3000系には、専用の運転曲線が有っても乗り切れない事が多々有った。
そこで、手動モードを使って自動加速の時より早くノッチアップする事で、ラッシュ時でも運転曲線に上手く乗せるという工夫するようになったのである。その後、慣れた運転士が昼間でも手動モードで運転するので、その様子を見ていたファンによって「3000系=手動加速」という図式が出来たのだと考えられる。
ちなみに、ノッチアップのタイミングを間違えると、モーターが過電流によりオシャカになってしまうので、手動加速が出来る様になった運転士は野田線では一人前ということになったりする。
●デビュー時に番号に翻弄された3000系であるが、後に野田線で6両固定を作る時にも番号が目茶苦茶になっている。この時は4両固定に別の4両固定の中間車を挿入する形で作ったのだが、その編成は
・モハ3100+サハ3200+モハ3300+サハ3200+モハ3300+クハ3400
となり、抜かれた編成の方は
・モハ3100+クハ3400
と改番しないまま2両固定として使われたのである。8000系もびっくりである。
●3000系は134両という大規模な更新となったので、もちろんその途中で未更新の32系と混結して運用する事も有った。記録に残っているトンデモ編成の一例として、東上線の行楽急行「さだみね」号があるのだが、更新したてのキレイな車両に、半木造・白熱灯・車内放送無し・扇風機も無しな郵便荷物合造車と混結と言う、まるで百鬼夜行みたいな編成で運転されていたという。
●異色の更新車として、サハ3212号車が挙げられる。この車両、実は32系とは全く関係ないモニ1170形が種車で、両数合わせの為に更新された。但し、使われたのは車籍だけで、実態はと言うと西新井工場に余っていた手持ちのTR11形台車を使った余剰品の活用車である。
●3050系のモハ3360・3560・3160の種車は、モハ5200形という車両である。このデッカーと110kw主電動機という異例の組み合わせは、他形式との電装品交換によって生まれたものであった。性能的には54系に属していたので3050系に更新することになったのであるが、そのまま更新するわけにはいかないので、種車の制御器は流用せずにPR形機器を他から持ってきて更新している。
●3070系の種車のうち、5800系は、3000系列の種車で唯一セイジクリーム塗装を経験している。(昭和49年より、従来のオレンジとベージュのツートンカラーからセイジクリームへの塗り替えが始まっていたが、5310系のようにいずれ更新する車両については塗り替えは行われなかった。しかし5800系は検査時期の関係で例外的に塗り替えられた。)
更新後は3176Fとなった。
●この他にも、たまたま32系のクハとして使われていた、元総武鉄道の車両が6両更新されていたり、3050系の方では元戦災国電復旧車のクハ450形を種車にした車両がいたりと、種車の戦前の経歴を辿ると中々のカオスになる。
特にクハ450形は、元々の出自が全車バラバラで、見た目も同じ形式で纏めたのが不思議な位の車両なので、時間のある方は鉄道ピクトリアルのアーカイブスシリーズで実車の写真を見る事をおススメする。
旧型車の近代化と輸送力の改善に貢献した3000系だが、寄る年波には勝てなかった。冷房化も下回りの強度の関係で出来ず、出来たとしても97kwのモーターでMT同比という、スピードに難が有る編成構成ではそれもまた夢の夢であった。
昭和62年。それまで輸送力増強目的で造られていた10000系が、3000系の置き換え用で増備された。置き換えの手順としては、10000系を春日部・森林公園の各検修区に配置し5000系シリーズを七光台検修区へ転属。5000系によって直接追い出されて廃車すると言うものだった。そして平成4年、10030系の増備により東上線を追い出された5000系が全車七光台に集結。これにより野田線から小型車運用が消滅し、3000系全車と3050系24両が廃車となった。
その後、新車の製造が伊勢崎線の複々線事業の進捗に伴う輸送力増強や、地下鉄乗り入れ車の強化に向けられた為、館林の3050系や新栃木の3070系からは廃車が発生しなかった。それが一段落した平成7年、10030系が3050・3070系置き換え用の増備にシフト。今度は本線系統に居た8000系初期車をリニューアルして七光台に転属。それに押し出された5000・5050系が館林と新栃木に大挙押し寄せ、3050系と3070系を置き換えたのである。
平成8年4月にさよなら運転をそれぞれ行い、3000系シリーズは全滅した・・・筈であった。
ところが、幾つかの3000系と3050系は上毛電気鉄道に譲渡されたのである。それぞれ300系・350系と名乗って活躍していたのだが、真夏はクソ暑い北関東で非冷房というのは致命的で、下回りの老朽化も大問題となっていた。
結局、元京王3000系である700系に置き換えられ、2000年に全車引退した。3000系が別の私鉄の3000系によってバトンタッチされた構図である。
現在、群馬県の幼稚園に一両丸ごと。上毛電気鉄道の車庫に台車とモーターが。東武博物館に稼働状態の台車・モーター・制御器・パンタグラフが残っている。
東武3000系に関するニコニコミュニティを紹介してください。
掲示板
1 ななしのよっしん
2015/07/31(金) 18:00:29 ID: fyUw3V7ZI1
幼稚園の時に鹿沼レクリエーションセンターにいく行事があって、6050から新鹿沼で、これに乗り換えて板荷にいったんだけど、なかなか子供心に印象深い電車だったなあ。
そして、4歳くらいの時に、親戚の家にいく時に岩槻の踏切で、3000の6連がきて、2000系と8000系合わせたような外観に驚いたのも覚えてる。
2 ななしのよっしん
2022/06/10(金) 22:03:27 ID: O/t4+sH0hJ
親戚が前橋にいるけど、親戚のところに行く(或いは帰る)際に50号線を通っていると、3000系が保存されている幼稚園が否が応でも目について変な笑いが出る
3 ななしのよっしん
2022/11/24(木) 18:38:14 ID: vt1aAY8REz
8000系が良すぎて、8000系よりも新しい個体があってもこいつには乗りたいとは思わなかったんだよなぁ。何というか、吊り掛けが嫌いでわざわざ8000系が来るまで待ってた時もあったね。乗り心地だけど、当然新性能車の8000系の足元にも及ばないけど、8000系を一気に製造することはできないから仕方なかったと見るべきか。
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最終更新:2024/06/04(火) 01:00
最終更新:2024/06/04(火) 01:00
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