ジュール・ビアンキ(Jules Lucien André Bianchi, 1989年8月3日 - 2015年7月17日)とは、フランス出身のレーシングドライバーのことである。
経歴
F1以前
父はGTカーのチャンピオンでり、その兄はF1参戦経験もありル・マン24時間耐久レースで優勝経験のあるレース一家の出身。
3歳頃からレーシングカートに乗り始め、5歳頃から大会にも参戦し始めた。
2007年よりフォーミュラカテゴリへ転向。フランス・フォーミュラ・ルノー2.0ではデビューイヤーからいきなりチャンピオンを獲得する。
2008年はF3へステップアップ、フォーミュラ・ユーロシリーズに参戦。マスターズF3では見事に優勝した。
2009年はバルテリ・ボッタスらが参戦する中、9勝をあげ、見事チャンピオンに輝く。この年新たに創立されたフェラーリの若手ドライバー育成プログラム「フェラーリ・ドライバー・アカデミー (FDA) 」の最初の所属ドライバーとなった。
2010年からはGP2に参戦。優勝こそ無かったもののランキング3位、2011年は1勝をあげ、前年同様3位となった。この年からフェラーリのテストドライバーとして契約した。
2012年はフォーミュラ・ルノー3.5へ参戦。最終戦まで王者を争うものの最終的には2位に終わった。この年はフォース・インディアのリザーブドライバーとして契約し、フリー走行に9回参加した。
シーズン後、フォース・インディアのシート争いに破れたものの、マルシャF1チームのレギュラードライバーであったルイス・ラジアのスポンサーがマルシャとトラブルを起こし、ラジアの代わりに起用されることが決まった。
F1時代
2013年、マシンの戦闘力の低さからテールエンダー争いを強いられるものの、第2戦マレーシアGPで13位(入賞圏外)。マルシャとケータハムがノーポイントでシーズンを終え獲得ポイント0で並び、決勝最高順位が上のチームが上位という規定により、ビアンキの13位が2チーム間で決勝最高位記録であったため、コンストラクターズ最下位を逃れることが出来た。
2014年もマルシャF1チームから参戦、第6戦モナコGPではギアボックス交換により21番グリットスタートとなったものの、そこから粘り強く走り9位入賞、ビアンキにとってもマルシャにとっても初のポイント獲得となった。
その後も中団から後ろでの戦いを強いられた中迎えた第15戦日本GP。台風18号が接近し、大雨が降る悪天候の中開催された決勝レース。43周目にエイドリアン・スーティルがコースオフしリタイア、その次の周回にビアンキのマシンもコントロールを失いコースオフ。この際、スーティルのマシンを撤去していたクレーン車に激突しレースは赤旗中断し、そのままレースは終了。
クレーン車に激突したビアンキの体は254Gもの衝撃を受けており、これは「クルマが48mの高さから地面に落ちるのと同じ」程度の圧力を受けていた。
ビアンキは意識不明の重体(びまん性軸索損傷)、四日市市内の病院に救急搬送され緊急手術。手術は成功したものの意識は戻らず、2015年7月17日息を引き取った。享年25歳。1994年「イモラの悲劇」と呼ばれたサンマリノGPにて、アイルトン・セナ、ローランド・ラッツェンバーガーの二名が亡くなって以来、14年ぶりのF1のグランプリ開催中の事故死となってしまった。
彼の死後、彼の使用していたカーナンバー「17」を永久欠番にすることを決定。死後最初の開催となったハンガリーGPでは決勝レース前に全ドライバーが円陣を組み黙祷を捧げ、「#JB17」というステッカーが各マシンに貼られた。
また、マシンの安全性についての本格的に議論されるようになり、2018年からドライバーの頭部を保護する「HALO(ハロまたはヘイロー)」が導入されるようになった。
人物・エピソード
- 早くから才能を評価され、FDA最初のドライバーであり、オフシーズンにはフェラーリへ移籍する噂があった。
- ビアンキの死の翌日、マルシャF1チームの同僚であったマックス・チルトンはインディ・ライツのレースで優勝し、「この優勝をジュールに捧げる」とコメントしている。
- マルシャF1チームはテールエンダーの一角であり最下位争いの常連であったが、ビアンキの活躍により2年連続でコンストラクター最下位を逃れている。また、ビアンキの獲得した2Pは翌年解散するチームにとっても活動4シーズンで唯一獲得したポイントであった。
- シャルル・ルクレールは幼馴染であり、彼のキャリアのサポートもしていた。
- 同郷のピエール・ガスリーとも仲が良かった。日本GP開催の際に、事故現場に献花している。
- 彼の死後導入されたHALOは、後にシャルル・ルクレールやロマン・グロージャンの命を救っている。
- 出身地のフランス・ニース市はビアンキに敬意を評し、通りに彼の名前を関した「ジュール・ビアンキ・ストリート」と名付けた。
- 事故の同年にはタバコを吸っていたところ強盗に襲われ、腕時計を盗まれる不幸にも遭っていた。
関連動画
関連項目
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