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ジョン・シピン(John White Sipin)とは、「ライオン丸」の異名を持つ元プロ野球選手である。
概要
OB | |
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ジョン・シピン John Sipin |
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基本情報 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | カリフォルニア州 |
生年月日 | 1946年8月29日 |
身長 体重 |
183cm 73kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 二塁手、外野手 |
プロ入り | 1965年 |
引退 | 1980年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1946年8月29日生まれ。アメリカ合衆国カリフォルニア州出身。
ワトソンヴィル大学を経て、1965年にセントルイス・カージナルスからドラフト55巡目(全体785番目)で指名され契約。
数年間マイナーリーグでプレーした後、1969年にトレードでサンディエゴ・パドレスへ移籍。デビュー戦で2本の三塁打を放ち、この年は68試合に出場し、打率.223、2本塁打という成績を残した。
ただ、メジャーでのプレーはこの1シーズンのみであり、翌年以降は再びマイナー生活を送った。
1971年オフ、衰えの見え始めた近藤昭仁に代わるセカンドとして大洋ホエールズが獲得オファーを出し、入団が決まった。
入団が決まったシピンであったがキャンプには来日せず、開幕直前にようやくチームに合流した。ちなみに来日が遅れた理由は「結婚したばかりの妻が日本行きを拒んだため」であった。
ぶっつけ本番状態で開幕を迎えたシピンであったが、初年度から攻守に渡って活躍する。日本の野球に即座に対応し打撃では主にクリーンナップを任され、打率.279、22本塁打、76打点をマーク。守りでは米田慶三郎・松原誠・クリート・ボイヤーらと鉄壁の内野陣を築き、この年、ベストナインとダイヤモンドグラブ賞に選出された。
1973年には、打率.295、33本塁打をマークし、2年連続でベストナイン・ダイヤモンドグラブ賞を受賞。
その後も大洋の中心選手として活躍し、1974年には球団記録となる37試合連続出塁を記録し、初の打率3割超えとなる.306をマーク、1975年にはキャリアハイとなる34本塁打を放った。
1978年、金銭トレードで読売ジャイアンツに移籍。チームに土井正三がいたため主にライトでの起用された。この年は本塁打は16本と今一つだったものの、打率はキャリアハイの.315をマークした。
1979年、土井の引退に伴いセカンドでの起用され、チーム唯一の打率3割超えとなる打率.313、27本塁打で5位に沈んだチームにおいて、ひとり気を吐いた。
1980年、自信の打撃不振に加え若手の篠塚和典の台頭もあり、来日以来自己ワーストの成績となった。契約を1年残していたが、チームの若返り方針や自身の腰痛の悪化もあり功労金を受け取った上でこの年限りで現役を引退した。
人物・エピソード
思い切りの良い打撃とパンチ力のある打撃で活躍した中距離打者。守備面でも強肩を活かした送球の速さで併殺の山を築き、球界屈指の鉄壁の内野陣の一角として貢献した。
ボサボサっとした長髪や長いもみあげ、口ひげを蓄えたワイルドの風貌から、特撮「快傑ライオン丸」にちなんで「ライオン丸」と呼ばれた。巨人移籍時にはこれらをバッサリと切り落とした。
わがままで頭に血の登りやすい性格であったが、大洋時代は同僚にクリート・ボイヤーに対しては従順で、ある程度制御できた。どうも上下関係をはっきりさせるタイプらしく、格上と判断したボイヤーに逆らうことは無かったが、ボイヤー退団後は扱いが難しい選手となっていたようである。巨人時代には1シーズンで2度退場処分を食らったこともある。
通算成績
打撃成績
通算:10年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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MLB:1年 | 68 | 241 | 229 | 22 | 51 | 2 | 9 | 2 | 2 | 1 | 8 | 1 | 44 | 3 | .223 | .251 |
NPB:9年 | 1036 | 4159 | 3779 | 548 | 1124 | 218 | 625 | 29 | 1 | 24 | 345 | 10 | 594 | 133 | .297 | .356 |
獲得タイトル
関連項目
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