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スゲヌマ
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スゲヌマとは、1935年生まれの日本の元競走馬、元種牡馬である。黒鹿毛

スゲヌマ、メイズイミスターシービーによる馬主子3代ダービー制覇記録の始まりの

な勝ち
1938年:東京優駿競走
1939年:帝室御賞典(春)横浜特別()、横浜農林省賞典四・五歳呼

概要

プライオリパークイギリスから輸入された種牡馬宝は帝室御賞典を含む9勝を挙げた。宝永はサラのホーヱイと同一とされるが公式記録は残っていない。500キロ近い大で生涯成績は23戦12勝。名前の由来は群馬県菅沼

1935年千明牧場で生まれ、1938年4月中山競馬場の新呼戦でデビューした。ここと次戦を3着と取りこぼすが、そこから4連勝で東京優駿競走優勝ダービーとなった。しかし、レースはその日の任せという気まぐれな性格が災いしたのかそこから連敗が始まり12月の第1回京都農林省賞典四歳呼馬菊花賞)は回避。

1939年は初戦を2着に敗れ6連敗となるが今度は連勝が始まり、横浜農賞では同期菊花賞テツモンと1歳下のダービークモハタを大差で破り、帝室御賞典(春)を含む6連勝で現役最強名乗りを挙げた。

しかし、彼の栄の日々は突如として終わりを告げる。11月に行われた目黒記念(秋)1位入線後ドーピング奮剤の使用が確認され失格となった。この事件が原因でそのまま引退となり、世間から隠れるようにカーネーシービーと名を変え種牡馬入りしたがこのような状況では肌馬が集まるわけもなく、彼の前途には暗が立ち込めていた。そして、同時期に起きたもう一つのドーピング事件が競馬界を大きく揺るがせることになるのである。

1939年10月阪神優駿牝馬(オークス)で1位入線したヒサヨシドーピング奮剤の使用が確認され失格となった。上の武田文吾ドーピングなどしていないと日本競馬会に抗議するが科学的な検法リミニ氏法に基づく判断であるとして受け入れられなかった。ヒサヨシ事件から一月後、今度はスゲヌマがドーピング引退に追い込まれる。武田は果たしてこのリミニ氏法は信用に値するのかと疑念を抱き、大阪帝国大学医学部助手今泉礼治に調依頼実験の結果ドーピングをしていなくとも陽性反応が出ることが判明、競馬開催を支援する軍部を巻き込んだ大騒動に発展する。軍を携えた将校の恫にも屈せず武田はリミニ氏法の撤を要し続け、1940年8月多くの冤罪を生み出したであろうリミニ氏法による検は撤された。ちなみに、武田文吾は後に五冠シンザン調教師となる。

一方、カーネーシービーは1943年日高種畜牧場に移ったのを機に再びスゲヌマの名を名乗る。これが物語であればここからめでたしめでたしとなるのだが現実は厳しく、1945年8月用となり彼の命運は尽きた。だが、ファンの心には残り続け2000年に行われた20世紀の名馬投票では306位に選ばれている。

血統表

*プライオリパーク
1922 鹿毛
Rockksavage
1915 鹿毛
Rock Sand Sainfoin
Roquebrune
Manuka Eager
Sempronia
Chatham
1908 鹿毛
Darley Dale St. Simon
Ismay
Coronation Day Ermak
Farceuse
サラ系

1922 栗毛
Ntb 宝永牝系
*ガロン
1909 栗毛
Gallinule Isonomy
Moorhen
Flair St.Frusquin
Glare
豪サラ
*宝永[1]
1909 鹿毛
Loombah Grafton
Bragibagee
Appearance Fucile
Handsome
競走馬の4代血統表

クロスSt. Simon 5×4×5(12.50%)、Isonomy 5×4(9.38%)、Galopin 5×5(6.25%)

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関連項目

脚注

  1. *公式には血統、生年も不明。1913年にオーストラリアから輸入されたホーヱイとされる

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1 ななしのよっしん
2024/04/09(火) 23:30:47 ID: nieUqLLtjF
武田文吾師が「東大東大というが、いったい東大の何を信じろと言うのだ」と軍部相手に徹底抗戦した事件だな
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