パストール・ラファエル・マルドナド・モッタ(Pastor Rafael Maldonado Motta)とは、ベネズエラ・マラカイ出身のF1ドライバーである。
姓はアクセントの関係で「マルドナード」と表記されることもある。
1985年3月9日生まれ(37歳)。あだ名は「マルド師匠」、あるいは単に「師匠」など。
概要
F1デビュー以前
ベネズエラ国内のカートレースからレーシングドライバーとしてのキャリアをスタート。1998年に国際カートレースに参戦するため渡欧、以降フォーミュラ・ルノー、イタリアF3000、フォーミュラ・ルノー3.5に参戦した。
2007年からはGP2に参戦し、参戦初年度のモナコGPで初優勝を果たす。しかし荒削りな走りだったためシーズンを通しての結果は芳しくなく、2008年はシリーズ5位、翌2009年は6位と伸び悩んだ。
参戦4年目となる2010年シーズンは第3戦トルコから第8戦トルコまで、各ラウンド2レース行われるうちのレース1で6連勝。また中盤までは安定して入賞圏内でフィニッシュし、87ポイントを獲得してチャンピオンとなった。
ウィリアムズF1チーム(2011~)
2010年シーズン終了後、アブダビで行われた若手ドライバーテストにHRT、ウィリアムズから参加。同年12月に翌2011年のウィリアムズのレギュラードライバーとなることが発表された。
2011年(ランキング19位、1pt)
2011年シーズンはF1キャリア19年目の大ベテラン、ルーベンス・バリチェロと組み参戦。
第5戦スペインGPで初めてQ3進出を果たすと、第6戦モナコGP、第9戦イギリスGPでもQ3へと進出し、Q3進出が一度もなかったバリチェロに対し速さをアピールした。
しかし決勝ではモナコGPで6位走行中、ゴールまであと5周というところでルイス・ハミルトンと接触し入賞をフイにしたのを始め、自らのミスや他車との接触、それらに起因するペナルティが原因で順位を落とすことが多く、入賞は第12戦ベルギーGPでの1度だけに終わった。
そのためファンにはレースのたびになにかやらかしているような印象を与え、「師匠」という不名誉な称号を授かることになってしまった。
2012年(ランキング15位、45pts)
昨年度のバリチェロに代わり、HRTから移籍のブルーノ・セナがチームメイトとなった。
開幕戦オーストラリアGPでいきなりQ3に進出し8番グリッドを獲得、第3戦中国GPでは粘り強い走りを見せ8位入賞。
さらに第5戦スペインGPでは予選2番手タイムを記録し、ルイス・ハミルトンが予選終了後にガス欠となり除外されたために自身初のポールポジションを獲得した。翌日のレースではスタート直後にアロンソに交わされたものの、粘り強い走りで2位をキープし、2回目のピットストップでアロンソを交わすとそのまま逃げ切り、キャリア24戦目にして初優勝を果たした。
しかし、これ以降はシーズン20戦中13戦でQ3進出を果たし予選での速さが際立つ一方で、決勝では相変わらず接触やそのペナルティによるグリッド降格によって満足行くレース運びが出来ず、入賞わずか5回、獲得ポイント数は45に留まった。
エピソード
- 安定感には欠けるが一発の速さには定評があり、予選ではたびたびチームメイトを上回る速さを見せる。
また、バトルでは一歩も引かない典型的なファイター系のドライバーである。 - 市街地コースが大の得意。
モナコではGP2初優勝を飾ったほか、2011年には8番グリッドからスタートし残り5周まで6位を走行、2012年にも予選9番手タイムを記録(ペナルティで15グリッド降格)。また2012年の第8戦ヨーロッパGP(バレンシア市街地コース)では予選3位、第14戦シンガポールGPでは予選2位を獲得するなど、非常に相性が良い。 - しかし2005年にはモナコで行われたフォーミュラ・ルノー3.5のレースにおいて、黄旗無視をした結果マーシャルと接触事故を起こし背骨を骨折する大怪我を負わせ、主催者よりモナコ市街地サーキットでのレースから永久追放するという厳しい処分を下されている。
のちにマルドナドの父親が怪我をしたマーシャルの回復及びリハビリ費用を負担する事を約束し、現在は問題なくF1モナコGPにも出走できる。 - 2011年シーズンオフ、ウィリアムズとベネズエラの国営石油企業であるPDVSAとのスポンサー契約の請求書が流出した。それによれば、年間2940万ポンド(当時のレートで約36億円)もの巨額の契約が結ばれており、しかも年々増額し2015年には4000万ポンド(同:約49億円)にも達するという内容であった。
PDVSAはマルドナドの持ち込みスポンサーであったため、マルドナドはこれにより「史上最高額のペイドライバー」と揶揄されることになってしまった。 - 2012年第5戦スペインGPにて初優勝を果たしたマルドナドだが、レース後の記念撮影中に突如ウィリアムズのピットで火災が発生。黒煙が立ち上るピットには足を骨折したマルドナドの従弟・マヌエル君が取り残されていたが、マルドナドは我が身を省みずピットに入りマヌエル君を救助。初優勝の功績とともに、新聞紙上で「英雄」と讃えられた。
- 2012年イギリスGPの決勝では、12周目に同じく接触事故の多いセルジオ・ペレスと接触しペレスがリタイア、自身も大きくポジションを落とした。
ペレスはレース後にマルドナドを激しく非難したのに対し、マルドナドは1万ユーロ(約100万円)もの罰金と叱責を受けたにもかかわらず「ドライビングスタイルを変える理由はない」と言い放ち、その大物ぶりを見せつけた。 - 2012年シーズンの夏休み、初優勝後初めて母国に凱旋しデモランを行った。当初は特設コースを12周する予定であったが、あろうことか2周目にスピンを喫しクラッシュ、そのままデモランは中止になってしまった。
- 2012年第12戦ベルギーGPでは、近年稀にみるほどの派手なジャンプスタートをやらかしてしまった。
マルドナド曰く、「クラッチを操作していた手が滑って離れてしまった」とのこと。 - 2012年第15戦日本GPにて、ドライバーに記憶だけを頼りに鈴鹿サーキットのコース図を描いてもらうという企画で、立体交差のない斬新な「鈴鹿サーキット」を描き話題になった。
- 2011年シーズンは5回、翌2012年シーズンには15回ものペナルティを受け、2年連続ぶっちぎりのペナルティキングである。これに関してはマルドナド本人も少しは気にしているらしく、「スチュワードに会う回数を減らしたい」とコメントしている。
- 小さい頃は多くのベネズエラ人同様に野球が好きで、マルドナド曰く「野球でも成功できる才能があった」らしい。
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関連項目
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