- プロ野球選手一覧 > ラリー・パリッシュ
ラリー・パリッシュ(Larry Alton Parrish)とは、元プロ野球選手である。
概要
OB | |
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ラリー・パリッシュ Larry Parrish |
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基本情報 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | フロリダ州 |
生年月日 | 1953年11月10日 |
身長 体重 |
190cm 98kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 内野手、外野手 |
プロ入り | 1972年 |
引退 | 1990年 |
経歴 | |
選手歴
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プロ野球選手テンプレート |
1953年11月10日生まれ。アメリカ合衆国フロリダ州出身。
セミノール短期大学卒業後、1972年にモントリオール・エクスポズと契約。1974年、ウォーレン・クロマティとともにメジャー昇格を果たし、同年は25試合に出場。1975年からはサードのレギュラーに定着。1979年には30本塁打を放ち、オールスターゲームにも出場。しかし、1981年、ホームクロスプレーの際に左膝靭帯を断裂する大怪我を負う。負傷後、3度の手術を経て復帰。1982年、テキサス・レンジャーズへ移籍。レンジャーズ時代は毎年20本前後の本塁打を放ち、1987年には32本塁打を記録して、久しぶりにオールスターゲームにも出場。1988年シーズン途中にボストン・レッドソックスへ移籍している。
1989年、メジャー通算256本塁打のパワーを買われ、ヤクルトスワローズに入団。
ヤクルト入団後、開幕から4番打者として起用されると、期待されたとおりに本塁打を量産。オールスターゲームにもファン投票で選出されるなどヤクルト打線を引っ張り、打率.268、42本塁打、103打点を記録し、本塁打王のタイトルを受賞、ベストナインにも選ばれた。
しかし、シーズン後にヤクルトの新監督に就任した野村克也から、129三振と三振の多さを欠点として「確実性のない奴はいらない」と評価されず、契約延長されなかった。その後、優勝以降低迷が続き、パリッシュと本塁打王を争ったセシル・フィルダーが退団したことで4番打者の補強が急務であった阪神タイガースと契約。
阪神でも開幕から4番打者として活躍し、本塁打を量産。2年連続でオールスターゲームに出場するなど活躍したが、8月に入り、古傷の左膝7の状態が悪化。残り30試合を切った時点で本塁打王争いのトップを走っていたが、膝が限界を迎えドクターストップがかかる。チームには「タイトルに拘りは無いので 私の代わりに将来有望な若手を使って下さい」と伝え、数試合に出場した後、シーズン途中に退団。事情を知ってたチームメイトたちからは送別会が開かれるなど、暖かく送り出された。
引退後はマイナーリーグのコーチや監督を経て1997年、デトロイト・タイガースのベンチコーチに昇格。1998年シーズン途中からは前監督の退任に伴い、監督に昇格、1999年まで監督を務めた。その後、マイナーチームの監督を務めた後、2011年には、アトランタ・ブレーブスの打撃コーチを務めた。
人物・エピソード
三振を恐れない豪快な打撃で、日米で本塁打を量産した長距離砲。頼れるスラッガーではあったが、巨人のエース斎藤雅樹は大の苦手としていた。
結果を残せなかった際に、ベンチで暴れることが多かったため、ストレス発散用として「ラリーくん人形」というサンドバッグをベンチ裏に置いていた。
入団会見でワニが好物と答えたことから「ワニを食べる男」と呼ばれ、寄食家として話題となった[1]。当時、都内に1件だけワニを提供する店があり、その店に通い英気を養っていたという。
通算成績
打撃成績
通算:17年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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MLB:15年 | 1891 | 7450 | 6792 | 850 | 1789 | 256 | 992 | 30 | 31 | 56 | 529 | 42 | 1359 | 187 | .263 | .318 |
NPB:2年 | 235 | 970 | 874 | 131 | 227 | 70 | 183 | 2 | 0 | 8 | 78 | 10 | 227 | 34 | .260 | .325 |
獲得タイトル・表彰
関連動画
関連項目
脚注
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