徳川宗春(1696~1764)とは、江戸時代中期に活躍した大名である。
概要
尾張藩7代藩主。つまり御三家の一角であり、徳川吉宗に真っ向から反抗した人物として有名。
父は尾張藩3代藩主・徳川綱誠であり、三浦太郎兵衛の娘との間に生まれた20子(この数字に関してはぶれが大きいが、兄弟の多くが数年足らずで亡くなっているためとか)。享保元年(1716年)に従五位下主計頭となり、さらに従四位下に上る。享保14年(1729年)には尾張藩の御三家ともいうべき四谷、大久保、川田久保の三家のうち大久保家の後を継いで、陸奥国梁川三万石を与えられた。
しかしこの大久保家は尾張徳川宗家に後継ぎがなければそれを継ぐ立場にあり、実際6代藩主の兄・徳川継友の急死によって享保15年(1730年)に尾張藩主に繰り上がった。
こうして享保16年(1731年)に尾張に入国した徳川宗春であったが、この時点で自分の政治理念を記した『温知政要』を藩士に配る。この中身は法規制の緩和、庶民消費の増大などを説き、時の征夷大将軍・徳川吉宗の政策を真っ向から批判するものであった。
藩主になった徳川宗春は、前代に簡素化された東照宮祭礼の再興、芝居小屋増設、遊郭の設置の許可、商工業振興などの諸政策を打ち出した。こうして経済・文化で三都に次いで栄えることとなった名古屋だったが、享保17年(1732年)にはさっそく幕府から三箇条の詰問を受けてしまう。ついには藩財政悪化、重臣との対立、謀反の噂などによって元文4年(1739年)に隠居謹慎を命じられ、幽閉される。彼の政策は8年間で水泡に帰したのであった。
さらに亡くなると、墓石には天保10年(1839年)まで金網がかけられ、100年近くほとんど罪人同然の扱いを受けることとなった。果たして彼が近代的なセンスの持ち主であったかどうか、杳として知れない。
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