今回帰結せられたる独ソ不侵略条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので、我が方は之に鑑み従来準備し来った政策は之を打切り、更に別途の政策樹立を必要とするに至りました
欧州の天地は複雑怪奇とは、平沼騏一郎首相のボヤキ発言である。
概要
1939年8月28日、時の首相、平沼騏一郎が総辞職時に発した声明である。
同年8月23日、世界を驚天動地に至らしめた独ソ不可侵条約が締結された。ドイツは東方生存圏の対象地として、ソ連はイデオロギー上の宿敵として互いに忌み嫌っていた両国が突如手を結んだのである。
国際連盟から脱退し、満州でのソ連との国境問題(同年にはノモンハン事件が発生している)を抱え、新たなる同盟国としてドイツとの関係深化を考えていた平沼にとってこの同盟はまさに寝耳に水であった。
元々前内閣であった近衛内閣からほとんど閣僚が変わっていなかったという事情もあり、8月28日に平沼騏一郎は天皇に辞表を奉呈した後、この声明を発表。内閣は総辞職した。8月30日にその政権は陸軍大将の阿部信行に渡ることになる。
現在では理解し難い国際情勢に対する感想として引用されることがある。また、「欧州情勢は複雑怪奇」と改変されるケースも。
ちなみに、「こんなことが起きるなんて、欧州の政治情勢は複雑怪奇だ」といった意味合いだと勘違いされている節もあるが、上記の引用部を読めばわかる通り本来の文脈では「このようなことが起きたために、欧州の政治情勢には新たに複雑怪奇な状況が生じました」といった意味合いである。
経緯
1939年。後世からは第二次世界大戦のはじまった年として刻まれるこの一年はまさに激動の年であった。
3月にヒトラーは前年に行われたミュンヘン会談での合意を破ってボヘミアを占領し、チェコスロバキアの分割に踏み切った。英仏はこれに厳重な抗議をするも、まだ宥和政策を捨てきれず、実力行使にはでなかった。これを見たヒトラーはこの直後に、続いてポーランドへダンツィヒ割譲を迫るなど戦争へのカウントダウンは迫っていった。
我が国においても、先年から続いていた日中戦争は泥沼が続き、北方に国境を接するソ連とも張鼓峰事件やノモンハン事件など国境紛争が相次いでいた。そして、7月には遂にアメリカから日中戦争を理由に日米通商航海条約の破棄が通告され、40年1月以降アメリカと一切の貿易が途絶える事(付属議定書の規定で破棄通告から半年間は有効)が明白になり、国際関係の再構成を迫られる事態となった。
外交政策を所掌する外務省は当時、東亜新秩序による日本のアジアにおける主導権を是とする「アジア派」が主導しており、その方策として相容れない欧米とは距離を置き、同じく民族主義を推し進めるドイツとの同盟や接近を模索していた。また、防共の意味合いでもソ連を不倶戴天の敵とばかりに対立していたドイツとの協調は日本にとっても好都合だった。
しかし、そんな状況下でまさかの事態が置きた。8月23日に突如としてドイツ外相のリッベントロップと、ソ連外務人民委員のモロトフとの間で不可侵条約が調印されたのである。水と油とされた両国の急速な接近はヒトラーが新郎でスターリンが新婦とかいう気持ち悪い風刺画(一応閲覧注意)を以て語られ、多くの困惑と議論を呼び起こした。この裏には、ソ連のバルト諸国併合の容認とポーランド分割などの秘密議定書があり、スターリンはまんまと釣られるということも知らずにそれに乗ったというものがあったが、当然そんなことはその時点で誰も知る由がなかった。
これを知った平沼は8月28日に「欧州の天地は複雑怪奇」の声明を発出して総辞職を決行。30日には概要の通り阿部信行に引き継がれるが、それから2日後の9月1日にドイツはポーランドへ侵攻。人類の大半を巻き込み、地獄の底へ叩き落した第二次世界大戦の幕が開けることとなる。
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関連項目
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