矢十字党とは、1939年3月15日から1945年1月にかけて存在したハンガリーのファシズム団体である。本拠地はブダペストで、指導者はサーラシ・フェレンツ。
概要
矢十字党は、ドイツのナチス党に感銘を受けたサーラシ・フェレンツが1935年に結成した国民の意志党が原型であった。政府によって活動を禁じられたが、1937年10月にサーラシのもとへ急進派右翼が集結。新党結成の機運が高まり始めた。そしてドイツの支援を受け、1939年3月15日に矢十字党が結成された。党名及び党旗に使用された矢十字とは、ハンガリーに入植した古いマジャル人の象徴である。ハンガリー国内には既に矢十字党と同じようなファシズム団体が複数存在していたが、巧みな選挙活動によって有権者の支持を得る。5月の選挙では25%以上の票を得て、30議席を獲得。一気に他のファシスト団体を出し抜いた。しかし第二次世界大戦が勃発すると、政治中枢に後ろ盾を持っていなかった矢十字党は摂政のホルティ・ミクローシュから法的禁圧を受け、表立った活動が出来なくなってしまう。それでも党員数は増え続け、1940年には40万人の党員を抱える一大政党へと成長する。
ナチスを規範としており反共、反ユダヤ、反資本主義、国家主義などを掲げているが、一方で労働者の権利向上や土地の改良で農業振興も図っており、他国のファシスト団体と比べるとまだ優しい方だったとか。
第二次世界大戦
ハンガリーは枢軸国として第二次世界大戦に参戦。独ソ戦勃発時にはソ連へ宣戦布告、真珠湾攻撃後はアメリカへ宣戦布告した。しかし独ソ戦の旗色が悪くなった1944年初頭、摂政ホルティは連合国との和平を模索し始めた。当然これをドイツが許すはずが無く、3月19日に11個師団がハンガリーに投入された。同盟国同士の関係だったので抵抗らしい抵抗を受けずに首都ブダペストへ到達。ホルティを摂政の座から引き摺り下ろし、親独派のストーヤイ・デメを首相に据えた。ストーヤイによって矢十字党は合法化され、ようやく地下活動から陽の目の当たる場所へ出る事が出来た。続いてアドルフ・アイヒマン率いるユダヤ人問題解決チームとともに、公然とハンガリー国内のユダヤ人を虐殺し始めた。アウシュヴィッツ強制収容所の処理能力が追いつかなくなるほどユダヤ人が送られたという。
だが東部戦線の崩壊に伴い、ハンガリーにはソ連軍が大きな足音を立てて迫りつつあった。そこでホルティはストーヤイを解任し、親米英派のラカトシュ・ゲーザ陸軍大将を首相に任命した。この背任に激怒したドイツは10月15日にパンツァーファウスト作戦を決行し、ホルティの息子を誘拐。これに呼応して矢十字党は郵便局、駅、ラジオ局を占領した。
「大切な息子を誘拐されたホルティは子供のように泣き喚き、ドイツに絶対の忠誠を誓った。」と記されることもあるが、ホルティの回顧録[1]では少々事情は異なる(もちろん、回顧録では自己弁護的に記したものかもしれないが)。ともあれこのホルティ自身の回顧録でも認めているところでは、当初は抵抗の意思を示していたものの、最終的に息子の命と引き換えにドイツ側の求める内容の書類にサインするよう迫られたホルティは「私がサインせずとも結局何も変えられないだろうが、サインをすれば少なくとも息子の命は助けられる」と判断し、結局サインした。その結果サーラシが首相に任命され、翌16日にホルティは退任。ホルティの息子の命は助かった。10月中旬、ヴェレシュ・ヤーノシュ参謀総長がラジオでサーラシが首相に就任する旨の発表を行った。
ホルティは政界から追放され、サーラシが国民統一政府を樹立して総統の地位に就任。ハンガリーを掌握する。矢十字党が支援された理由は、他の親独組織が消滅ないし裏切っていて矢十字党しか無かったためとされる。正式に国の舵取りを任された矢十字党は本格的にユダヤ人絶滅を目指し、警察と共同で隠れていたユダヤ人を追い立てた。矢十字党の部隊が路上を闊歩し、ユダヤ人を見つけては射殺。死体をドナウ河に投げ込み、流れていく死体で射撃訓練を行った。全世界がユダヤ人に冷淡だった背景もあり、カトリック教の司祭も絶滅に加担していた。およそ10~15万人のユダヤ人が殺害され、8万人がアウシュヴィッツ送りとなった。もはやハンガリー国内にユダヤ人の安息の地は無かった。またサーラシは対独協力を惜しまず、労働力、工業力、農業資源をドイツ軍に提供。少年から老人まで徴兵して戦力とした。
ハンガリー国内は地獄であったが、国外も地獄だった。既にソ連軍と寝返ったルーマニア軍との戦闘が始まっており、首都への侵攻は秒読み段階に入っていた。1944年10月29日にソ連軍がブダペスト攻勢を開始。このため11月にサーラシはブダペストを脱出。翌12月には遂にブダペストが攻囲され、1945年1月には市街戦となった。2月13日に街を守っていたドイツ軍とハンガリー軍が降伏し、首都は陥落した。同時に矢十字党政権も崩壊したが、残党はドイツ軍とともに西方へ退避し、徹底抗戦の構えを見せた。ちなみに廃墟となったブダペストにソ連軍が入ってきたが、野獣と化した兵士によってユダヤ人婦女子がレイプされている。ハンガリーの大部分をソ連軍に占領されたが、それでも西端部分では残党が奮戦しており、1945年4月30日まで戦い続けたという。ドイツを裏切った国や勢力が多い中、クロアチア独立国と並んで最後まで裏切らなかった忠節の士である。
終戦後、ソ連によって矢十字党の関係者は逮捕され、人民裁判所で裁かれた。指導者のサーラシも逃れる事は出来ず、刑死している。
関連動画
関連項目
脚注
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