米墨戦争単語

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アメリカメキシコセンソウ
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米墨戦争とは、19世紀に発生したアメリカメキシコ間で発生した戦争である。

概要

1846年から1848年にかけて行われた、太平洋への進出を狙っていたアメリカがその障害となったメキシコに侵攻したことで発生した戦争である。アメリカメキシコを意味し、カタカナアメリカ・メキシコ戦争とも記述する。

元々は現在のテキサス州とその周囲の帰属をめぐる紛争が発端であったが、西側への開拓を推し進めていたアメリカ、もとい入植した人々はメキシコ政府の圧政を嫌ってサンアントニオを中心に独立。テキサス共和立し、様々な紆余曲折の末、1845年にこれを併合。メキシコ側はこれをよしとせず抗議を続け、アメリカの挑発もあって遂にヌエセス周辺で軍事行動にでたことで1846年より本格的な戦闘に突入した。

戦闘はほぼアメリカ導のもとで進み、陸軍ニューメキシコカリフォルニアを制圧。海軍メキシコ本土のベラクルスに上陸して衝背し、そのまま首都メキシコティまでなだれ込んだことでほぼ決着。1848年にメキシコティ郊外グアダルーペ・イダルゴで講和条約を締結して終戦した。

これでアメリカカリフォルニアニューメキシコ1500万ドルで買収するという形で獲得した。これはの実に3倍以上に相当する136キロメキシコの建時の領土の3分の1に相当し、アメリカにとっては大規模な拡大であった。

これでアメリカ太平洋への出口を確保することに成功したが、このあまりにも大きすぎる領土をめぐってアメリカ内は政治的に大きく紛糾し、一時は均衡のとれた協定で危機は去ったが(1850年協定)、わだかまりは消えず、南北戦争へと向かっていく。そして、にとっては来航への直接的な動機の一つにもなり、世界史の上でも見逃すことのできない重大な出来事である。

世界史でも一応教科書には出てくるがさらっとやって終わってしまうので、以下に詳しい経緯を記述する。

経緯

西漸運動とテキサス共和国の成立

1803年のフランスからのルイジアナ買収以来、アメリカ西部開拓を熱心に行っていた。

現在では西漸運動とよばれるこの大規模な拡1830年代には遂に現在のテキサス州にまで及んでいた。

現在のテキサス州全域に加え、ニューメキシコワイオミング、コロラド、カンザス、オクラホマニューワイオミング州の一部を包含したこの地域は当時はまだ1821年にようやくスペインから独立したばかりのメキシコが保有していた。彼の大航海時代スペインが獲得した中から北にかけての地域(ヌエバ・エスパーニャ)をほぼそのまま継承しており、広大な領域を誇っていたのである。

しかし、このメキシコ領テキサスというのはスペインほどではないにしても、メキシコティからはたいへん遠い(ロサンゼルスまでで2500km、ヒューストンまでで約1200km。いずれも直線距離)。それだけでなくグーグルマップをみてみればわかるが間には山脈や砂漠、荒野などが遮り、まだ基盤の整っていないこの若き導して開発するのは荷が重かった。

そこでメキシコ政府は、200世帯以上の家族を連れてくることを条件に、入植者たちに広大な土地を償で提供することを約束した奨励策を打ち出した。エンプレサリオと呼ばれた彼らはこぞってメキシコ領への入植や開拓を進め、1835年までに数万もの人々がテキサスに住み着いた。この政策には特に籍の制限はなかったため、特にプランテーションを所有する南部の農園を強く惹きつけた。特に知られているのはスティーブン・オースティンという人物で、彼はメキシコ政府と折衝を続けながらこの地域へのアングロアメリカ人の植民を進めたため、現在では「テキサスの」と尊敬を受けている。

しかし、このまま平和的に進むかといえばそうはいかなかった。な担い手となった農園たちは労働として黒人奴隷を連れてきており、信条もバラバラであった。黒人奴隷も、カトリックへの宗も入植の条件に定めていたメキシコ政府はこれを容認するはずがなかった。当時のメキシコ政府サンタアナという「西半球のナポレオン」を自称する軍人が大統領又は政治的なを強く持つ人物として鎮座していた。彼は連邦制軸としていた1824年憲法を、1836年に中央集権的な性格に変える「シエテ・レイェス」で変するなどの強権的な政治を行うなどしたため、テキサス以外でも様々なメキシコの州で大きな反発のがあがっていた。

メキシコと入植者たちの対立は深まるばかりで、1835年にこのシエテ・レイェスへの布石として1824年憲法止したことを契機に、1835年10月よりオースティンを中心にテキサスへ入植した人々はメキシコへ反乱を起こした。

彼らはゴリアドやアラモなどで鎮圧軍を率いるサンタアナの前にに敗北を重ねたが、彼は敗者をことごとく虐殺した。テキサス人たちの彼らの怒りは累積し、その恨みをにかえて1836年4月サンジャントの戦いでメキシコ軍に決定的な勝利を収めた。サンタアナは敗走中、沼地に隠れているところをテキサス軍に見咎められて捕縛された。

テキサス人たちは、サンタアナを半ば脅迫に近い形で、身の安全を保障する代わりにテキサス共和の全面的な独立を容認することを趣旨とするベラスコ条約を認めさせた。彼らはそれを根拠に独立を宣言し、正式にそのを「テキサス共和」と命名した。初代大統領にはテキサス軍を率いたサミュエル・ヒューストンが就いた。

テキサス問題

この頃のアメリカジャクソン大統領の下、先住民インディアンを弾圧する強制移住法の制定などで本格的に西部開拓を進めていた。その為、テキサス共和についても1837年に承認し、アメリカ人の入植を進めた。だが、独立を認めたはずのメキシコ政府脅迫による強制ということを理由にしてベラスコ条約を効とし、テキサス共和を承認せず、再び併合しようと準備を進めていた。

テキサス共和はこれを受けてアメリカ政府に対して併合することを依頼した。しかし、ここまでの経緯をみれば分かる通り、テキサス共和プランテーションの農園たちなどを軸としていた為、奴隷制を認めた上での併合を要していた。当時のアメリカ世界史でも習う通り北部と南部での対立が発生しており、奴隷制は大変デリケートな議題となっていた。

メキシコとの全面戦争を回避するという思惑や、奴隷制反対の自由州の圧もあり、ジャクソン大統領は併合問題を先送りにした。次代のヴァンビューレン大統領ハリソン大統領も慎重な姿勢を示し、独立から数年の間いわば宙りの状態となっていた。だが、待たされている間にメキシコによる再征を嫌気して、メキシコ共和内では英国と結んで太平洋まで進出すべきなどという意見もではじめたことで、ハリソンの次についたタイラー大統領はカルフーン務長官の尽もあって1844年に併合条約を調印するところにまでこぎつけた。しかし、やはり北部議員たちの奴隷州増大の反対のおされ上院での承認が得られず(合衆憲法では条約の批准は上院の権限であるため)、またも先送りになった。

そんな中でむかえた1844年の大統領選は驚くべき事態が発生した。大統領への最有補であったホイッグ党のヘンリー・クレイ民主党ヴァンビューレンはテキサス併合反対を掲げて議題としない合意をしていたのにもかかわらず、民主党ダークホースされていたジェームズポーク選挙ヴァンビューレンを破った。そしてポークはテキサス併合と、当時魅的な入植先とされていたオレゴン(だいたい今のカリフォルニア州よりも北の全地域)の全獲得を約に掲げたのである。「ジョン・オサリヴァンがテキサス擁護の記事の中でマニフェスト・デスティニーの言葉を使うのはこの翌年のことであった)」論と膨義の熱狂におされていた民たちの支持を取り付け、1844年大統領選は対立補のクレイに対して170105選挙人で計算。ちなみに得票数では3万票差ほど)の大差でポーク勝利した。

大統領に就任したポークはそのままの勢いで、上院にテキサス併合を認めさせ、1845年12月奴隷州としてのテキサスの合衆加入が認められたのである。論、これはメキシコとのさらなる緊を生むことになった。大統領ポークはテキサス共和に加えてカリフォルニアニューメキシコの併合を画策。11月にそれらの地域を2500万ドルで買収することをメキシコ政府に提案したが、にべもなく断られた。

開戦から終戦。その後

そして、1846年4月リオグランを挟んで戦闘が勃発。5月アメリカメキシコ宣戦布告し、米墨戦争が勃発した。ザカリーテイラー少将官とする北部軍はメキシコ領テキサスやカリフォルニア全域に展開し、モンテレーの戦いなど緒戦の一部で頑強な抵抗にあうなどはあったものの、全体的にはアメリカ軍優位に展開。1847年2月のブエナ・ビスタの戦いでアメリカ勝利を収め、メキシコカリフォルニアに至るまでのメキシコ領にあった北の全土の確保を確実なものにした。これらの戦いの功績が讃えられ、次回の大統領選挙ではテイラーが制し、大統領に就くことになる。

ウィンフィールドスコット率いる南部軍はベラクルスに上陸し、そのまま首都メキシコティまで進撃。1847年9月に陥落させて米墨戦争の帰趨を決した。この海軍を用いて敵の側面をつくというやり方は、アメリカ軍の伝統的な手法であり、第二次世界大戦ノルマンディーや、朝鮮戦争の仁川上作戦などにまで受け継がれることとなる。

メキシコ首都を占領し、ほぼ抗戦不能に陥れたアメリカ1848年2月にグアダルーペ・イダルゴ条約を締結し、ほぼ当初の通りの領土をメキシコから買収することに成功した。買収額は当初からは少し値引きにされて1825万ドル1500万ドル債務帳消し325ドル)である。

戦闘被害アメリカ軍の戦死者1700名に対して、メキシコ軍のそれは25000名にのぼった。しかもアメリカ軍側の死者はほとんど熱などの疾病によるものとされているので、この戦争が如何にワンサイドゲームだったかを物語っている。

この広大な領土を手にしたアメリカ大陸国家としてほぼ完成をみた。以後、1890年に至るまで開拓と植民を続け、現在に至るまでの覇権国家へのを歩むことになる。ロサンゼルスシアトル、ヒューストンサンフランシスコなどこの戦争の結果よって大きく成長した都市たちがアメリカ屋台になっているのは周知の事実であろう。しかし、その直後においては獲得した領土の帰属を巡って政治的な紛争が発生した。

特に大きな問題となったのはアメリカに新たに加わったカリフォルニア州の扱いであった。かの州はこの戦争の終結直前である1848年1月に大規模な脈がみつかり、ゴールドラッシュが発生し、多くの掘り人夫が押し寄せた。その為すぐに合衆憲法の規定する州の条件に到達することになったのだが、これを奴隷州とするか自由州とするかで対立が発生した。

元々この問題は1820年にミズーリ協定という形で奴隷州と自由州のバランスを保っていたものの、戦争の結果生じたこの新たな獲得領土の扱いで再燃したのである。新たに就任したテイラー大統領はそのカリフォルニアだけでなく、同じく獲得したニューメキシコまで自由州にすると言ったものだから奴隷制を支持する南部の住民は大きく反発した。カリフォルニア州は上記の経緯もあってあくまで移民の達の”自由な土地”であることに意義を感じていたため、州憲法では奴隷制を認めないことをはっきりと明示した。

結局これはホイッグ党のヘンリー・クレイによる提案で一旦は落ち着いた。すなわち、カリフォルニア自由州とし、ニューメキシコユタは準州としてその選択は住民の意思で決めるという北部側の意見を取り入れる代わりに、南部側の事情を配慮してテキサスの独立運動で負った債務は全て連邦政府が肩代わりして、逃亡奴隷法の強化を同意するという内容のものであった。

このレイ妥協と呼ばれる出来事は当面の分裂を回避することに成功した。しかし、逃亡奴隷法の強化はアボリショニスト(奴隷論者)の怒りを呼び起こし、わだかまりを生むことになった。このように、残火はくすぶり続け、この妥協のわずか4年後の1854年にカンザス・ネブラスカ法という再び均衡を破る法律が成立するなど、もう一つのアメリカの重大な転機となる南北戦争へと繋がっていくのである。

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米墨戦争

1 ななしのよっしん
2023/09/06(水) 02:04:51 ID: oO7GUfDxZ/
米騒動すごい版かとおもった
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2 ななしのよっしん
2023/09/06(水) 10:10:03 ID: 0TYM184Adj
“Remember ****!” ってスローガンのルーツは、サンタアナ率いるメキシコ軍の皆殺し戦術に対して
テキサス軍が呼号したもの、という説明も入れて欲しいな。
みなも太郎・著『風雲児たち』がソースなので、どこまで信用していいか知らんけど
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