- プロ野球選手一覧 > 郭源治
郭源治(1956年10月5日~)とは、台湾出身の元プロ野球選手である。
現役時代は中日ドラゴンズに所属し、先発・抑えの双方で大活躍をした。
1989年に日本に帰化したため現在の名前は佳久源治。
概要
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台湾の貧しい農家の3男として生まれ、68年には投手兼外野手としてリトルリーグワールドシリーズの台湾代表・金龍隊に選ばれ、優勝に貢献している。
リトルリーグにて優勝した郭は本人曰く「1ヶ月は王様の様な暮らしをした」が、家は学校にも裸足で行かねばいけないほどの貧しさだったため、思わず郭は泣いてしまったという。しかしこの経験が郭のハングリー精神を呼び覚ます。
81年、郭のもとに日本球界から誘いが来る。最初はロッテから誘いが来ており郭は同僚の李宗源と共に入団するつもりだったが、ロッテの後にやってきた中日がロッテ以上に熱心に誘いをかけてきたため、「巨人以外の球団は知らなかった」郭は自分を高く評価してくれた中日を信頼して中日への入団を決めた。
兵役の関係で開幕には間に合わず7月の来日となり、8月30日の大洋戦で6回2失点で初勝利を挙げたが、その後は日本の環境になかなか適応することが出来ず、この年はこの1勝に終わっている。
「他の台湾の選手達のためにも自分が失敗するわけにはいかない」と意気込み、球団が用意したマンションではなくチームの合宿所に入り、通訳も断って背水の陣で臨んだ郭だが、さすがに言葉の壁や台湾以上に複雑なサインプレーには悩まされ、何度も孤独感に襲われ台湾に帰ろうかと思ったようだ。
しかし2年目の82年にのちに夫人となる女性と知り合ったことで徐々に日本に適応していき、シーズンでも先発に定着して9勝を挙げて同年の中日の優勝に貢献。しかし日本シリーズでは初戦でわずか1と3/1回を投げるのみにとどまった。
83年から86年は4年連続で二桁勝利を挙げて先発の一角として活躍していたが、87年に星野仙一が監督に就任すると、それまで抑えを務めていた牛島和彦を落合博満とのトレードで放出したため、星野は抑えに郭を指名する。
先発にこだわりがあり、牛島と仲が良かったため抑えの苦労を聞かされていた郭は当初乗り気ではなかったが、星野から「お前しかいない」と言われると抑えの転向を受け入れた。
しかしシーズンに入るとこの起用がピタリとはまり、郭は先発時の変化球多めの投球から闘志をむき出しにして速球を投げ込むスタイルに転身し、この年98回を投げて4勝3敗26セーブ、防御率1.56という成績で最優秀救援投手のタイトルを獲得する。
翌88年は前年以上の試合数・投球回を投げ、優勝決定戦となった10月7日のヤクルト戦では胴上げ投手となっている。
この年は先発登板は一度も無いにも関わらず111回を投げて7勝6敗37セーブ、防御率1.95という大活躍でMVPに選出された。またこの年記録した44セーブポイントは98年に佐々木主浩に破られるまでは日本記録だった。
だが日本シリーズでは第2戦に勝利投手となるも、1勝3敗で追い込まれた第5戦目にて延長11回裏にサヨナラ打を打たれている。
89年も引き続き抑えとして活躍するが、90年は故障もあって抑えの座を与田剛に譲り、復帰後は先発として投げている。89年に日本に帰化し、本名を「佳久源治」とする。(ただし中日での登録名は郭源治のまま)
91年は先発として13勝を挙げたが、93年は先発・抑えの双方をこなすなど起用法が定まらなかった。
それでも94年には防御率2.45で最優秀防御率のタイトルを獲得したが、95年からはけがに苦しみ、96年限りで中日を退団する。
そして翌97年、ナゴヤドームのこけら落としとなったオープン戦に引退試合として登板し、先頭打者のイチローを打ち取って有終の美を飾った。
文字通りこのまま現役を引退かと思われた郭だが、「半年休んだら怪我が治った」とのことで台湾球界にてまさかの現役復帰を果たし、99年には42歳という年齢ながらシドニー五輪の台湾代表に選出されアジア予選に登板している。
その後99年のシーズン後に今度こそ現役を引退すると、2001年には日本にて「郭源治 台南担仔麺」という店を出したが中華プロ野球の首席顧問に就任するため、2013年3月をもって閉店している。
台湾ではアジアシリーズを盛り上げるため日本側に協力を要請したり、2013年に恩師の星野仙一が率いる楽天イーグルスがアジアシリーズに進出した際は自ら星野らを出迎えるなど積極的に動いたが、 2014年8月29日をもって首席顧問を辞任している。
プレースタイル・エピソード
最速151キロのストレートとスライダー、シュート、シンカーを持ち球とし、先発時代は変化球の割合が多かったが、抑えとなってからはストレートが投球の半分を占めている。
変化球は右打者に対してはスライダーで外角を攻め、左打者に対してはシンカーで引っ掛けさせる投球を心掛けた。
もとより優しい性格のためメンタル面で抑えには向かないのではと言われていたが、88年は走者なし時の被打率が.191に対し走者がいるときは.179、また1点差での被打率が.140でそれ以上の点差よりも低いなど、ピンチや緊迫した場面ほど力を発揮している。
投球以外にも元々の身体能力が高かったためか打撃や守備でも好プレーを見せ、88年5月13日の巨人戦では槙原寛己から9回裏にサヨナラ2ランを放っている。
93年4月27日の中日戦では8回まで無安打投球を続けていたが、9回に先頭の久慈照嘉に対し捕手・中村武志の内角直球のサインを見間違えてシンカーを投げてしまい、それを安打にされて記録を阻まれた。
通算成績
通算:19年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB(16年) | 496 | 72 | 17 | 106 | 106 | 116 | -- | .500 | 1971 | 608 | 1415 | 795 | 706 | 3.22 |
CPBL(3年) | 52 | 4 | 0 | 28 | 11 | 0 | -- | .718 | 293.1 | 64 | 204 | 113 | 87 | 2.67 |
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関連項目
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