二・二六事件 単語

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ニーニーロクジケン

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二・二六事件とは、1936年昭和11年2月26日から29日にかけておきた陸軍青年将校によっておこされたクーデター・反乱未遂事件。

概要

当時の陸軍内部では皇と呼ばれる国家革新天皇政(昭和維新)を掲げる一と、合法的な手段で防体制を固めようと言う統制の対立が起きていた。教育を歴任した将官が多かった皇青年将校の支持を集め、警した統制は切り崩し工作や弾圧を加えた。これに対し皇は様々なテロ事件を起こすが権握には結びつかず、自分たちが除隊や満州送りされている間に中央に残った統制全に権握することを恐れた青年将校たちが事態打開のために起こしたのが本クーデターである。

しかし、結果は失敗に終わり、犯行グループの多くは銃殺刑に処せられた。

事件までの経緯

と統制の対立は大正10年(1921年)のバーデン・バーデンの密約にまで遡る。欧州出張中だった岡村寧次、スイス駐在武官の永田山、ロシア大使館付武官小畑敏四郎は来るべき次の戦争日本防についてドイツバーデン・バーデンにおいて会合をもった。に軍の近代化と長州を中心とした閥人事の一新、政の革を掲げる点では全員が一致し、帰後もしばらくは密な付き合いが存在した。昭和2年1927年)には同志を集めた二葉会が結成され、陸軍内でも無視できない存在となる。

しかし、永田小畑の意思に反して鈴木貞一と組み、昭和4年1929年)に一夕会を結成する。会合を重ねると前年に作霖爆殺事件が起きていたこともあり、満対策に焦点が当てられ武解決で一致。満州事件の下地を作り、昭和6年1931年)に実行させた。また、この事件に呼応して会と呼ばれた将校グループ社会民主主義者の北一輝クーデター未遂事件を起こす(十月事件)。人事面でも彼らに理解があるとされた荒木貞夫陸軍大臣になり、翌年には崎甚三郎が参謀次長、十郎が教育総監となり優位に進めた。


ここまでは紆余曲折を経ながらも協体制にあった永田小畑であったが、満州事変の解決に忙殺され会の運営に支障が出始めた。さらに、満州へと拡大したことによりソ連とのも大幅に拡大されたが、この対ソ政策を巡って両者はしく対立を開始。昭和7年1932年)後半、反ソ・小畑・皇ソ・永田・統制に一夕会は分裂した。また、会も十月事件の失敗と弾圧を機に統制に合流した軍人グループと皇に接近する民間グループに分裂する。

これら佐官たちの権闘争は青年将校たちにも飛び火。会を離れた北一輝青年将校たちと接触し、国家革新の必要性を説いた。世界恐慌背景にした経済不況や農の疲弊、財政界の汚職事件の多発もありこれを憂いていた安藤三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中基明、丹生忠、磯部浅一、村中孝次らの支持を取り付けることに成功する。

この尉官たちの策動に危機感を抱いた陸軍上層部は青年将校らに政治活動から身を引くように説得。しかし、青年将校たちは応じず、昭和9年1934年)にクーデター計画が露呈し、磯部村中逮捕した(ただし、この事件は統制のでっちあげ説が根強い)。だが、この事件を経ても青年将校らの反発は収まらなかった。

昭和10年1935年)、磯部村中は法廷闘争により陸軍上層部との対決を望むが無視された上で免官される。同年7月には皇崎甚三郎教育総監が罷免され、皇と統制の争いは一触即発の状況へと突入した。

同年8月陸軍省において統制の中心人物であった永田相沢三郎中佐殺される事件が発生(相沢事件)。しかし、皇への粛軍は収まることはなく、昭和11年1936年)には青年将校たちが属していた第一師団に満州への派遣が決定される。中央政局からへの排除と受け取った青年将校らは追い詰められ、ここに起死回生を図るべくクーデターを実行した。

事件の経過

中心人物は野中四郎とされる。彼は実行使を渋る安藤三を叱し、決起を実現させた。また、磯部村中は前年から軍上層部と接触し、クーデターについての了承を得ていたと言われる(実際は曖昧な態度でお茶を濁されただけとされる)。標は岡田啓介首相とその閣僚を殺天皇の勅を経た後に崎を首相に据えた上で反対粛清すると言うものだった。

2月26日(あるいは25日深夜)、自らの中隊を率いた青年将校たちは連隊の武器庫から武器を接収して出動。第一連隊の週番だった山口一太郎同志であったためこれを黙認した。第三連隊については安藤自身が週番であったため自ら接収。

襲撃は即座に実行され、高橋是清蔵相、斎藤実内大臣、渡辺太郎教育総監が殺される(岡田啓介首相は義であった松尾伝蔵が影武者となり殺されているうちに女中部屋に逃走し事。鈴木貫太郎従長は重傷を負ったが妻の機転により止めを刺されずに生還。湯河原にいた牧野伸顕元内大臣も別働隊の襲撃を受けたが生還している。また、岡田啓介首相の警護に当たっていた警察官四人は殺されている)。

事件後、彼らが率いる1483名の兵により永田町霞が関赤坂三宅坂は占領された。

黙認して出発を見送った山口は義であった本大将に連絡し、ここから従を通じて昭和天皇に伝えられた。昭和天皇青年将校らが不法に軍を動かしたことと、信頼していた重臣たちが殺されたことに激怒されたとされ、い段階から鎮圧をめた。また、元老の西園寺望ら宮中グループも信任していた斎藤実の殺激怒。いかなる政変・組閣も認めない態度を取り、青年将校らの思惑は当初から外れていた。

この一連の天皇の意向を知る由もない青年将校らは使者から決起趣意書が天皇に伝わったことを知り、さらに決起趣意書をもとに維新大詔案が作られていると言う誤報もあって成功を確信したと言う。また、陸軍同士が相討つことを避けたい上層部の曖昧な態度もあり、26日中は楽観的な空気が漂っていた。

27日午前三時、が敷かれたが、青年将校らの部隊は「決起部隊」とされ反乱軍とは認められていなかった。しかし、この陸軍の曖昧な態度は昭和天皇逆鱗に触れ、原状回復を命じる奉勅命が下される。正午には拝謁に訪れた陸軍大臣に対して「陸軍が動かないなら私自らが近衛師団を率いて鎮圧する」とまで述べて決意を表明した。また、ちょうどこの頃になり岡田啓介首相生存明らかになったため倒閣は成立せず、陸軍もようやく鎮圧に向けた行動を取るようになる。

28日、青年将校らに奉勅命が伝わる。また、官として決起部隊の包囲に当たっていた香椎は皇であったため、即座の鎮圧は回避し説得工作に当たった。正午には山下奉文が派遣され「鎮圧の奉勅命が出るのは時間の問題であること」を告げた。将校らは「勅使による自決と見届け」を条件とした撤兵案を提示するが、激怒した天皇は「自殺するなら勝手にさせればよい」とこれを一蹴した。午後四時、ついに部において鎮圧の決定がなされ29日午前五時には準備が了するように下された。午後十一時、「反乱部隊」と言う呼称も定められクーデターの失敗は明らかになった。

29日午前八時三十分、攻撃命が下された。同時にラジオやアドバルーン、チラシを使った下士官・兵に対する投降勧告がなされ、多くの兵卒たちは戦うことなく現場を離れ始めた。師団長自らが説得にあたり、午後二時には反乱部隊は解体された。安藤野中自決を図ったが、安藤は失敗。その他の将校らも午後五時には逮捕され事件は終結した。軍は自決を期待し、全員棺桶まで用意していたが将校らは法廷闘争を決め込んだと言う。

裁判

反乱軍の将校は当日に免官となり、関係者も3月中には全て免官となった。また、北一輝西田ら民間人も反乱の首謀者として逮捕された。

法廷闘争で世間に訴えると言う将校らの思惑は外れた。緊急勅による非開かつ一審の特設軍法会議が設けられたためである。これは通常の軍法会議では開かつ三審のため、陸軍内の速かつ内密に裁判を進めたいと言う意思が反映されたと言う。

明らかに不当な裁判運営だったが、当初将校らは類似事件の五・一五事件と同様に軽い罪で済むと楽観視していた。死刑刑時も「どうせもったいつけて後で情状酌量をする算段」とうそぶいたと言う。しかし、判決直前の7月3日になり相沢事件の相沢三郎が処刑されたことを知ると、その楽観論も吹き飛び死刑覚悟したとされる。

7月5日、第一次判決が下され安藤以下17名の将校に死刑判決が下された。日本刑事史上でも稀に見る大量処刑であり、覚悟していた安藤驚愕した。7月12日、このうち安藤を含めた15名は処刑された。8月19日には残っていた村中磯部も処刑され、積極的な参加者はほぼ全員が処刑されると言う末であった。また、北一輝西田税も処刑された。

一方、皇上層部は崎を除いて表向きの処断はされず、崎も軍法会議にかけられたが拠不十分で無罪となった。世間一般では「判断に乏しい青年将校らが怪しい中の思想に教唆されて犯行に及んだ」とされ、その思想や背景は説明されることはなかった。関係者が口を開くことができるようになったのは戦後であり、詳しい裁判記録が発見・開されたのは何と1988年になってからだった。

その後

事件に責任があるとされた皇は随時予備役に編入され、陸軍内は統制導のもと粛軍が進められた。また、退役した皇将校を復活させないと言う口実を元に軍部大臣現役武官制が敷かれ、内閣陸軍を掣肘することがより困難な情勢となった。

しかし、導権を握った統制ノモンハン事件や南進・北進論の対立に見られる暴走・内部対立に悩まされた。また、大陸情勢は政治外交の失敗もあり日中戦争を経て泥沼化。合法的に高度国家を作り上げると言う統制論みは成功したが、それは全体主義化のであり東條英機内閣での対戦開始で頂点を極めると共に破局を迎える。

一方、皇は壊滅したが陸軍内では隠然とその勢を保ち、太平洋戦争後半より統制が衰え始めると終戦工作にも関与。東條英機暗殺計画など、ところどころで暗躍することとなる。(余談だが、この敗戦責任を巡る争いが靖国神社問題につながっており、うがった見方をすれば現在まで続く一の二・二六事件のである)。

なことに、この陸軍内の反統制人脈と二・二六事件の被害者グループで生き残りの鈴木貫太郎岡田啓介の導により日本終戦へのを歩むことになる。

評価

未遂に終わったとは言え、他の列強諸では見られない尉官レベルの反乱であるため、内外問わず当時から衝撃を与えた。ただし、政治的には肯定的な意見は少なかった。同情論もあり助命をする者(近衛文麿浅野長勲、田中顕)もいたが、天皇の断固たる意志とこれ以上のテロ事件を防ぐと言う意味で厳罰が下された。民の間ではこの事件を起点に戦争化や軍部の専横が立つようになったと言う印もあり、戦後もしばらくは否定的な印立ったようだ。

文学・思想界では左右両ともに分かれており、太宰治は「もやってはいけないと思っていたこと」をやったとして、しい憤りを覚えたことを戦後の著書で述べている。一方、彼を底的に嫌っていた三島由紀夫は「この事件こそ精政治の衝突である」と述べ、全面的に肯定する作品を何部か描いている。

60年安保や70年安保で若者政治参加や運動が盛んになると、本事件もその流れで解説されるようになった。映画作品などでも盛んに取り上げられている。

ただ、近年は裁判記録日記などから当事者たちの思想信条は大したものではなく、単に功名心や対立相手への敵愾心により、上層部の閥対立の構図を十分に把握できないまま事件を起こしたのではないか、とする意見も強くなっており、過剰な賛美や否定を伴った評価・作品は見られなくなっているようだ。

旧来の皇VS統制と言う図式も見直しがあり、そもそも青年将校は皇ですらないとする論も有である。これに伴い、北一輝らの裁判の不当性も浮き彫りになり、大逆事件や小林多喜二殺などと並び言論弾圧事件の一種と評されることがある。

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