首里城 単語

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首里城とは、沖縄県那覇市首里に位置する建造物である。

概要

琉球王国として建築され、1429年から1879年まで国王の居だった歴史ある建造物。首里城の建築については詳細が分かっておらず、いつの年代にが造ったのか不明。おおよそ14世紀頃に作られたのではないかと言われている。

1429年、中山・南山・北山の3つに分かれていたを統一した尚志(しょうはし)が初代国王となり、首里城に鎮座した。大別して内と外の二つに分かれ、琉球石灰岩の切石で作られている。国王の居だっただけに、この首里城が政治外交文化の中心となり、栄え続けた。琉球王国日本中国(明)とも関係を持っていた事から、両国の意が施されていた。

1501年に王の墓を造営し、1522年に真珠(まだまみち)を整備。樋と首里門もこの頃に作られた。1546年、防御強化のため首里城東南のを二重にし、継世門を設置。1660年、失火で全焼。これを機に正殿葺きを瓦葺きにめる。1709年に失火で再び全焼。しかし琉球王国は財政難に陥っていたため、薩摩から二万本近い原木提供されている。3年後に再建工事が開始。正殿が復元された。

1879年、明治政府の侵攻を受ける。最後の国王尚奉が東京への転居を受け入れ、明治政府に明け渡した事で、琉球王国徴は明治政府管轄となった。1925年には正殿定にされた。の北側に位置する円覚寺は1933年定されている。ところが!

大東亜戦争では

1941年12月8日大東亜戦争が勃発。最初こそ優勢に戦いを進めていた海軍であったが、やがて物量に勝る連合軍に押され、いよいよ沖縄にもアメリカ軍の侵攻の兆しが見え始めた。沖縄の守備を担当するのは第32軍。この第32軍部として定めたのが首里城であった。首里城の地下30mには大規模な部壕が掘られ、南北に伸びる390mの坑を中心に枝線を広げていき、最終的な全長は千数mに及んだ。地上部分にはトーチカが築かれ、さながら要塞のような軍備を内包していた。元々は安里部を置いていたが、1945年1月に首里城へ部機を移した。1トン爆弾の直撃にも耐えられる堅さを持っていたという。約1000人が生活し、官室、参謀長室、作戦室、線室の他に、ベッド、炊事場、浴室、トイレまで備されていた。

そして1945年4月1日アメリカ軍沖縄へ上陸した。沖縄での戦闘揮を、この首里城から執り続けた。周囲には第24師団や歩兵第32、第22、第89連隊、独立混成第44団等が防衛についていおり、十重二十重にり巡らされた防御地がアメリカ軍の進軍を拒んだ。当時は曇りの日が多く、首里地区を偵察機から隠した。おかげで実際に戦うまで、アメリカ軍は第32軍の戦配置を把握できなかったという。牛島満中将率いる第32軍は長期持久戦の体制を築いていたため、航空機艦砲射撃による支援フルに受けたアメリカ軍でさえ、1日に500m程度しか前進できない時もよくあった。になると、高級参謀の八原大佐が進言した少人数によるり込み攻撃でアメリカ軍を強襲。犠牲は大きかったが、首里の攻略を担当していたアメリカ軍第24軍団の進軍を食い止め続け、「首里一帯は永久に征できないのでは…?」と思わせた。首里城西方の最終防衛ラインであるシュガーローフの戦い(5月12日~18日)は特に戦となった。高所を押さえていた日本軍は、侵攻してくるアメリカ軍に十字火を浴びせ多大な出血を強いた。兵の戦死者は2662名にのぼり1289名の精異常者を出したという。しかし日本軍守備隊は壊滅し、シュガーローフは失陥。ついに首里城が、アメリカ軍の眼前に姿を現した。

首里城の防御は非常に厚く、また首里城自体が高所にある事から地の利は日本軍側にあった。地からの射撃は苛を極め、アメリカ軍の侵攻を何度も弾き返した。退路を断って包囲しようとするアメリカ軍の南進もよく防ぎ、釘付けにする。しかし一つずつ地を奪取され、また第22歩兵連隊が壊滅するなど、じりじりと追い詰められつつあった。5月20日明には、日本軍の逆襲を退けたアメリカ軍第17師団が首里の町の郊外に到達。また旧那覇市への侵攻も許し、退路も断たれかける。

首里城への攻撃は5月25日から3日間に及んだ。艦砲射撃爆撃迫撃砲や野など多種多様な火が撃ち込まれ、下町や文化財が燼に帰した。27日頃には首里城も崩壊。第32軍部や首里防衛隊のは首里城を放棄。アメリカ軍の包囲をかいくぐって、本南部の摩文仁へ撤退していった。動けない重傷者約5000名は地下壕にて自決するか、モルヒネを打たれて放置された。5月29日アメリカ軍が到達。31日に全に握された。には星条旗…ではなく南部連邦の旗が掲げられた。どうやら掲げた兵がカロライナ出身だったらしく、少し問題になった。奇跡的に宝物庫は戦火から逃れていたが、中身は兵の略奪に遭って残っていない。一部は返還されたが、未だ返還交渉中の物が多い。

日本シンボルである首里城の占領は、長らくアメリカ軍的として掲げていたものだった。

戦後

首里の全に廃墟と化していた。砲兵隊や艦砲射撃が撃ち込んだ弾は推定20万発、さらに襲により450トン爆弾が、何千発もの迫撃砲弾が首里に降り注ぎ、首里城は壊滅した。もはや全消滅だったようで、組みすら残っていなかったという。

跡地は、1950年に開校した琉球大学キャンパスに使われ、遺構は埋められるか撤去されてしまった。開校はアメリカ導だったとされる。それでも県民からの再建のが大きく、せめて周囲の建物だけでもと県や民の手で復元作業が始まる。ところが断片的な資料しかない上、モノクロ写真では色が分からなかった。このため中国からも資料を取り寄せた他、当時の人記憶を頼りに専門と宮大工が工事を行った。まず1958年に首里門が復元された。1979年琉球大学の移転が確実になると再建計画が本格始動。1989年にはも作業に加わり、1992年公園となった。同年11月3日、正殿や瑞殿等が復元され、一般開放。復元作業は一つの節を迎え、沖縄県民の心の拠り所となった。その後も復元工事が続けられ、出来上がった施設から開放されていった。再建された首里城は18世紀以降の姿とされている。2000年12月には首里城跡が世界遺産に登録された。日本で11番の登録である。また同年中に沖縄サミットの会場に定され、これを記念して発行された2000円札には守礼門が描かれている。2006年、「日本百名城」に100として登録された。

2019年1月に全ての修復作業が終わったとされる。2月1日以降はではなく沖縄県の管轄になった。

火災[1]

2019年10月31日深夜火災発生。熱センサー異常から警備員が異変に気付き、午前2時50分頃に警備会社が通報消防車8台が出動して消火活動を開始した。既に正殿、北殿、南殿、書院が全焼。木造ゆえに火の勢いは止まらず、が明けた後も延焼が続いている。猛火は周辺からもい知る事が出来、住民は不安の色を隠せなかった。午前7時半より、那覇市災害本部会議を始めている。午前10時30分頃には火の手が見えなくなったが、延焼が続いていて消火が続行された。消火活動の最中、40代の消防隊員が脱水症状を訴えたものの、それ以外に怪人はし。およそ13時頃に鎮火した。

出火の原因は記事編集時点では原因不明・調中である。火元は正殿と見られている。出火前日まで、首里城祭の関係者が作業をしていたが、出火当時は全員帰宅。那覇警察署は関係者から事情を聞いている。首里城の修復作業が終わった矢先に再び火災に見舞われており、沖縄県民の心理的ダメージは計り知れない。消防の会見によると、漆塗りの構造が火の回りを速くしたとしている。またスプリンクラーの設置がかった事も被害拡大の一因となっている。

首里城の収蔵物400点が焼失し、損は73億円に上った。年間280万人の観光客が訪れる観光スポットだっただけに観光収入の面においても悪が予想される。現在入れるのは守礼門の手前まで。

ちなみに首里城の全焼は結構発生しており、1453年に志魯・布里(しろ・ふり)の乱で一回の全焼。1660年と1709年にも失火で全焼していて、沖縄戦と合わせると今回で五回になる。

関連項目

脚注

  1. *【沖縄】「首里城」で火災!正殿・北殿・南殿がほぼ全焼してしまう!exit_niconews: ニコニコニュース
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