アントニオ・グラムシ(Antonio Gramsci)とはイタリア共産主義を代表する思想家である。
概要
幼い頃に父親が逮捕され片親で育ち、本人も障害持ちであるというハンディキャップがありながら労働運動に身をやつし、イタリア共産党の結成に参加。後に中央委員会に選出され書記長となる。労働者による自主的な管理を主体とする工場評議会運動を発展させ、そのため共産党の主導による運動(前衛党思想)を標榜したレーニンとは対立した。
その存在感は時の権力者ムッソリーニを恐れさせ、グラムシは20年以上の禁固刑を受ける。グラムシは獄中生活の中で33冊のノートにのぼる原稿を著し、後にグラムシの『獄中ノート』として共産主義だけでなく、国際政治経済学にも強い影響を与えた。覇権を意味する『ヘゲモニー』や大量生産大量消費型資本主義を意味する『フォーディズム』などの語句はグラムシが広めた用語である。
70年代以降、国際的にも再評価されてきたグラムシの思想の特徴は、一つに大衆文化への鋭い視線から生まれた支配と変革における文化の意味を徹底して論じているところにある。マルクスを科学理論だけでなく実践的、人間中心的に論じるのはイタリアマルクス主義の一つの傾向でもある。更にグラムシは正当派マルクス主義では疎まれている、歴史や社会の変革は一回性のものであって科学や決定論では論じられないという視点を提供した。経済主義とグラムシの対立は彼の思想を学ぶ上で押さえておきたいポイントだ。
グラムシのその思想の根底にあるのは大学時代に触れた『言語学』である。グラムシは以下解説する『ヘゲモニー問題』、『知識人問題』に加えて、『科学・技術論』や『言語問題』、さらに『欧州と米国の過去と現在』など広く文化と政治の連関について論じている。文化とは正当派マルクス主義の唯物史観でいうところの上部構造であり、この点からもグラムシがいかに経済絶対主義を懐疑し、文化を重要視していたかが分かる。
ヘゲモニー
グラムシがこの言葉を獄中ノートの中で多用したことによって政治学用語として人口に膾炙することとなる。元々ヘゲモニーとは20世紀初頭の社会民主主義者が用いた『被支配者階級に対するプロレタリアートの指導権』を指す言葉であった。レーニンはこれを受けて運動の中でヘゲモニーという表現を用いていたが、十月革命前後から階級的な要素を強調するために『プロレタリアート独裁』という表現に差し替えた。グラムシはレーニンから影響を受けてヘゲモニー概念を錬成していった。
しかしやがてグラムシとレーニンのヘゲモニー観は全く同じだった訳ではない。レーニンがヘゲモニーを語ることは政治権力獲得のためであり、政治的支配のためであった。グラムシはヘゲモニーに対して支配に対する被支配者の同意を重視し、『支配』と『同意』の弁証法的結び付きによって道徳的・文化的・イデオロギー的性格を与えた。
グラムシとレーニンのヘゲモニー観の相違が一番顕著に見られるのは新しい社会を作るために必要な労働者の役割に見ることができる。レーニンは新しい社会を作る為には「単一の意思への無条件の服従」が必要とした。一方でグラムシは新しい社会を作るのに必要なものは「労働者の知的・自立的活動」としている。
さらにグラムシのヘゲモニー観の特徴として、ヘゲモニーを政治や経済のみに留まらせることを批判し、ヘゲモニーを教育問題、家族問題、世代間問題などにまで広げて論じた点にある。支配者⇄被支配者の関係を、教師⇄生徒、親⇄子、年長者⇄若者の対立に当てはめ、同じ要に支配と同意の関係を論じたのである。
グラムシは「全てのヘゲモニーは必然的に『指導』と『同意』を擁する教育の関係である」と述べている。
知識人
社会変革を起こすヘゲモニーの主体となるのはインテリゲンチャ、知識人である。しかし社会変革における知識人の位置づけは社会主義者たちの間でも百論噴出であり、グラムシはこの知識人論争に強い関心を抱いていた。当時流行していたのは、「知識人は労働者の味方ではないので社会変革は知識人は排除すべきである」とする反知識人的労働者主義と、「知識人が労働者を主導すべきである」とするエリート主義だった。グラムシはその両方とも違う彼独自の知識人観、すなわち『有機的知識人』理論を構築した。
有機的知識人とは工業技術者、科学者、経済学者、立法家などを指し、グラムシは聖職者や医者などの伝統的知識人と区別した。グラムシは有機的知識人が現在の社会と来るべき新しい社会を繋ぐ架け橋、媒介になるとした。彼によれば「すべての人間は知識人」であり、共産党が労働者に指導、教育、支配する一方通行の関係ではなく、労働者からも指導、教育、合意を受けることを主張した。
イタリア南部問題
グラムシの生きた時代のイタリアは、近代化を進める中で国内に多くの矛盾を抱えていた。その一つがイタリア南北問題があった。北部の経済的・工業的発展は南部の貧困に直接繋がっていた。南部のサルデーニャ出身であったグラムシは10代の頃はサルデーニャの立場にたって独立を主張していたが、大学に入る頃には広い視野に立って南北問題を捉え始めた。その延長線上に生まれたのが、グラムシの未完の原稿「南部問題に関する若干の主題」で主張された二つの理論展開である。
一つは南部問題を(南部含め)農民の諸欲求の理解の上に、階級闘争の戦略に位置づけるというプロレタリアートの政治能力の問題として展開したこと。もう一つは、南部問題の中心に知識人問題を配置し、知識人によって行われる支配と指導の関係を浮き彫りにしたことであった。この二つの問題をグラムシは「同盟」「ヘゲモニー」「知識人」などの主要キー概念のもと獄中ノートにおける理論展開の主軸にとり、さらに南部問題を、未完に終わった「リソルジメント(イタリア統一運動)」や「民衆文化」の問題とも関連させて展開していった。
政治と道徳
20世紀初頭の欧州では「社会は機械のように動き人間の介在する余地はない」とするソ連の機械論的(非人間的)唯物論に反対して、人間の内的自発性=道徳を追及する動きが盛んになっていた。グラムシもその影響を受けて、イタリアを代表する思想家のクローチェに強い関心を寄せて、クローチェの主張する道徳的・知的改革運動に参加していた。しかしグラムシが大学を卒業する頃にはクローチェから離れ、ロシア革命の作る「新しい秩序」について言及するようになった。そして「労働者の自由」の問題を取り上げて、労働者は工場において、自由に、自ら自分を最も厳しい規律に服さなければならないと述べた。これは個々人の自由という概念とは大きく異なるグラムシ独自の自由観である。しかしその後、工場評議会運動は敗北し、グラムシもしばらくそのことについて論じることはなくなった。だがその後も新しい道徳を唱え、労働者国家の統治は、確固たる統一と規律によってのみそのヘゲモニーを確保できるとして、その統一と規律はあくまで誠意と道徳に依るべきであり、機械的強制であってはならないと強調した。グラムシは法律などの外的強制で道徳的な生き方を強制するのではなく、内的自発性から発生した道徳による新しい文化の創造を探っていたのであった。
言語問題
グラムシの思想的根幹にあったのはマルクス経済学でもレーニン政治学でもなく、言語学であった。グラムシが師事したバルトリ教授は、言語を自然的、必然的、機械的事象とみなす当時の言語学会とは逆に、言語現象を、支配的な言語共同体が従属的共同体に影響力を広げる過程、すなわち都市が周辺的地域へ、標準語が方言へ、支配的な社会・文化的集団が従属的集団(サバルタン)へと影響力を広げる過程という社会的文脈を強く主張した。グラムシもバルトリ教授を通してそのような言語学から影響をうけることとなる。
グラムシが政治運動に没頭するようになると言語学に関する興味はしばらく薄れたが、彼が投獄されてしばらくすると、知識人のヘゲモニーとの関連して言語問題を捉えることによって、より明確な問題提起として再発見を果たした。グラムシは、言語と哲学&文化は同質のものであり、言語は文化的ヘゲモニーの手段に他ならないという。こうして言語学はグラムシのヘゲモニー概念を転換するきっかけとなり、言語過程を受動的・機械的なものとしてではなく、能動的かつ広範な政治的・文化的理解の上にヘゲモニー確立の問題として捉えていくことになる。
民衆文化
先述の通り、グラムシの生きた時代のイタリアは近代化が進む中で合理主義、自由主義の波が起こり、それは同時に真逆の運動である伝統の保存を呼びかける文化的保守指向も生んでいた。そうした漠然とした民族文化への回帰は、民族的優秀性と結びつきファシズムの精神的支柱になりつつあった。こうした動きを獄中から見ていたグラムシは、新しい文化的ヘゲモニーの形成という問題を提起した。それは民間伝承の一面的な豊かさの強調でもなく、また伝統的マルクス主義者に見られるような大衆文化への蔑視でもなかった。グラムシが問題にしたのは、新しい文化の戦い。つまり新しい道徳生活のための戦いであり、民衆的凝縮力としての文化であった。広範な人民大衆の中に新しい文化を実際に誕生させ、また支配階級の文化との相関関係で民衆文化を捉えている点に彼の特徴があった。
またグラムシはジャーナリズム。とりわけイデオロギーの最もダイナミックな部分として新聞や雑誌の形態にも関心を寄せた。彼は「この恐るべき塹壕と要塞からなる支配階級の備え(総合的ジャーナリズム)に対し、革新的階級はいかなる資産をもって対抗しうるであろうか?」と自問し、彼独特の陣地戦理論を展開する。グラムシにとって文化運動と文化組織は自動的に進行するわけではなかった。ジャーナリズムは武器なき予言者の実践を担う事が出来るとはいえ、大衆を組織する文化機関の原動力・形成力にならなければ、それ自体としては不毛であるとし、その課題を支配階級と国家の防壁、塹壕、組織的予備軍を掘り崩し、陣地戦として新しい文明の創出を準備することにあると捉えた。
工場労働者
大学でぼっちで引きこもっていたグラムシであるが、友人の誘いを受けて政治運動を開始するようになった。工場労働者に接するようになったグラムシがたどり着いたのは工場評議会の発見であった。工場評議会とは、既存の工場内部委員会に変わって、労働者大衆が部門ごとに自らの代表を選出するというシステムである。その上に新しい知的活動のある形態を発展させ、新しいものの見方を定めさせようとした。その特徴は以下のようになる。
- 生産制度や作業過程を研究する
- 新しい技術革新が生産能力を増大させる限りそれを受け入れるような労働者を励ます
- 自己の職業的能力を高めようと望む労働者のために、工場内に職業学校を組織する
- 以上によって労働者階級は自らの生産管理の可能性を自覚し、また、そのことが経営者自身に彼らの支配が近々終わることを自覚させる唯一の道である
工場評議会は、古来から続く労働者の受動性に対する戦いと変革の路線を、生産者の道徳として認識させるものであった。工場評議会運動は主要工場にどんどんと広まっていったが結局二年足らずで失敗してしまった。
それから十年以上が経った後、グラムシは獄中でこの工場評議会について再検討を行った。グラムシは獄中ノートの『集団的労働者』と題する小論で、工場評議会運動は資本論第一巻第四章における工場組織の発達についての分析と完全に照応しているとし、工場内における労働者運動の問題を以下の2つの側面から指摘した。一つ目は工場の労働者は分業が進むにつれて、共同作業の総体が個々の労働者から滑り落ち、個人の労働者は軽視されるようになるということ。もう一つはあらかじめ決められ、配置された労働者が、より高い生産性を生み出す工場の労働者全体が集団的労働者として考えられるべきということであった。
グラムシは、客観的に与えられている条件をいかに工場労働者にとっての主体的条件たらしめるかという問題を提起する。彼によれば、個々の労働者にとって客観的なのは技術的発展の要求と支配階級の利害の一致である。だがこの一致は産業発展の1つの歴史的局面にすぎず、過渡的なものと考えるべきである。この結合は解けることがありうるし、さらに労働者階級の利害と結びつけて考えることもできる。今日ではこのような分離と結合の条件が歴史的に成熟している。
国家論
グラムシの国家論は、それまで主流であった「まず権力を獲得し、それから国家を作る」という社会主義国家論とは一線を画していた。グラムシは新しい(社会主義)国家は、労働者が搾取されている今現在の国家の中に既に潜在的に存在していると考えた。それを踏まえて新国家の基礎となる「新しい秩序」。すなわち、労働者民主主義の創設にただちに着手しなければならないと主張し、権力奪取のみを目的としたゼネストや直接行動による社会改革(ソレル)、更に、国家主導の社会主義を標榜している社会民主主義に反対し、新たなる社会(社会主義国家)を作れるのは工場評議会のみだと述べた。
しかしその後、工場評議会運動は失敗し、イタリアではムッソリーニによるファシズムが台頭し始めた。グラムシは現実政治を見た上で自らの国家論を修正していく。
まず第一にグラムシは移行の形態学についてコミンテルンを批判する。コミンテルンは「資本主義はやがて衰退し、Xデーに労働者による革命が起きて社会を変革する」という教義を掲げていた。しかしグラムシはブルジョワ・ヘゲモニー(資本主義)は確かにいずれ危機を迎えるが、その危機もそれに代わる新しいヘゲモニーの形成が行われていないならば社会変革が発生することはないと言い放った。
また第二に国家-ヘゲモニー-大衆の関係についてもグラムシは議論を深める。グラムシが言及するのはソヴィエト、ファシズム国家、ニューディール政策を執っていたアメリカの三国である。グラムシによればソヴィエト及びファシズム国家では、国家を通じて社会の方向が決められ、そこでは民衆に対する指導よりも強制力を持った支配が優先する。それらの国では権力ブロックによる軍事、官僚、警察が民衆を操作し、支配政党による中央集権化が発生する。そこではヘゲモニーはもはや階級のヘゲモニーではなく、階級の上に立った国家のヘゲモニーになる。一方でニューディール政策を推進するアメリカでは、ブルジョワ階級の指導のもとに生産力の発展を目指した資本主義的再編の「合意」の拡大が進められ、支配ブロックの政治的・社会的再編を通じて労働者階級の自治は薄まり、労働者同盟体は解体される。ソヴィエト、ファシズム国家とニューディール国家に共通するのはこれらが全て国家による上からの支配ということ。すなわちヘゲモニーのない支配、合意のない権力、そして大衆の主導権の欠如である。グラムシはこのような民衆によらない上からの社会変革を「革命なき革命」または「受動的革命」と呼んでいる。
グラムシはこれらの「革命なき革命」または「受動的革命」における「国家-民衆」関係が従来の自由主義国家の「国家-民衆」関係とは大きくことなっていることに着目した。すなわち、資本主義の危機に際してソヴィエトでもファシズム国家でもアメリカでも、政治が社会と経済に対して介入を開始している。その過程で国家は大資本と結びつき、結果的に民衆をより直接的に支配することになっていく。しかし、その一方で民衆は政治から排除されながらも新たな次元の政治関係を築きあげ、受動的立場から脱却していくということである。
グラムシは当時の国家観として主流であった「国家とはその時代の生産様式と経済に大衆を適応させるための独裁、あるいは強制装置」という見方とは離れ、逆に「あらゆる国家は倫理的である」として、国民を一定の文化的・道徳的水準に引き上げ、学校教育による積極的教育と裁判所による消極的教育という狭義の意味の国家の役割を指摘した。またグラムシは広義の意味の国家概念の展開も行う。すなわち、政党、教会、組合、学校、新聞などなどの市民社会。いわゆる私的組織を通じて国民社会全体に対して行使されるヘゲモニーに着目した。そして官僚的、強制的機構としての広義の国家概念を「国家=独裁+ヘゲモニー」。一方の、政治社会と市民社会の均衡的統一体としての「国家=政治社会+市民社会(鎧を付けたヘゲモニー)」という方式で提示した。しかもこの政治社会と市民社会、独裁とヘゲモニーといった概念を、固定的なものとしてではなく、純粋に方法的なものとしてとらえ「規正された社会(倫理国家または市民社会)の諸要素がますます強くなるにつれて、国家=強制の要素は衰退していく」とグラムシは見ていた。
このように市民社会およびヘゲモニーという概念を政治学のより高い位置におくことによって、グラムシは「国家=ブルジョワジーの強制装置」ととらえるレーニン的思考を超えるだけでなく、マルクスとも離別化している。マルクスにとっても市民社会は資本主義を理解する上でのキーワードであったことは確かだが、マルクスは市民社会を経済的属性、つまり下部構造に置いていたのに対して、グラムシは市民社会をイデオロギー的、文化的、知的道徳的諸関係の政治概念として捉え、上部構造に置いていた。
アメリカとフォーディズム
コミンテルンの欠点はアメリカという新興資本主義国家を軽視したことにあった。グラムシは今後、経済と文化の中心がアメリカに移ることを獄中から予想していた。フォーディズムとはアメリカの自動車王ヘンリー・フォードが考案した大量生産様式のことである。グラムシはフォードの著作を読み、そこから影響を受けた。
グラムシの慧眼は「フォーディズム」を単なる機械的・経済的構造としてではなく、1920年代以降における経済、政治、文化領域において相互に浸透する新しい諸形態を複合的現象の一部として捉えた。グラムシはその自動車工場における生産組織や労働過程を、政治的枠組みや文化・イデオロギー・行動・道徳によって相互に規定しあい、それによって条件づけられるものと見た。しかもアメリカニズムに伴う社会的順応の諸形態やフォーディズムがもたらす強制と同意とともに、その成功を可能にした政治的・社会的背景に注目した。つまり生産の社会的諸関係(構造)の反映としての、上部構造の複雑で不調和な総体としての歴史ブロックへの着想である。
第二にアメリカ資本主義の巨大な力の源泉への洞察であった。グラムシは、欧州とアメリカとの対比においてその違いを合理的人口構成に見た。欧州の古い歴史は、国家行政、聖職者や知識人、土地所有者、商業との間に先祖の遺産で生活する人々が存在していた。しかしアメリカにはそうした過去の遺産に寄生する階級は存在しない。グラムシの言葉で言うと事の「偉大な”歴史的文化遺産”を持たない代わりに、こうした鉛のマントに苦しめれることはない」。そのことがアメリカの商業に健全な基礎を可能にしたとグラムシは見る。
第三にアメリカにおける労働組織の近代性についての把握である。アメリカの資本家たちは従業員への高賃金や教育とともにその私生活にまで干渉し統制しようと試みた。彼らにとって集団的労働者も機械の一部であり、それが頻繁に故障したり取り替えることは損失であったのだ。グラムシはこうしたアメリカモデルの労働組織の近代性が優れた階級意識を造り出すと考えた。
第四に、労働の新しい方法と生活様式とを結びつける発想である。グラムシは文化と政治は切り離すことが出来ず、革命は全て一つの偉大な文化現象だと確信していた。その意味で、彼にとってフォーディズム論は単なる経済形態ではなく文化的活動であった。
第五にグラムシは以上のアメリカニズムやフォーディズムが欧州社会、とりわけイタリアに浸透している現実に注目し、それに反発する知識人を批判した。
東方の革命と西方の革命あるいは機動戦と陣地戦
東方とはロシア、西方とは欧州を意味している。機動戦とは正面からぶつかり合う戦闘のことで、陣地戦とは面として制圧していく戦闘のことである。グラムシは革命の種類をこのような軍事用語を用いて機動戦と陣地戦と比喩したのである。グラムシは東方で成功した機動戦(ロシア革命)は最後のものであり、西方(欧州)では陣地戦による革命が不可欠であるとした。陣地戦は広範な人民に莫大な犠牲を求める。それゆえに、ヘゲモニーの集中、したがって一層の干渉主義的な政治形態が必要となる。こうした軍事技術の観点から、さらに国家(政治社会)と市民社会の対比という政治術の概念に照応するものとして、こう展開する。東方では国家が全てであり、市民社会は原始的であった。一方の西方国家と市民社会の間には適正な関係があり、国家が揺らぐとただちに市民社会の堅い構造が姿を表す。そこでは国家は前方塹壕にすぎず、背後には要塞と砲台の密接な連鎖がある。
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参考文献
関連項目
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