イエメン内戦とは、
それぞれの原因は関連している。
概要
前史
イエメン(今の北イエメン、イエメン西部地域)はスレイマン1世時代の征服以後、基本的にオスマン帝国の宗主権下にあった。帝国が1918年に第一次大戦で敗北したことに伴い、イエメン・ムタワッキリテ王国(通称イエメン王国)が独立する。汎アラブ主義を掲げてアラブ連合共和国(エジプト・シリア)との間でアラブ国家連合を構成するが、シリア独立に伴いアラブ国家連合が崩壊。1962年に王制が打倒され、1970年までの内戦(北イエメン内戦)を経て、イエメン・アラブ共和国が政権を確立した。
一方で、19世紀初頭、産業革命で急速に経済拡大をし続けていた大英帝国はインドの通称航路を確たるものとすべく、アデンを拠点とする必要があった。スエズ運河が開通すると、この周辺の重要度は更にまし、1839年にはアデンを東インド会社に組み込みアデン植民地を設置。以後もアデン周辺に影響力を増していき、1872年にはアデン保護領を設置する。アデン植民地とアデン保護領が南イエメンに相当する。この地域は、南アラブ首長国連邦、南アラビア連邦、南アラビア保護領と名称と組織の改廃を経て、1967年に南イエメン人民共和国(後にイエメン人民民主共和国、通称南イエメン)が独立する。
南イエメンはアラブ世界初の社会主義国家として、ソビエトの援助を受けていたものの、冷戦崩壊を目前にして援助が滞り、経済が行き詰まりを見せた。その結果、北イエメンとの合併となる。これが現在まで続くイエメン共和国(通称イエメン)である。
ここで、北イエメン地域はイスラム教シーア派の分派ザイド派の一派であるフーシ派が多く、一方南イエメン地域はスンニ派が多数を占めていた。経済的には北イエメンが豊かであったものの、南イエメンには油田が多く存在していた。更に、北部地域は山岳地帯が広がり政府の統治は緩く、イエメン全体で部族ごとの統治の比重が重かった。
1994年内戦
統一後、自然な流れで政治的に旧北イエメンに比重が置かれた結果、旧南イエメン側に不満が貯まった。
アリー・アブドッラー・サーレハ大統領(国民全体会議)とアリー・サーリム・アル=ビード副大統領派(イエメン社会党)が政府内で対立した結果1993年には政府が分裂状態のうえ事実上機能停止に陥った。
南イエメンは油田地帯があったため、経済的利益から外国の援助があり得ると踏んで、再独立を宣言し、北イエメンと交戦状態に入った。然し、実際には南イエメン側に付いたのはサウジアラビア位でそれも、間接的な援助にとどまったため、戦闘は終始北イエメン側に優位に進み、わずか2か月で戦闘は終結した。
対立候補を排除したことで、イエメンはサーレハ大統領の独裁体制が構築されていく。
2015年内戦
1994年内戦で直接的な武力衝突は沈静化したものの、反政権派の不満は解決されていなかった。この状況下で2010年、チュニジアのジャスミン革命を発端としてアラブの春と呼ばれるアラブ世界全域での民主化運動が起こった。
イエメンでも、経済の停滞、高失業率を原因として反政府運動が活発化。サーレハは一度大統領職辞任を宣言したものの、撤回。抗議活動が更に活発になる中、サーレハは反対派による砲撃を受け重傷を負ってしまう。ここでようやく、北イエメン時代から33年にわたる政権を諦めてサーレハは大統領職辞任を決断した。だが、後任はサーレハの腹心副大統領アブド・ラッボ・マンスール・ハーディーであったうえ、選挙もハーディー一択という事実上の信任選挙であったため、反対派の抗議は収まらなかった。
ここで反政権の最大勢力は北イエメンのフーシ派であった。フーシ派は2004年から政府と戦闘を続け、2011年に騒乱に乗じて勢力を拡大する。ここで、サーレハが権力奪回を狙ってフーシ派と手を組んだ。イエメン軍は長年のサーレハ政権による統治によりサーレハの私軍と化しており、更にイランの支援を受けたフーシ派は2015年には首都サヌア占領、アデンも一時占領し、ほぼ政権を奪取することとなった。
ここで、シーア派が国境に隣接することになると危機感を抱いたサウジアラビアがアラブ首長国連邦と手を組んで、ハーディーに支援を開始。北イエメンの統治を嫌う南イエメンの諸部族達もハーディーに組し、ハーディー派はアデンを奪回、北イエメンまで宣戦を押し返すに至る。ここに至ってイエメン内戦はサウジアラビア対イランの代理戦争の様相を呈することとなる。なお、南イエメンの逆襲を見たサーレハが、不利を悟ってハーディーらとの講和交渉をしていたところ、フーシ派に銃殺されるというほほえましい一幕もあった。
ここで、南イエメン側も政治的に二派に分かれ始めた。もともとイエメン全体の政権を担っていたハーディーは北イエメンへの侵攻を計画し、サウジアラビアもシーア派勢力と国境を接したくないという安全保障の面からこれを望んだ。一方で、南イエメンの部族達は長きにわたる北イエメン重視の結果、南イエメンの再独立を望んでおり、アラブ首長国連邦が油田権益を得るため、これを暗に支持した。この結果、北イエメン奪回は停滞することとなる。
2018年12月にフーシ派とハーディー派は停戦合意に達したが、この戦闘の間にイエメン最大の港の取り合いがなされていた結果、イエメン国内に外国からの物資運搬が遅滞し、1400万人が食糧不足、内700万人が飢餓状態という深刻な状態となっている。また、イラン(というより革命防衛隊)がやりたい放題フーシ派を支援しており、サウジアラビア本土にまでロケット弾が飛んでいく有様である。
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関連項目
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