キリスト教の本質単語

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『キリスト教の本質』とはルートヴィヒ・フォイエルバッハによるキリスト教批判論の著作である。

概要

本書の内容を一言でいえば「人間は自らの姿に似せてを作った」ということになる。フォイエルバッハはこの本を通じて「とは人間の自己意識であり、また学とは人間学である」ということをし、その前提を踏まえた上で、キリスト教徒の人間解放の模索を行う。

本書の内容を吟味する前に「そもそも宗教批判するとはどういうことか?」ということを私たちは考えなければいけない。宗教というものが人間のそれぞれの価値観に基づく純な信仰心であるならば、それを批判することはナンセンスであるだろう。結論からいえばフォイエルバッハが批判の対にしたのは(マルクスもそうだが)、正確には宗教ではなく、宗教を学問的に扱う学であった。

フォイエルバッハのこれ以前の著作『哲学キリスト教について』によると、宗教哲学人間の内にある二つの精活動に基づいている。哲学の土台は「思考」であり、宗教の土台は「心情」と「想」である。このように宗教哲学根本からして違うものなのだ。よって哲学に対して、「その哲学聖書と違う」などという宗教的観点からの批判は筋違いであるし、逆に哲学宗教に対して批判を挑むこともない。だが学となれば話は別である。

学は宗教的な事を学問的な「知性の法則」あるいは「真理」としてする。純な信仰心のえて、理性の領域に侵入してきた宗教学は哲学と矛を交えるには十分すぎるものだ。フォイエルバッハは宗教的な「」と、学的な「」を区別し、後者をむしろ「不信仰」であると批判する。そんなフォイエルバッハのキリスト教批判を体系的にまとめたのが本著『キリスト教の本質』である。

上述した通り『キリスト教の本質』の本旨は「とは人間である」ということだが、これを専門用を用いて「とは類概念であり、しかも人間の類概念である」と言い換えてみよう。ここで一つ重要かつ難解な「類」という概念がでてくる。この「類」という哲学はフォイエルバッハがヘーゲルから拝借した概念であり、彼の著作読解のための重要句になる。

「類」というのは、集団の中で、自分の持つ自と区別された、私の外に存在する諸集団。例えば人間の類とは、自分以外の人類という集団と、その本質のことである。この「類」は「個」とは対称の概念であり、それぞれが個性を持つ「個」とは逆に「類」は集団の普遍的かつ本質的性質を持つ事になる。例えば、私たち一人一人はそれぞれが「個」であり、それぞれの性格や特性は普遍的とは言いがたい。一方で人間の「類」は、人類の普遍的な本質なのである

『キリスト教の本質』の緒論は「人間本質一般」と「宗教本質一般」という二つの章から成り立っている。まずは「人間本質一般」から見ていこう。

人間の本質一般

まずフォイエルバッハは「人間とは一体なにか」という問題に着手する。これは人間本質。つまり人間動物を区別する要素はなにかという問いかけだ。通常、それは「意識」とされているが、単に意識のみでは、意識のうちに自分の存在を認める「自己感」とか、さまざまなものを感知して区別する「感覚的識別」も含めることになってしまう。動物だって「自分」の存在は知っているし、ABが違うものであると判断する感覚を持っている。よって人間動物の区別には「意識」というものを更に限定しなければならない。

フォイエルバッハによれば、人間動物を区別する意識とは「類を対とする意識」である。動物は自分を対とする自己感を持つが、自分の所属する類を「類」として対することはできない。例えば、一頭のは、自分を他のと区別して認識することはできるが、自分がという「類」であることは理解できない。動物はそれぞれの個で完結した「一重生活」を送るが、人間は自らの「類」に関わる「内的生活」と、自分という「個」に関わる「外的生活」の「二重の生活」を送っているのだ。フォイエルバッハはこのようにまず、人間が自らの類を対とすることができる「類的存在」であることを強調する。

人間が意識の対とする「類」は、「理性」と「意思」と「心情」で構成されている。個々の人間は、人間の「類」するこの三位一体に与ることによって、はじめて人間として存在するのである。ここで、人間の「類」としての「理性」、「意思」、「心情」は全であり、無限であることを摘したい。それぞれの人間個人は有限な存在であることはでも知っている。だがそれは人間が「類」の無限性を知っているからこそ、逆に個人の有限性を認識できるのである。例えば「心情」の一種である「」を見てみても、1人の人間の「」は有限であるが、類のしての「」は無限なのだ。

更にフォイエルバッハは人間に対してもう一つの規定を与える。それは「人間は自らが対とするものにおいて、自分自身を意識する」という規定である。人間は、意識の対とするものの中に自分自身を見つけ出すのだ。しかし逆にいえば自分の本質の中にないものを意識の対とすることはない、ということになる。したがって、例えば方が「無限」というものを認識するときは、自らの思考の無限性を確しているのである。故に人間が「」というものを考えるとき、それは「」を人間の類的本質として捉えていることに他ならないのである。

宗教の本質一般

次にフォイエルバッハは「宗教本質とは一体どういうものか?」というテーマを考える。しかしこの質問の答えは既に何度も繰り返している。「宗教本質とは人間」なのだ。そもそも宗教が信仰する「」というのは物質的に感知できるものではなく、人間の内面に存在する概念である。それゆえに「」はより人間本質に近く、意識の対になりやすい存在といえる。

前項に述べたように、人間は自らの意識の対を通じて自分が何であるかを意識する。すると、ここにも「とは人間のことである」という命題が表れる。人間は自分の中にあるを意識し、その中に人間本質を見いだすのである。にも関わらず学者たちはこのことを自覚していない。その原因は、学者に限らず普通人間は、自分の本質を自分の中に見いだす時には、それを自分の外に置いてしまうからである。言い換えれば、人間固有の本質は、まず何か別の物の本質として対になるということだ。例えば生まれたての赤ちゃんは、自らも人間ではあるのだが、人間というものを意識するときは周りの大人の中にそれを見いだす。そういう意味で宗教というのは人間の幼児的な本質なのである。しかし赤ちゃんが成長するにつれて自らの人間本質を意識するようになるように、宗教歴史的発展を経てとして外部におかれた人間本質を自らの中に回収し、自己認識を一段と深めていくと考えることもできる。

とはいえ宗教宗教である限り、として崇め奉られる人間本質は外部に置かれることになる。人間本質を自らの外に置きとする行為は、偶像崇拝と言える。キリスト教を筆頭に、どの宗教も前時代の宗教を偶像崇拝であると批難するが、フォイエルバッハによれば、どれだけ時代が発展したとしてもそれが宗教である限り、偶像崇拝から逃れることはできない。人間本質をそれとは区別してとして外部に置いて偶像として崇拝し、それを人間と対立させる。それこそが宗教本質であるからだ。だが学者はこの真実からを逸らす。ゆえにこれを暴くのが哲学者の使命となる。

フォイエルバッハは以上の考察を踏まえて、「本質人間本質である」と繰り返す。この規定からすれば、的なものと人間的なものの対立は幻想であり、実際にはそれは「類」としての人間本質と、「個」としての人間の対立に他ならず、宗教の対と問題は人間的なものに過ぎないということになる。ところで、何故人間は自分の本質を外に置いてそれを崇拝するのか。それは「類」としての人間本質無限であるのに対して、自分という「個」が有限なものであるからだ。「類」の無限への憧れが宗教であり、自らの本質を「個」と「類」に分裂させる。この意味で、宗教人間の自己分裂なのである。

宗教とは、個としての人間が自分の外に類的本質を偶像としてに仕立て上げこれを崇めることである。このことからフォイエルバッハは、宗教のもう一つの本質を発見する。それは「人間の外に置かれたが、その本質の上で人間的であればあるほど、人間性は否定される」ということである。ある本質がその外部に置かれ、戻る事なく元の本質と対立することを「疎外」という。つまり、人間的であればあるほど、人間はますます自らの人間性を疎外するのだ。

人間を富ませるために自分は貧しくならねばならず、が万であるためには、人間無能でなければならない。なぜならば人間が自分の中から取り去ったものはの中で保存されるからである。人間は自らの人間性を切り売りしてに与える。これは逆の視点から見れば、人間から人間性を奪っているということに他ならない。ここからまた宗教人間に対して二面的な性格を持つことになる。それは一面においては人間の類的本質のうちに保存するという点で人間的な本質を持ち、多面においては個々の人間から類的存在を疎外させるという意味で非人間的な本質を持つ。

フォイエルバッハが批判の対としたのは後者宗教の非人間本質であった。すなわちキリスト教の非人間的側面を批判することによって、フォイエルバッハは人間解放したのである。

以上の序文に続く本論ではこの宗教の二面性に応じて「人間本質との一致における宗教」と「人間本質との矛盾における宗教」の二部構成になっている。一部では、キリスト教矛盾を暴きながらも肯定的な態度を示し、二部は否定的な叙述がなされている。以下ではその中の議論のいくつかを紹介する。

本論

本質はまず知性にある。の知性は無限であり、は全知全。しかし序論において本質人間の類的本質であることが明された。実は人間の類的本質こそが無限かつ全知全だったのだ。もちろん個々人の理性は有限である。しかし類としての理性無限である。

更に、道徳的にも全な存在である。よって人間自身の良心として、人間に対して裁きを与える。その一方で慈悲深く人間を許す事もある。これも同様に、人間の類的本質道徳的に全であることを示している。というのは人間なのである。中には「人間に遠く及ばない」という人もいるかもしれない。しかし、その人は「個」と「類」の区別ができていないのだ。すなわち個々の人間は有限にしてには及ばずとも、類としての人間無限であり真実なのである。

ところでフォイエルバッハによれば人間が人を愛することは、他人と感情を共にする同情という行為である。人間はその生身のと身体のうちに苦しみを知らなければ他人の苦しみは理解できない。となれば、もしも身体も持たない知性のみの存在であるは、人間愛することができないということになってしまう。人間するためには受し、自らも苦痛を知らなければならない。つまりこれこそがイエス=キリストの誕生の秘密であるのだ。

最初に述べたように人間の類的本質の三要素は「知性」「意思」「心情」である。「知性」と「意思」のみの存在であったイエスとなり地上に降り立つことによって「心情」をも備え、更に人間に近づいたのだ。こうしての中で「知性」と「意思」と「心情」が三位一体に統一される。

だがこの三位一体は単に孤独な個人において「理性」と「意思」と「心情」が統一されているわけではない。そこには複数の人間の統一。キリスト教的にいうところの「私との統一」によって成立することをも示している。ここでは「私」=「個」、「」=「類」と置き換えてみよう。孤独な存在であるのなら、人間の「私と(個と類)の統一」を満足させることはできない。そこでは自らの中に自己とは異なった第二の位格[1]を措定[2]する。すなわちとしての(第一位格)と子としての(第二位格)の統一である。そして更にそこに第三位格である精霊までも加わっていく。三位一体とは実は、人間子関係に見られる共同体宗教的に表現したにすぎないとフォイエルバッハは言う。となれば、三位一体への信仰と共に、なぜマリア信仰が登場したかも説明がつくはずである。であり子であるのなら、もまたなものであるのは当然である。このようにフォイエルバッハはキリスト教の規定が実は人間の規定あることを明らかにする。

またフォイエルバッハによれば、キリスト教は現世における人間生活不可能にする。それはなぜかというと、フォイエルバッハは、まずキリスト教とそれ以前の古代の異教徒の違いに注する。例えばキリスト教以前のギリシア人は、人間を常に宇宙自然との繋がりの中で捉えていた。つまり彼らは自分の主観性を世界の直観[3]によって制限していたのだ。しかしキリスト教が広まると人間宇宙自然から自分を切り離し、もっぱら自分に意識を集中させた。キリスト教徒は、主観性に対立する自然を否定することによってのみ、自らの永遠な主観生活を確保できると考えているのである。よってキリスト教徒は自由を尊重するが、しかしフォイエルバッハに言わせればこの自由自由でなく、実は心情や想の自由にすぎない。人間自然との繋がりの中でしか生きていくことはできないにも関わらずキリスト教徒は想のうちで自分が自然から自由であると考えている。それはいわば「想の昇天」なのである。

異教徒はまた、人間を常に類や共同体視点のもとで捉えていた。彼らは死すべき者としての「個」を共同体から区別し、「個」を全体(類)に従属させた。一方でキリスト教徒は、「類」を軽視し、「個」としての人間だけを尊重する。キリスト教では「類」と「個」の関係が逆転してしまったのである。しかしいくらキリシタンが「個」としての自分を「類」と見なしたところで、「類」と「個」の区別は厳然として存在する。「個」の知理性も有限だが、「類」の知理性無限であるからだ。ある時代の人間にとっては不可能なことでも、数年先の人間ならば可になることもある。個人はそこでイヤでも自分が制限されているという感情を持つ。それはとてつもない苦痛だろう。そしてその苦痛から逃れるために、無限の存在を直観し、補する。この無限の存在こそがキリスト教におけるなのである。

こうしてキリスト教徒は、によって個としての自己の不全さを補い、自己を充足させる。しかし、この充足はどこまでも心情の上での充足であり、想である。キリスト教徒は自らのうちにを持つ。しかしその反面に「」すなわち、他人や自然といった「類」を必要としなくなってしまう。キリスト教徒にとって物的な標は棄すべきものなのだ。ここで「なぜキリスト教人間真実生活不可能にするか」の答えがでた。真実生活を送るためには「類」とした統一。すなわち他人や自然との協が必要なのだ。しかしキリスト教徒は「類」をに与え、自らは「類」を軽んじている。これでは現世の生活が幸福であるとは言いがたい。個人の人間は元々制限された有限にして不全な存在である。そんな「個」が「類」として無限になるためには、複数の「個人」が協しあい、お互いに相手の不全さを補うしかない。ここにこそ人間真実生活が存在する。人間的な生活を送る事ができるのは、「類」とした人間全体だけなのだ。

フォイエルバッハはこうした観点から、キリスト教における信仰と矛盾についても摘する。宗教本質人間の一致にあったが、キリスト教徒は、人間の別離をしている。だが、とは相手との同一化を図る行為であるのだから、相手()と別離をす信仰とは矛盾することになってしまう。上に述べたようにキリスト教徒は自らの内にあるに充足をめ、「類」の代表者である他人によって補おうとしない。に対する信仰が深まれば深まるほど、人間人間は引き離されてしまうのである。信仰はまた「本質的に党的」であり、自分たちのグループに属さない異教徒を排斥する。信仰は敵と味方をはっきりと区別する。一方では非党的であり、したがって自然、信仰と矛盾してしまうのだ。もしキリスト教徒だけに向けられるのであれば、そんなものはもう隣人でもなんでもない。

したがって、現世における人間真実生活を得るためには、疎外され、キリストに与えてしまった全人類的な普遍の人間の手に取り戻すことが肝要になる。「人間から人間を取り戻す」というテーマ理論の話ではなく、より実践的な人間革の問題であった。フォイエルバッハは、キリスト教によって奪われた、人間回復を強調するのである。そしてその行為はキリスト教への攻撃ではなく、キリスト教をより高みへ登らせることであると彼は確信していた。

関連項目

参考文献

脚注

  1. *位格。ペルソナが持つ、と子と精霊という三つの存在様式のこと。第一位格はである、第二位格は子である(キリスト)、第三位格は精霊であるす。
  2. *措定。ある命題を、自明なものあるいは任意の仮定として、推理によらないで直接的に肯定しすること。
  3. *直観。推理によらず、直接的・間的に、物事の本質をとらえること。第六感で物事を判断する意味の「直“感”」ではない。

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キリスト教の本質

1 ななしのよっしん
2023/05/30(火) 21:06:14 ID: YxxlD952Xx
https://note.com/zenika/n/n729009fc7337exit
海外だとこれに書かれている内容が常識なのか?
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