ホー・チ・ミン(1890年~1969年)とは、主にベトナムで活動した革命家・共産党活動家・民族主義者・政治家である。漢字での表記は『胡志明』。本名と別にグエン・アイ・クオックと、ホー・チ・ミンという2つの変名を持っていた。
現在のベトナムの都市ホーチミン市の名前の由来にもなっている。
概要
本名はグエン・タト・タイン、のちのホーチミンは船の船員として世界中を回った後、パリでフランス社会党の構成員として活動家になる。1923年にはソ連に初めて渡り、コミンテルン常任委員となった。
彼がホーチミンを名乗るようになったのは第二次世界大戦前後の期間とされる。
1940年にベトナム(当時は日本では仏印と呼ばれていた)がヴィシーフランス政府から大日本帝国に引き渡された際、ホーチミンは大反発しており、「フランスは卑怯にもベトナムを日本に売り渡した」という声明文を出している。
彼の理想はあくまで、ある程度の援助は受けつつも傀儡化を受け入れない、地理的に遠いソ連などの指導は受け入れたうえでの、ベトナムの独立であった。
第二次大戦の終結後、ホーチミンは臨時政府を立ち上げるが、再植民地化をめざすフランス軍との間で戦闘状態になった。7年間にわたってこの「第1次インドシナ戦争」が続くことになるが、ホーチミンの指導のもと、「ベトミン」と呼ばれた独立派組織はゲリラ戦を展開。ついには1954年、ディエンビエンフーの戦いでフランス軍に大打撃を与え、撤兵に追い込んだ。
しかし祖国の統一は果たせず、南ベトナムがアメリカなどの援助のもとに成立する。アメリカ軍の大量介入によって始まったベトナム戦争の際には、ホーチミン側の北ベトナムは南ベトナム内部で活動するベトコンを支援した。ホーチミンルートと呼ばれる補給用道路はとくに有名である。北ベトナムやベトコンは、(ベトコンの壊滅的な損害と引き換えに)1968年のテト攻勢で政治的打撃を与えるなど、徹底したゲリラ戦術によって抵抗を続ける。
この翌年の1969年にホーチミンは心臓発作で死去し、祖国の統一を見ることはかなわなかった。彼は自分自身を個人崇拝の対象にされることを拒否する遺言を残していたが、これはベトナム労働党によってことごとく無視された。
1975年、ベトナム戦争終結の翌月にあたる5月1日に、ベトナム南部のサイゴン市がホーチミン市に改名された。
評価
非常に清廉な人物で、表向きには慈愛に満ちた態度で国民に接していたとされる。国民からは「ホーおじさん」というニックネームがつけられ、慕われていた。
しかし評価は賛美一辺倒ではない。
社会主義(マルクスレーニン主義)の国家体制整備の過程では地主や農民への粛清も起こっており、独立のための戦い(フランスやアメリカを相手にしたゲリラ戦)にさいしても、戦時国際法をいちいちまもっていてはとても勝てないほどの強力な敵が相手だったということを考えても、今のようにメディアが発展した中では激しく非難されるであろう、少年や女性を動員した、ハッキリいってえげつない戦い方が北ベトナムやベトコンに対して指導されたのも事実である。
たとえばこの戦い方の描写については、その後のベトナム戦争がらみの映画(フルメタルジャケットやランボー)などで描写されることもしばしばである。
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