『ユダヤ人問題に寄せて/Zur Judenfrage』はドイツの哲学者カール・マルクスがプロイセンのユダヤ人問題と通じて人間解放の道を模索した哲学論文である。
概要
本書はかつてのマルクスの師匠であり、またヘーゲル左派の代表的哲学者であるブルーノ・バウアーのユダヤ人論への批判という形で出版された。本論文は1844年、パリ時代にマルクスが出版した独仏年誌に掲載され、同誌の『ヘーゲル法哲学批判序説』と合わせて初期マルクス思想の重要なテクストとされる。マルクスはバウアー批判を通じて自らの市民社会論と、真の人間解放(類的生活)への道のりを論じていく。
本論文『ユダヤ人問題に寄せて』はバウアーの『ユダヤ人問題』と『現在のユダヤ人とキリスト教徒の自由になりうる能力』の二つの論文に合わせて二部構成になっている。その第二部においてマルクスはユダヤ人に対する偏見ともとれる表現をしており、それを根拠に「マルクスは反ユダヤだったのでは?」という議論も今日に残っている(なおマルクス自身は改宗ユダヤであり、また独仏年誌の主要メンバーもユダヤ出身の者が多かった)。
時代背景
ヨーロッパにおけるユダヤ人の歴史は深く長い。その中でユダヤ人は多くの差別を受けながらも、金融を支配して歴史を動かしていくこともあった。マルクスが生まれた国プロイセンはプロテスタントを国教としており、それもあってユダヤ人は多くの点でキリスト教徒から差別されていた。しかしユダヤ人たちは政治的に不利を被りながらも、同時に国家から様々な特権を得ている存在であった。当時のユダヤ人差別は一様ではないが、いずれにせよ私たちがユダヤ人差別ときいて真っ先に思い浮かべるであろう「ナチスのユダヤ迫害」とは一線を画すもとのして考えるべきである。
プロイセンでは18世紀末からユダヤ人にキリスト教徒と同じように市民的な権利と義務が与える動きが活発になっていた。しかし1840年に即位したヴィルヘルム4世はキリスト教国家を掲げて、反動的政策を次々と打ち出し、ユダヤ人の市民的諸権利を取り上げようとしていたのであった。
ブルーノ・バウアーはユダヤ人の政治的解放を一面では進歩的だとみなしたが、同時にキリスト教国家プロイセンにおけるユダヤ人の解放の限界を指摘した。彼によればユダヤ人が真に解放されるためには、普遍的な人間(公民)になる。つまりユダヤ教を捨て去る(揚棄する)ことが必要であると考えた。
マルクスの主張のまとめ
マルクスはバウアーの主張は一面的には正しいが、それは本質ではないと反論する。バウアーによれば、キリスト教国家において法や社会生活はキリスト教の教えの基づいて形成されており、それは時としてユダヤの教義とは相反することになる。よってユダヤ人がユダヤ教徒のままキリスト教国家の公民となることはできないという。
しかしマルクスによれば、それはプロイセンが国家と宗教を切り離すことのできない未完成の国家であることが原因だという。例えばアメリカのように完成された国家では、国家は宗教を前提としてない。つまり政教分離の原則があるのである。アメリカは国教を持っていないが、だからといってアメリカ人が無宗教というわけではなく、むしろアメリカ人は信仰の自由が保証されみな生き生きとした信仰活動を行っている。つまり宗教を揚棄せずとも国民は政治的解放をなしとげることは可能なのである。
バウアーはキリスト教国家のみを批判して、国家一般を批判することをしなかった。つまるところ彼の一番の間違いとは(キリスト教国家における)政治的解放と、(国家一般における)人間的解放を明確に区別しなかっため本質を見失ってしまったことにある。政治的解放は人間的解放の一つの段階であるとしても、政治的解放のみでは真の人間的解放は成し遂げられないのだとマルクスは言う。
マルクスが生涯を通じて目指したものは疎外からの人間解放である。そしてマルクスは宗教というものを人間疎外の産物であると考えていた。つまりバウアーのいうように宗教を揚棄するためには政治的解放のみならず、人間の本質的な解放が必要なのだ。
バウアーの主張する政治的解放が成し遂げられたときに発生することは何かというと、それは人間が「公的な利益を求める公民(シトワヤン)」と「私的な利益を求める私人(ブルジョワ)」に分裂することである。政治的国家(公)と市民社会(私)の世界は区別され、自らの利益だけを追求する私人(ブルジョワ)が「現世的な人間」とされ、集団の利益を追求する公民(シトワヤン)は抽象的な「あるべき人間」にされてしまうのが完成された国家である。
しかしマルクスは本当に人間が類的生活(真の人間的生活)を送ることができるのはシトワヤンであり、よって人間解放のためにはブルジョワをシトワヤンにする(止揚する)必要があると考えた。そうした時、国家は公民が類的生活(人間の本質的生活)を営むことのできる場と化すのである。そこに至る具体的方法とそれを担う階級は本稿においては示されていないが『ヘーゲル法哲学批判序説』や後の著作にははっきりとその正体が現れている。それはもちろんプロレタリアートによる共産主義革命である。
また第二部ではマルクスは国家や宗教から離れてユダヤ人を生きた人間として観察した。マルクスはユダヤ教の教義は金貸しであり、彼らの神は貨幣であるという。しかし、それが成立するのはヨーロッパ社会が金貸しを必要とし、キリスト教徒自身も貨幣を神と崇めているからであると指摘した。つまりユダヤ金融が支配するヨーロッパというのはユダヤ人が生み出したものではなく、商品経済と資本主義の本質的なあり方なのである。
キリスト教徒が軽蔑するユダヤ人の偏狭さというのはキリスト教社会の持つ偏狭さであり、またユダヤ教徒が貨幣を物神として崇めるのはキリスト教社会が貨幣を神として崇めているからに他ならない。その社会は、人は貨幣人間と化し、社会の原理は自己利益の最大化になるエゴイスティックな世界である。ユダヤの本質は資本主義社会の本質なのであり、よってユダヤ人が解放されるためには市民社会そのものがユダヤ的なものから解放されなければいけない。それは貨幣への物神崇拝からの解放である。
内容
バウアーによれば、政治的解放(平等)を求めるユダヤ人には3つのエゴイズムがある。
1、普遍的人間という観点からのエゴイズム
まず前提知識としてマルクスが生まれたプロイセンという国はプロテスタントを国教とするキリスト教国家であった。またプロイセンは市民革命を経ていないぶん英仏と比べて中世的な趣きを残した国である。プロイセンでは確かにユダヤ人は一種の差別を受けていたが、同時に彼らにだけ与えられていた特権もあった。19世紀の欧州のユダヤ人問題について一概にいうのは難しいが、いずれにせよ私たちがユダヤ人差別ときいて真っ先に思い浮かべるであろう「ヒトラーのユダヤ迫害」とは一線を画すもとのして理解されるべきである。
なるほどプロイセンではユダヤ人は差別待遇されていたのだが、かといってキリスト教徒が政治的に自由であったわけではない。キリスト教徒もキリシタンというだけで多くの制約を受けていた。にもかかわらず、ユダヤ人がキリスト教徒を無視して自分たちだけ政治的な解放を得ようとするならば、これは①普遍的人間という観点からのエゴイズムである。
あるいはユダヤ人がキリスト教徒と同じ扱いをしてくれというのも、これも彼らのエゴと言える。プロイセンはキリスト教徒国家であり、キリスト教徒の国民はこの国家に隷従することを強いられている。ユダヤ人が自分たちだけ国家に隷従することなく、つまりユダヤ教徒であることを止めることなくキリスト教徒と同じ待遇を求めるのは、②国家における公民の解放という観点からみたユダヤ人のエゴイズムである。
また、先述したようにプロイセンにおいてユダヤ人はユダヤ教徒というだけで一種の特権を得ている。その特権を失うことは拒みながらキリスト教徒と同じ権利が欲しいというのは③宗教的不平等からの解放という観点からみたユダヤ人のエゴイズムである。
以上の「人間」、「公民」、「宗教」の3つの観点からみたユダヤ人のエゴイズムについての分析を、宗教の範疇という前提の上ではあるが素晴らしい指摘だとマルクスは賞賛した。
宗教の観点からのエゴイズム
バウアーは国家における宗教的対立は、宗教を廃棄することによってしか解決できないとする。例えばお互いの信仰を尊重し合うというやり方ではムリがあるのだ。ユダヤ人はユダヤ教徒である限りその戒律に従わなければならない。その戒律はときとして国家の普遍的原則と矛盾する。キリストの教えでは日曜日が休日で、土曜日に議会があるが、ユダヤの教えでは土曜日には働いてはならないことになっている。よってユダヤ教徒は国のルールを守るかユダヤのルールを守るかで混乱するだろう。ユダヤ人はユダヤ教徒である限り、国家の公民になることはできない。公民になるためには彼らがユダヤ教を捨てなければならないのだ、とバウアーは主張する。
マルクスはこの意見に対して一部同意しながらも、根本的な批判をくわえる。そもそもこのバウアーの主張が誤りであることは私たちにも分かるだろう。現在の日本にも仏教、神道、イスラム、キリストと多種多様な宗教とその教えが存在するが、それが国家と衝突することはない。なぜならば今日の日本は政教分離の原則、つまりパブリックな宗教問題ととプライベートな個々の信仰を切り離しているからである。よってバウアーのいうように宗教を廃棄しなくても、政治的平等は成し遂げられている。
プロイセンよりはマシだが、19世紀のフランスは宗教と政治の対立が中途半端にしか解決できていなかった。それに対してアメリカは公私における信仰を切り離し、国家と宗教が対立することはなかった。マルクスは、宗教を前提とした国家(政教分離がなされていない国家)はまだ真の国家とは言えないと断言する。逆に政教分離の原理があるならば、宗教を捨てなくても国民は公民になれるのである。アメリカは政治の下での宗教的平等を持っているが、アメリカ人はみな信仰に厚い。これはバウアーの予想対する反証である。
バウアーの誤りの原因は、彼がキリスト教国家だけを批判して、国家一般に批判を向けていなかったことにある。彼は人間的解放と政治的解放(法の下での宗教の平等)を混合してしまった。バウアーのいうようにユダヤ人問題が宗教に関してだけのものならば、政教分離が果たされた時点で彼らは解放されることになってしまう。
公民の観点からのエゴイズム
先述したように、政教分離の原則がある国家では国民は私的に各々の宗教を信仰しながら、政治的には平等な公民として行動ができる。マルクスの表現でいえば、シトワヤン(公民)であるための資格はブルジョワ(私人)でありかたとは分離されているといえる。政教分離の原則を持つためには国家は国教を持ってはならない。換言すれば、国家はその形式において、本質に固有の形で宗教から解放される必要があるのである。
以上のような私人の宗教と公人の平等の構図は、イギリスの選挙においてもみることができる。かつてイギリスは高額納税者にしか選挙権がなかったが、現在は保有する財産に関係なく選挙権が全成人男子に与えられている。つまり私的に持つ私有財産は、公的な選挙において何の意味もないと宣言されたのである。プロイセンの宗教問題にせよ、イギリスの選挙にせよ、このような政治的解放(平等)は確かに重要な段階である。だが政治的解放は人間的解放を意味していない。イギリスで選挙権が成人男子に遍く与えられたとしても、彼らが社会的抑圧から解放されているとは言えないだろう。
政治的解放によって宗教や私有財産は廃棄されたとはいえない。むしろ、そこでは宗教や私有財産が前提とされているのである。確かにイギリスでは選挙権を得るために私有財産は条件ではなくなったが、それは私有財産を持つ自立した市民であることが前提となっただけの話である。
二重の生活
完成された国家(政教分離の原則を持つ近代国家)では、国民は市民社会で生きるブルジョワ(私人)としての生活と、公の中で生きるシトワヤン(公民)の二重の生活を生きることが想定されている。彼がどんな宗教を信仰しているか。彼がどれほど私有財産を持っているかは、私人としての領域であり公民であるための前提である。マルクスは、これらのブルジョワの世界とシトワヤンの世界をそれぞれ地上の世界、天上の世界と形容した。プロイセンでユダヤ人が国家と政治的な対立をするとしてもそれは、ユダヤ教徒であるという俗っぽいブルジョワ(私人)が、天上の生を過ごす(公的な)人間と現世的に対立することを意味する。マルクスによれば、人々から聖なる世界に生きると考えられている聖職者もあくまで私人の域に留まる地上の住人だということになる。
プロイセンと完成された国家
このように国家と宗教の関係を明確にすることによってプロイセンのようなキリスト教国家が持つ大きな矛盾が明らかになる。国教を持つ国家はまだ自立できていない未完成の国家、神学者である国家である。つまりプロイセンはキリスト教を国教にすることによって、自らが国家であることを否定してしまっているのである。プロイセン政府は宗教に対して政治的に、政治に対して宗教的になる。そのため本来国家が持つ役割が色々と抜け落ちてしまっている。
そもそもキリスト教の福音書には「カエサル(俗)のものはカエサル(俗世)へ」とかかれており、キリスト教国家なるものは否定されている。フランスのようなカトリック国家ならば「聖に奉仕する俗」という形で宗教国家がなりたつかもしれないが、教会主導の教義を否定するプロテスタント国家であるプロイセンでは、国王が教会に変わって彼岸(聖)と此方(俗)の媒介にならざるを得ない。それは一種の王権神授説である。王が神の寄り代になってしまったプロテスタント国家で王を除いて力を持つのは、生きた人間ではなく疎外である。
これに対して完成された国家とは、無神論的で民主的で、宗教を市民社会のものとして留めておける国家である。完成された国家ではその人間的基盤にキリスト教を用いず、世俗的な現実を据える。とはいえ完成された国家で宗教が廃止されるとは限らない。宗教は人間的解放によってのみ揚棄される。政治的解放と人間的解放がイコールでないのは上述した通りである。
第三のエゴイズム、人間的な解放
マルクス思想の一番の根っこにあるのは、疎外からの人間解放である。それは人類の本質的解放と言い換えても良いだろう。政治的解放や経済的解放は確かに有効性を持っているが、それらは解放の第一段階でありそれらのみでは真の人間解放は成し遂げられない。本当の類的生活(真なる人類的生活)を送ることができるのは、私的な欲望主体であるブルジョワ(私人)ではなく、公的なシトワヤン(公民である)。このブルジョワは資本主義社会の申し子であり、彼らを公の利益を求めるシトワヤンにすることがマルクスが目指したものであった。
しかしそもそもシトワヤンの活動が本当に公共のための類的活動になるか保証はないと考えられるかもしれない。そこでマルクスはルソーの社会契約論を引用しつつこう説明する。つまり、完全に政治的解放が達成された社会では、人々は立法権に関心を持たず、自分たちの生活に直結する統治権(行政権)を重視するようになる。立法という政治活動は一度権力構成的な立法権が実現された後では、公民にとって本質から外れたものになるのだ。
また、現実政治の公民としての活動の中には人間の類的活動は必要とされていないという矛盾も存在することは見過ごせない。これは市民革命で確立した人権の概念によるものである。人権とは、国家から公民として公への奉仕を強制されないことにある。つまり人権とは公民という概念とは相反する概念なのである。
マルクスの人権論
バウアーによればキリシタンとユダヤがそれぞれを人間とみなすためには互いに人権を持っている必要がある。だがバウアーはユダヤ人が解放された後であっても人権を享受することはできないという。その理由は二つある。
①人権とはキリスト教徒が歴史的戦いの中で勝ち取ったものであるから
②人権とは人間の本質の内に属するものであるが、選民思想を持つユダヤは教義的に人間の本質を否定しているから
マルクスは以上のバウアーの人権論にこう反論する。まず事実として各国の憲法には信教の自由が認められており、法的に人権とキリスト教は何らかかわり合いがないものとして定められている。よって①のような主張は歴史的にみて誤りなのである。
重要なのは②のほうである。人権とは「誰しも人間が生まれつき持っている自然権である」と習うし、各国の憲法でもそのように想定されている。しかしここでいう人間とはマルクスが考える類的人間ではない。それはブルジョワ(私人)のことなのである。フランス大革命で確立した所有権、安全の権利、平等権はすべてブルジョワが共同体に束縛されることなく私欲に基づいた活動をするための根拠なのだ。それはルソーやヘーゲルが想定した「国家に対する自由」ではなく「国家に支配されない自由」なのである。
マルクスはこの矛盾の鍵を近代資本主義社会が誕生するプロセスの内に求めた。資本主義は、身分制度、ギルド、各種特権組織などの中世封建制を破壊して誕生したものである。かつて中世の人間は各々の組織に取り込まれることによって社会の一員になってきたが、近代は中世的な紐帯を全て打ち壊した。その結果、中世人は一人の裸の個人(モナドと呼ぶ)として近代社会に放り出されてしまったのだ。この結果、公民としての個人という観点から3つの変化が起きた。
①市民社会と政治国家が明確に分離した。それまで政治機能を内包していた市民社会が、近代国家機構にとって変わられ、市民社会は政治的な仕事を免除されるようになった。こうして公と私の世界が区別されるようになる。
②市民社会に属する個人は政治的機能を果たすことがなくなり、私欲を追求するようになった。彼らが求めるのは、中世人のように自分の身分や属する団体としての権利ではなく、自分の利益のための権利である。
③共同体の個人が私欲に満ちた個人(モナド)に還俗されたために、人間そのものもブルジョワ(私人)とシトワヤン(公民)に分裂することとなった。そしてブルジョワこそが「現実の人間」であり、シトワヤンは「あるべき人間」として抽象的な人間となった。
シトワヤンとブルジョワの分裂を解消するためには2つの道がある。
①国家共同体の側からブルジョワをシトワヤンにする(民主的な手続きを踏んだ合法的社会改革)
②市民社会の側からブルジョワをシトワヤンにする(革命のプロセスを経るラディカルな
当初マルクスは前者の道も考えていたようだが、やがてその考えを捨てることとなった。ブルジョワとシトワヤンの分裂は資本主義社会の本質に根ざす問題であり、資本主義を抜本的に克服しない限りこの分裂は残り続けるのである。しかし後者の道も人類史の中で類例のない険しい選択肢である。よってマルクスはこの分裂が克服できるのは、歴史的に前例のない前代未聞の特殊な階級だけであるという。それはこの『ユダヤ人問題に寄せて』には明示されていないが、同時に掲載された『ヘーゲル法哲学批判序説』にてはっきりと指摘されている。その階級こそが、鎖以外に何も奪われるもののない階級。プロレタリアートなのである。
第二論文
第二論文でもマルクスは、バウアーがユダヤ人解放問題を政治的なものとして捉えず、宗教の発展史として考えていることを批判している。先にも述べたが、宗教的解放と政治的解放は別物であり、また宗教の問題は人間解放にも関わる問題である。
マルクスはここで一つ国家から離れて、ユダヤ人を解放するために必要な社会的因子は何かということを考える。そこで彼が注目するのは祭祀場の中で祈るユダヤではなく、実際の社会で暮らす生きたユダヤ人である。西ヨーロッパにおけるユダヤ人の象徴的なあり方は金融資本家としてのそれである。ユダヤ人は金貸しとして欧州の命運を握る一方で、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』に代表されるように悪徳高利貸しとして嫌われた。マルクスはユダヤの祭祀とはあこぎな商売であり、彼らの神は貨幣であると指摘する。そしてその上で、なぜそのような商売が成立するのかを考察した。
マルクスによれば、ユダヤ人が金融を商売として貨幣を神と崇めるのは、ヨーロッパキリスト教社会が金融を必要として、貨幣を神としているからである。つまりユダヤ金融が支配するヨーロッパというのはユダヤ人が生み出したものではなく、商品経済と資本主義の本質的なあり方なのである。資本主義社会のように商品交換が全ての基礎である社会では、貨幣が世界を支配する力であるように見える。ユダヤ人はその力を目に見えるように具現化しているにすぎないのだ。資本主義では敬虔なキリスト教徒でさえ天におわす神より、目に見える貨幣という神を崇拝する。つまり資本主義社会では、貨幣という物神に体現されたユダヤ教の精神が、キリスト教の精神になったといえるだろう。人間は貨幣人間と化し、社会の原理は自己利益の最大化になるエゴイズムの世界である。
キリシタンはユダヤ人を悪徳金貸しと軽蔑するが、キリストの神はユダヤと同じく貨幣である。歴史の中でユダヤ教の本質はキリスト教社会の中で実現してきた。つまりキリスト教徒が嫌う「ユダヤ的な偏狭さ」とは、キリスト教社会が持つ「ユダヤ的な偏狭さ」と考えるべきなのである。
以上のことから考えるに、バウアーがいうようにユダヤ人の解放をユダヤ人の内だけの問題とするのは誤りである。ユダヤ人の本質は現代社会の本質の具現化なのだから。ユダヤ人の解放のためには政治的解放だけでなく、市民社会そのものがユダヤ的なあり方から解放されなければならない。それは資本主義社会、貨幣への物神崇拝からの解放を意味する。そしてそれは民主的な社会改革では到底不可能なことである。最終的にマルクスは社会改革のための手段として共産革命を確立するのであるが、この段階ではまだその可能性を示唆しているに留まっている。
関連項目
参考文献
- 『ユダヤ人問題に寄せて/ヘーゲル法哲学批判序説』中山元 訳収録の中山による解説より
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