- プロ野球選手一覧 > リチャード・デービス
リチャード・デービス(Richard Earl Davis,)とは、元プロ野球選手である。
概要
OB | |
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リチャード・デービス Richard Davis |
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基本情報 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | カリフォルニア州 |
生年月日 | 1953年9月25日 |
身長 体重 |
190cm 89kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 一塁手、外野手 |
プロ入り | 1972年 |
引退 | 1988年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1953年9月25日生まれ。アメリカ合衆国カリフォルニア州出身。
スノー大学を経て、1972年にミルウォーキー・ブルワーズと契約。
数年間マイナーリーグでプレーした後、1977年にメジャーデビュー。1979年には12本塁打を放ち、翌1980年には106試合に出場し打率.271の成績を残した。以降はフィラデルフィア・フィリーズ、トロント・ブルージェイズ、ピッツバーグ・パイレーツと渡り歩いたがレギュラーの座を掴むことはできず、目立った成績は残せていなかった 。
1984年、近鉄バファローズに鳴り物入りで入団したドン・マネーが球団の待遇の悪さやホームシックなどを理由にシーズン途中の5月に退団。その穴埋めとしてマーク・コーリーとともに急遽リストアップされ、シーズン途中に入団。
途中入団ながら、陽気な性格でチームにすぐに順応。主に4番打者として起用され、78試合出場、打率.310、18本塁打、45打点をマークした。
1985年、開幕から4番として起用され、夏場には6試合連続本塁打など猛牛打線の核として大活躍。この年三冠王を獲得した落合博満がいたことで打撃主要三冠は逃してしまったが、打率.343、40本塁打、109打点とハイレベルな成績を残し、最多勝利打点のタイトルを獲得。また、前年度三冠王を獲得したブーマー・ウェルズを抑え、ベストナインにも選出された。
1986年、5月に三振に腹を立てアイスボックスを殴り12針を縫う怪我を負い、8月には東尾修の死球に激怒し真っ向から殴り合いを演じ10日間の出場停止処分を受けたが、ほぼフル出場の122試合出場で打率.337、36本塁打、97打点と前年同様に打ちまくった。
1987年、出場試合数は97と減少し、本塁打も16本と成績を落としたが、打率は前年同様.337の成績を残した。
1988年、この年も打線の中軸として活躍していたのだが、6月7日、デービスの自宅から大麻と吸引用のパイプが見つかり、大麻取締法違反(不法所持)で逮捕。「友人から傷薬として貰ったもので大麻とは知らなかった」とデービスは否定したが、翌日、球団は解雇の方針を固め、同月27日契約解除を発表。その後、契約解除処分で十分社会的制裁は受けていると判断され、執行猶予処分で釈放されアメリカへ帰国した。
チームの4番打者が抜けた近鉄は緊急補強を決断。中日ドラゴンズで外国人枠の影響で十分な出場機会を得られず二軍で燻っていたラルフ・ブライアントを金銭トレードで獲得。以降長きに渡って近鉄の4番打者として活躍し、NPBの歴史にその名を刻んだ。
人物・エピソード
三冠王の落合博満やブーマー・ウェルズが最大のライバルとして警戒した猛牛打線の中心打者。
自身は長距離打者ではなく中距離打者と語っていたがパンチ力は抜群であり、毎年のように本塁打王争いに絡んでいた。バットコントロールの技術も高かった。
陽気な性格である一方で頭に血が上りやすい性格であり、東尾修との乱闘はプロ野球史にも残る1シーンとなっている。また、来日当初は相手投手の癖や情報をメモするなど、野球に対しては真面目であったようである。
通算成績
打撃成績
通算:11年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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MLB:6年 | 403 | 1294 | 1217 | 160 | 323 | 27 | 141 | 13 | 6 | 15 | 50 | 6 | 152 | 31 | .265 | .294 |
NPB:5年 | 461 | 1915 | 1703 | 273 | 564 | 117 | 322 | 8 | 0 | 16 | 185 | 11 | 195 | 57 | .331 | .397 |
獲得タイトル
関連商品
関連項目
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