千島列島とは、日本国の北海道島からロシア連邦カムチャツカ半島の間に連なる列島である。ロシアではクリル列島(クリル諸島)と呼称。江戸時代後期より日本とロシア(ロシア帝国/ソビエト連邦/ロシア連邦)との間で領有が争われ、1945年まで日本、それ以後はロシアにより支配されている。
概要
列島南北の距離は約1,200㎞(※参考:青森県下北半島から山口県下関までが約1,300㎞)、日本側呼称で「島」となっている22の島と、いくつかの岩礁により構成される。
最大の島は択捉島(約3,200平方km)で、鳥取県(約3,500平方km 47都道府県中41位)並の大きさ。つづく幌筵島(約2,000)国後島(約1,500)得撫島(約1,450)は、沖縄本島(約1,200)より大きな面積を持つ。定住人口があるのは、択捉島・国後島・幌筵島・占守島(および色丹島)の4島(5島)で、2010年のロシアの国勢調査によると、千島列島(色丹・歯舞を含む)全体の人口は約19,000人。
日本列島と同じく環太平洋火山帯に属する火山列島で、現在も数多くの火山が噴火を繰り返している。列島東側にはカムチャツカ半島東方沖から北海道東南沖にかけて伸びる千島海溝があり、1952年カムチャツカ地震(M 9.0)、2006年千島列島沖地震(M 8.3)、1918年択捉島沖地震(M 8.0)などの巨大地震・津波災害をたびたび起こしている。
年間を通して曇りや雨・雪の日が多い。気候は温帯と亜寒帯にまたがり、北部と南部で植生が異なる。植物学者・宮部金吾の研究により、択捉島と得撫島の間で植物の分布境界線(宮部線)が引かれている。周辺には岩礁・暗礁が多く、霧が深くて強風も吹き荒れる船の難所だが、海域はサケ・マス・ニシン・カニ・昆布など海産物の宝庫であり、日本統治時代から北洋漁業の要衝である。
また、アシカ・ラッコ・オットセイなどが多数生息し、これらの肉・毛皮を生活の糧としていたアイヌ、ついで高価な毛皮を求めて東進してきたロシア人による狩猟の対象となった(ラッコ・オットセイについては、乱獲で個体数が激減したことから、1911年に日米露加の北太平洋4カ国間で『猟虎及膃肭獣保護国際条約(ラッコおよびオットセイほごじょうやく)』を締結。翌年に国内法として『臘虎膃肭獣猟獲取締法(ラッコ・オットセイりょうかくとりしまりほう)』が制定され、当時の千島・南樺太を含む日本国内での狩猟が禁じられた。現在も有効法である)。
関連動画(sm2087225)にもあるように、千島列島のほとんどの島には人が住んでおらず、手つかずの自然が数多く存在している。また火山列島でもあるため温泉があり、択捉島などでは住民が温泉を楽しむ姿も見られる。このため、適切なインフラ整備と資本投入がなされれば、魅力的な観光地になるのではないかと言われている。
千島の島々
北千島
郡 | 島 | 読み(-とう) | ロシア呼称 |
---|---|---|---|
占守郡 | 阿頼度島 | あらいど | アトラソフ |
占守郡 | 占守島 | しむしゅ | シムシュ |
占守郡 | 幌筵島 | ぱらむしる (ほろむしろ) |
パラムシル |
占守郡 | 志林規島 | しりんき | アンツィフェロヴァ |
中千島(北千島に含める場合もある)
郡 | 島 | 読み(-とう) | ロシア呼称 |
---|---|---|---|
占守郡 | 磨勘留島 | まかんる (まかんるらし) |
マカンルシ |
占守郡 | 温禰古丹島 | おんねこたん | オネコタン |
占守郡 | 春牟古丹島 | はりむこたん (はるむこたん) |
ハリムコタン |
占守郡 | 越渇磨島 | えかるま | エカルマ |
占守郡 | 知林古丹島 | ちりんこたん | チリンコタン |
占守郡 | 捨子古丹島 | しゃすこたん | シアシュスコタン |
新知郡 | 雷公計島 | らいこけ | ライコケ |
新知郡 | 松輪島 | まつわ | マトゥワ |
新知郡 | 羅処和島 | らしょわ (らすつわ) |
ラスシュワ |
新知郡 | 宇志知島 | うるししる | ウシシル |
新知郡 | 計吐夷島 | けとい | ケトイ |
新知郡 | 新知島 | しむしる (しんしる) |
シムシル |
得撫郡 | 武魯頓島 | ぶろとん | ブロウトナ |
得撫郡 | 知理保以島 | ちりほい (ちぇるぽい) |
チルポイ |
得撫郡 | 知理保以南島 | ちりほいみなみ | ブラト・チルポエフ |
得撫郡 | 得撫島 | うるっぷ | ウループ |
南千島
郡 | 島 | 読み(-とう) | ロシア呼称 |
---|---|---|---|
蘂取郡 紗那郡 振別郡 択捉郡 |
択捉島 | えとろふ | イトゥルプ |
国後郡 | 国後島 | くなしり | クナシル |
※日本側見解では千島列島に含めない
郡 | 島 | 読み(-とう) | ロシア呼称 |
---|---|---|---|
色丹郡 | 色丹島 | しこたん | シコタン |
花咲郡 | 歯舞群島 | はぼまいぐんとう | ハボマイ |
・多楽島(たらく/パロンスキー) ・志発島(しぼつ/ゼリョーヌイ) ・勇留島(ゆり/ユーリ) ・秋勇留島(あきゆり/アヌーチナ) ・水晶島(すいしょうじま/タンフィリエフ) ・貝殻島(かいがらじま/シグナリヌイ) |
北方領土問題との関係
一般に「北方領土問題」として注目されるのは、「南千島」の択捉島と国後島、および日本政府の公式見解では千島列島に含めない(北海道に付属する島としている)色丹島と歯舞群島で、得撫島以北の島々に関心が払われることは少ない。しかし北方領土も千島列島である以上、列島全体もまた領土問題との関係を免れることはできない。北方領土のみならず、千島列島全ての日本への返還を求める運動・政治団体も少なくなく、政党では日本共産党がこの見解を取っている。
江戸時代
江戸時代の北海道(蝦夷地)には渡島半島を領有する松前藩があり、幕府から特権を得てアイヌとの関係を独占。貿易を差配し、アイヌの反乱を力づくで抑えこんで、蝦夷地全体を事実上支配していた。1715年には幕府に対し、蝦夷地・樺太・千島・勘察加(カムチャツカ)が藩領であると自称している。
しかし実のところ、松前藩も幕府も北方についてよく知っているわけではなく、ロシアの文献で最初に千島(得撫島)が登場する18世紀半ばになってようやく関心を払うようになり、老中・田沼意次の主導で探検隊が派遣され、1786年に最上徳内が和人として初めて択捉島・得撫島に到達。田沼失脚による中断ののち、1798年に近藤重蔵・最上徳内が択捉島において『大日本恵登呂府』の木柱を建てて領有を宣言。続く1801年、 富山元十郎・深山宇平太が『天長地久大日本属島』の木柱を得撫島に建てた。
この間、ロシア人は少なくとも択捉島まで進出していたが、現地アイヌとの争いや、目的であった動物の毛皮資源の減少もあって、徐々に退去していったようである。
日露和親条約(1855年2月7日)
1855年、伊豆国下田において日本全権川路聖謨・筒井政憲、ロシア帝国全権プチャーチンにより『日露和親条約(日魯和親条約)』が調印・締結される。この条約において、樺太については国境を定めず日露両国民の混在地とする一方、千島列島については択捉島と得撫島との間に国境線を引くことが初めて約され、択捉島以南が日本領として確定した。
現在、日本政府はこの条約を根拠として、択捉島以南(北方領土)は日本以外の国の領土となったことがない「日本固有の領土」であると主張している。
樺太・千島交換条約(1875年5月7日)
近代国家の仲間入りを果たした日本が自国領土の確定を迫られる中、日露両国民混在地とされたままの樺太では、日本人・ロシア人・アイヌの間で紛争が頻発。一方ロシアでも、クリミア戦争敗北に伴う国内外の混乱があり、東方問題を解決する必要があったが、幕末の交渉(日露間樺太島仮規則)でも決着はつかなかった。
征韓論に揺れた明治政府内では、樺太の南北分割を主張する派(副島種臣)と樺太放棄・北海道集中開拓を主張する派(黒田清隆)が対立。前者が征韓論の敗北とともに失脚した結果、北方外交を主導するようになった黒田の支援を受けた榎本武揚がサンクト・ペテルブルクに派遣され、樺太全島をロシア、千島列島全島を日本の領有とする条約が締結された。
この条約について、日本側は日露和親条約と併せて、樺太と交換した「千島列島」は「得撫島以北」だと解釈した。この考えに基づき現在の日本政府は、サンフランシスコ講和条約において「千島列島」について日本が放棄したのは「得撫島以北」だと主張している。ただし、この解釈は条約の日本語訳文におけるものであって、条約正文であるフランス語の文章からはそうは読み取れないとする指摘も多く、実際1956年までの日本政府も「北方領土も千島列島である」という説明をしていた。
千島入植
交換条約後も、ロシアに対する配慮のためか千島統治は進展しなかった。1884年には、統治困難を理由に占守島や得撫島のアイヌを全て色丹島へ移住させ、得撫島以北を無人化する措置を取っている。
1893年、郡司成忠という人物が「千島報效義会」を結成。白瀬矗(後の南極探検で有名)も参加して、列島最北部の占守島への入植・越冬を試みる。厳しい環境の中で入植者が続々と凍死、更に白瀬と郡司が仲違いするなどして、計画自体は成功とも失敗とも言えない結果に終わったが、占守島には定住者ができ、後の北洋漁業の発展により出稼ぎ労働者も加わって、夏季には1000人規模の居住者が集まるようになる。
日露戦争・ポーツマス条約(1905年9月5日)
日露戦争の「勝利」の結果、ロシアは樺太のうち北緯50度以南を日本へ割譲。千島列島は当然日本領のままであり、沿海州方面での漁業権も日本が獲得した。1907年の日露漁業協約で漁業権はオホーツク海・ベーリング海方面でも拡大され、ロシア革命の混乱ののち、1925年の日ソ漁業条約に引き継がれた。
ヤルタ協定(1945年2月11日)
第二次世界大戦末期のヤルタ会談において、スターリンはソ連の対日戦争参戦条件として、南樺太と千島列島の割譲を要求。ルーズベルトはこれを受け入れ、密約のかたちで協定が締結された。ソ連の千島列島侵攻はこの協定に基づくものである。
日本政府の立場は、当事国の与り知らない所での領土割譲協約は無効であり、この協定には拘束されないとする。
ソ連軍の侵攻・北方諸島の制圧(1945年8月18日~9月5日)
太平洋戦争末期、ソビエト連邦は日ソ中立条約を一方的に破棄。8月9日より満州国に攻め入り、日本がポツダム宣言の受諾を発表した8月14日(15日)以後になって千島列島への侵攻を開始した。占守島の戦いにおける日本軍の勇戦敢闘もあってソ連軍の進撃は遅れ、得撫島に達したのは8月31日。9月1日までに制圧したのは択捉島・国後島・色丹島で、歯舞群島を制圧したのは日本が降伏文書に調印した9月2日より更に後だった。
サンフランシスコ講和条約(1951年9月8日)
周知の通り、ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印していない。
講和条約により日本は北方の島々について、千島列島・南樺太の権利、権原及び請求権を放棄した。この「千島列島」の指す範囲について、日本政府の説明は1956年に変更されている。
- ヤルタ協定に言う「千島」は、南千島(択捉島以南)と北千島(得撫島以北)両方のことである。ただし北海道の付属諸島である色丹島と歯舞群島は含まない。【1950年3月】
- 講和条約中の「千島」は南千島・北千島両方のことだと考えているが、南と北で歴史的経緯が違うということは講和会議の演説で全権(吉田茂総理大臣)が説明したとおり。【1951年10月】
- 南千島(択捉・国後)は安政条約(日露和親条約)以後、領土問題になっていなかったのだから「千島」ではないというのが国民感情だろうが、大局的には択捉・国後も「千島列島」だと見做すのが妥当。【1951年11月】
- サンフランシスコ講和条約にソ連は参加していないが、講和条約中の「千島」に択捉・国後は含まれていないというのが政府見解。講和条約で放棄したのは「戦争により獲得した領土」である(←択捉・国後は平和的に結ばれた条約によるものだから、この対象にならない)。【1956年2月】
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