双羽黒(1963年8月12日-2019年2月10日)とは、大相撲力士・総合格闘家・スポーツ冒険家・ナイフ評論家・プロレスラーを転々とした新人類である。得意技は右四つ、寄り、掬い投げ、裏投げ、ニー・バット、ローキック、サンダーストーム、北尾ドリラー。
恵まれた体格を武器に相撲界で順調に出世し第60代横綱に上り詰めた。しかし精神面の未熟さから数々の奇行を起こし、ついには一度も幕内優勝を果たせぬまま角界を弾き出され、以後マリオばりに多彩な職業をこなした。
概要
大相撲時代
本名を北尾光司といい、三重県津市に建設会社取締役の一人息子として生まれる。
小学生の頃から津在住の立浪部屋後援会会員から指導を受け、毎年立浪部屋に泊まり込みで稽古するようになる。中学校入学後は三重高校相手に無敵の強さを発揮、両親は同高校への進学を願ったが本人は入門の意思が固く「5年で関取になれなかったら帰って来る」との条件付きで中学卒業後立浪部屋に鳴り物入りで入門。
1979年3月場所、本名の「北尾」で保志(後の北勝海)らと共に初土俵を踏む。
幕下時代から様々の伝説を持ち、特に稽古嫌い振りは広く知れ渡っていた。ある意味この頃が全盛期かもしれない。
- 後援者との食事でステーキを3000g食べたかと思うと、直後に中華丼・天津丼・オムライス・炒飯・チャーシュー麺・冷やし中華・カツ丼を次々に注文しては殆ど完食。
- 少しでも厳しい稽古をさせられると口癖のように「故郷へ帰らせてもらいます」と発言し、師匠の立浪親方(幕内優勝経験のある元関脇安念山)は北尾本人ではなく兄弟子に注意。
- 椎間板ヘルニアで途中休場して入院した時は本当に帰郷してしまい、父親に「お前は二度と家の敷居を跨ぐな!」と怒られ追い返される。結果立浪から1年間の便所掃除という罰ゲームを課せられる。
- 鞭打ち症治療の為伊豆に行った際、廃業を決意して友人宅で立浪に見つかり強制送還。
- 部屋の稽古をサボって喫茶店に行く、あるいは高砂部屋へ出稽古に通うが立浪は見て見ぬ振り。
1984年3月場所に新十両、入門時の約束だった「5年での関取昇進」をタイムリミットぎりぎりで果たした。以後は9月場所新入幕、11月場所最初で最後の対戦となる北の湖から初金星、1985年1月場所幕内ではそれまで8勝7敗を2場所繰り返しただけなのに番付運の良さで新小結と順調に出世する。
小結で連続2桁勝利し5月場所には新関脇となった。ところが9日目から左足の怪我で途中休場し、13日目から再出場したものの6勝に終わる。
この際部屋付きの玉垣親方(平幕優勝を経験した元小結若浪)から「あれくらいの怪我で休むとは何事か!!」と怒られたが「休んだから勝てたんです!」と切り返す新人類ぶりを発揮した。
7月場所前頭筆頭で横綱・大関を総なめし12勝3敗、9月場所と11月場所は関脇でそれぞれ11勝、12勝をあげ場所後大関に昇進した。5月場所8日目には関脇小錦との取り直しの一番を鯖折りで制し、小錦に致命傷を負わせる。なお小錦本人はこれを根に持っていない模様。
同場所と翌7月場所のいずれも千代の富士と優勝を争うが結局決戦では敗れ優勝次点・同点に甘んじる。それでも当時横綱が千代の富士1人だったことや、保志(北勝海)の昇進で大関が6人になってしまうのを防ぐため「2場所連続優勝に準ずる成績」の内規により約1名の反対はあったが横綱に推挙された。
ここで問題となったのは四股名である。本人は輪島同様本名の「北尾」で通すか、モンゴルっぽい「白鳳(はくおう)」を考えていた。また戦前の立浪部屋師匠が現役時に名乗った「緑嶌」も候補に上がった。
ところが日本相撲協会の春日野理事長(元横綱栃錦)の「立浪部屋の横綱2人、双葉山と羽黒山の四股名を合体すれば最強の力士になるんじゃね?」という思いつき鶴の一声により「双羽黒」に改名する。
口の悪い某漫画家からは「稽古嫌いの大関若羽黒に輪を掛けて稽古をしないのが由来」と揶揄された。
しかし昇進後は内臓疾患や靱帯損傷に悩まされ、数度あった優勝のチャンスも千代の富士に阻まれてしまう。
部屋で火事が起きた際「俺のパソコンは大丈夫か?」と発言したり、エアガンを撃つなどのいじめが原因で付け人が集団脱走する事件が起きたりするなどトラブルも度々発生した。
エアガン騒動後の1987年11月場所は初日から13連勝、だが14日目北勝海、千秋楽は全勝の千代の富士に屈しまたも賜杯には手が届かなかった。
そして翌1988年1月場所の番付も発表された後の12月27日、立浪との若い衆に関する意見の対立から部屋を脱走、都内のマンションの一室に籠城している間に廃業届が提出され、12月31日の緊急理事会で廃業が正式決定された。
同日の緊急記者会見で双羽黒は「師匠との相撲道の違いにとても付いて行けない」と述べ相撲界と決別した。幕内優勝0回、横綱在位はわずか8場所(番付上は9場所)に終わった。
関取では皆勤負け越しが1度もなかったが、日射病・食中毒など奇妙な理由で休場することもあった。
また双羽黒が1度も優勝できないまま廃業した事実は、その後横綱昇進条件で「2場所連続優勝」が厳格に適用される契機となったとされる。
しかし千代の富士には通算6勝8敗、横綱昇進後2勝3敗と健闘しており、千代の富士も後年「双羽黒が廃業していなかったら自分がこれほどの記録を残せたか分からない」など強さを認める発言をしている。
1988年3月に都内のホテルで断髪式が行われたが、大阪で行われる春場所の直前だったため相撲協会員や後援会員は誰も出席せず、最後の止め鋏を入れたのは父親だった。
そしてこれがきっかけで横綱昇進基準が厳格化し、「2場所連続優勝」でなければ横綱に昇進できなくなり、その結果小錦や魁皇等以前の基準なら昇進できていたはずの大関が昇進できなくなったり、貴乃花や白鵬等1度は昇進を見送られる力士が続出。鶴竜の横綱昇進まで2場所連続優勝せずに横綱に昇進した事例は現れなかった。
スポーツ冒険家〜格闘家時代
ボクシング・アメリカンフットボールなどのオファーが来たがそれを断り「スポーツ冒険家」という肩書きでタレント活動を行った。
仕事でアメリカのプロレスラー養成所「モンスター・ファクトリー」を訪れたことでプロレス参戦に傾き、ルー・テールの指導の下アメリカで数ヶ月間修行を重ね1990年2月10日に新日本プロレスからデビューした。
クラッシャー・バンバン・ビガロ相手に挙げたデビュー戦の白星を皮切りに、対戦相手に恵まれ勝利を重ねたものの、自信満々の態度で入場して相手を挑発し、勝利して意気揚々を引き上げる態度と言動はプロレスファンの失笑を買い、なかには「帰れ」コールまで起きた。
やがて怪我や病気を理由に練習や巡業をサボるようになり、大相撲時代と同様の「練習嫌いの問題児」の悪名を響かせ始めた。
その後、新日本の現場責任者とマッチメイカーを務めていた長州力と激しく対立し「何か文句があるなら勝負(喧嘩)して、負けたら言うことを聞く」「怖いのか?この朝鮮人野郎!」という度を過ぎた発言によって新日本プロレスから契約解除を言い渡された。
新日本からの契約解除後、大相撲の先輩である天龍源一郎を頼り創立間もないSWSヘ参戦する。しかしジョン・テンタ(ジ・アースクエイク、元幕下・琴天山)との試合中で反則負けになり、リングを降りて手にしたマイクでテンタに向かって「八百長野郎この野郎!!八百長ばっかりやりやがって!」と発言、さらに観客に向かって「お前ら、こんなもの(八百長試合)見て面白いのか!」と叫んだ(北尾事件)。
SWS側は一旦北尾に謹慎を命じたものの、内外から批判が渦巻いたことで事態を重視、ついに北尾を解雇する決断を下した。
SWS解雇後は総合格闘家への転向を発表。1992年UWFインターナショナルから参戦が決まり、5月8日山崎一夫と対戦し勝利を収めた。
約半年後の10月23日、北尾は日本武道館で高田延彦との「格闘技世界一決定戦」と銘打たれたビッグマッチに臨むが、試合直前のルール変更やブックの不透明さもあり高田が放ったハイキックを顔面に受けダウン、KO負けを喫した。
しかし、総合格闘技への復帰後は以前のような態度は影を潜め、リング四方に深々と頭を下げる謙虚さを見せて、過去を知るファンを大いに驚かせた。
1994年には格闘技塾「北尾道場」(後の武輝道場)を旗揚げし、道場生と共に天龍率いるWARを主戦場にした。この時期の北尾はプロレスもある程度そつなくこなせ、ファンからも声援を送られるようになっており、天龍とタッグを組むことも多かった。
しかし、前述のジョン・テンタとの数年ぶりの再戦がWARの興行にて行われた際は、終始いきり立って格闘色の際立つ展開となってしまい、呆気ない幕切れとなった。また初期のPRIDEやUFCにも参戦している。
1998年5月1日に開催された全日本プロレス・東京ドーム大会では、同じ大相撲出身の田上明(元十両・玉麒麟)とのシングルマッチが組まれたが、カード発表直後にキャンセル。
その後「やりたいことをやり終えた」として現役引退を表明。
同年10月11日のPRIDE.4にて引退セレモニーが行われた。
角界復帰後
プロレス引退から5年後の2003年、双羽黒の横綱時代部屋を脱走したと報じられた元付け人の世話人・羽黒海憲司の要請で、日本相撲協会所属ではないフリーの立場ながら、元小結・旭豊に代替わりした立浪部屋のアドバイザーに就任。
現役時代に使用した化粧回しを日本相撲協会に寄贈した。
若手力士への細かいアドバイスや新弟子のスカウトにも携わるなど、人間的に成長したとの評もある。
2019年2月10日、重度の糖尿病からくる慢性腎不全により55歳で死去。
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関連項目
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