『啓蒙の弁証法 / Dialektik der Aufklärung』とはテオドール・アドルノとマックス・ホルクハイマーが著した近代文明批判の書である。
執筆の背景
2人が活動をしていた1930年代ドイツといえば、ご存知のようにナチスドイツが台頭し始めた時期であった。アドルノもホルクハイマーもユダヤ人であったため、ナチスの迫害の対象になり、2人は大学教授の資格を剥奪されて、仕事までも奪われてしまった。彼らはドイツ社会の仕打ちに対して失望を覚え、ナチスの野蛮性に対して強い憤りを感じたのであった。その後、ユダヤ迫害が激しくなるにつれて、アドルノとホルクハイマーはドイツにはいられなくなり、ニューヨークへと亡命する。
しかしそこで彼らはナチスとはまた違った困難に直面したのである。当時のアメリカの社会学は統計的手法を用いた実証分析が主流であり、彼らのような(実証分析派からみて)あやふやで実態性のない思惟による社会哲学などお呼びではなかったのだ。またアメリカのテレビやラジオなどの大衆文化が形骸化し、値段と売れ行きのみで評価される資本主義の商品として取引されていたことにも、芸術愛好家であったアドルノは失望する。結局2人はニューヨークからも追い出されカルフォルニアへと渡ったのだった。
アドルノとホルクハイマーは統計データを妄信する社会研究や、市場商品となった大衆文化の中にナチスドイツと似た野蛮性を見いだした。
『啓蒙の弁証法』執筆の背景
内容
そもそも「啓蒙の弁証法」というのは何が書かれている哲学書なのか。本作は極めて晦渋な記述が続き、要約不可能な難読書と言われているが、この本をあえて1文で言うのなら、それは序文のこの言葉で表せるだろう。
もうちょっと簡単にいえば「なぜ人類は文明化していくほどに同時に野蛮化するのか?」ということだ。
タイトルにある啓蒙とは「蒙(やみ)を啓(ひら)く」。つまり暗闇に光を差し込ませるという意味である。人類は先史時代から今の時代まで、常に蒙を啓いて発展を続けてきた。その中で「野蛮」や「神話」を打ち破り、「文明」や「理性」を獲得してきたはずだった。しかしその素晴らしい発展の先に人類が行き着いたのはファシズムの台頭、ユダヤ人迫害、世界大戦、労働者の無力化、市場で取引される堕落した大衆文化であり、そこには到底、文明の光は見つけらない。
ではこれらの「野蛮」は、いまだ私たち文明人が克服しそこねているものであり、いつか私たちの英知が「野蛮」を打ち倒すことがあるのだろうか? アドルノとホルクハイマーはこの問いに対して「否」という。これらの「野蛮」は「文明」によって克服されうるものではない。逆に「今日の人間が陥った自然〔野蛮〕への堕落は、社会の進歩と不可分なものである」。つまり、「人類の文明化と野蛮化は切っても切りはなせないもの」なのだ。「文明」が「野蛮」を倒すのではなく、「文明」の先に「野蛮」が待ち構えている。
もう一つタイトルにある弁証法とはこの記事でも再三述べられているが「ある一つのもの(正、テーゼ)が、その本質から生まれた別のもの(反、アンチテーゼ)と対立し、両者が混ざり合い(止揚、アウフヘーベン)ながら、新たなるもの(合、ジンテーゼ)になる」という意味である。アドルノとホルクハイマーは、人類の「文明」と「野蛮」の対立に弁証法を見たのだ。つまるところ「啓蒙の弁証法」は啓蒙・文明と神話・野蛮の対立を軸にした著作になる。そのため、以下の本論においても「文明」と「野蛮」がどのような関係性で対立しているかに着目することが、難解なこの論文を理解する上で重要になってくるだろう。
啓蒙の弁証法は「なぜ人類は文明化するほどに野蛮化するのか?」を解き明かした
啓蒙の弁証法の目次は以下のようになる。
1章で啓蒙一般について論じ、2〜5章では具体的な事例をあげて啓蒙について、より深く掘り下げていく。
第1章、啓蒙の概念
アドルノとホルクハイマーはまず最初に原始時代の人類を想起する。原始社会では啓蒙(文明)はまだ発生してておらず、自然(野蛮)と人類が一体化した世界である。
ここで啓蒙(文明化)の概念を明確にするために、啓蒙という単語を「世界を呪術から解放し、神話を解体し、合理的知識によって空想の権威を失墜させ、もって人間を自然に対する支配者の位置につけ、人間の自己保存をめざすもの」と定義する。難しいこと言っているが、要するに「呪いとか神話みたいな迷信をこの世からなくして科学的な考えをする」という意味。
初期段階の人類は、あらゆる存在にはマナ(超自然的霊力)が宿っているというアニミズムを信奉していた。アニミズムの世界では神と人間と物質は、ともに生きる自然の一部として相互に融合しあった親和の関係にあった。そこでは、それぞれ相手を模倣して相手に同化する働きにより、乗り移り、乗り移られる関係によって相手に直接影響を及ぼそうとする。これをミメーシス(同化的模倣活動)という。啓蒙の一番最初の仕事はこのアニミズムという呪術を根絶することにあった。
啓蒙(文明化)によって、やがてこのアニミズムとミメーシスも解体されていく。元は一つであった自然と精神、主体と客体が分離し、マナの宿っているものとそうでないものに区別されていくのだ。自分と自分でないものが分かれ、その結果、例えば言語なんてものも生まれた。言語は本来、何かに対する内なる感情の叫びだったものが、やがて自分から独立し普遍的な意味合いをもった記号となったのだ。原始社会の人類は啓蒙によって着々と文明化していった。
更に次の段階として、自然を擬人化した神話的神々が人類の歴史の中に登場してくる。もともと精霊や神や悪魔なんてものは自然の脅威に対する人類の恐れの現れであった。人類は人の手では如何ともしがたい自然への恐怖に神話的説明を行おうとしたのだ。しかし、この傾向は初期段階から既に、神話の理論(文明)化。すなわち俗人間社会的な理性の獲得を進めることにもなった。本来、神話と理性というものは対立する存在であるはずである。しかし神話のプロセスの中に俗世間的な秩序や統一、支配・隷従の理論が含まれることになり、原始において成立したはずの神と人間の分離が有名無実のものとなってしまう。こうして、自然から分かれ自然を支配したはずの人間(統一的主体の覚醒、又は統一的理性という)は再び自然と同一のものとなった。以上のことから、神話と啓蒙(理性)は真逆の存在というわけではなく、神話が既に啓蒙(文明化)なのだということが言える。
第2章、オデュッセウスあるいは神話と啓蒙
第二章では、ギリシャの詩人ホメロスの傑作「オデュッセイア」が引用され、神話から合理的世界への啓蒙の進展過程を解明していく。この章で論じられるのは、自然と支配と労働の絡み合いである。
ホメロスのオデュッセイアは、ギリシャの英雄オデュッセウスがトロイアの戦いに勝利した後に、さまざまな海の冒険を経て、故郷のイタケーにたどり着き、妻と再会し家族と領土を回復するという長編叙事詩である。ここで引用されるのはそのエピソードの一つである、「セイレーンの歌」だ。
オデュッセウスとその従者たちの船は、セイレーンのいる浜へさしかかる。この不気味な女共は近くにきた人間を歌で惑わして殺してしまうという恐ろしい魔女であった。オデュッセウスは娼婦の女神キルケーからこのことを聞いており、部下には耳に栓をさせ歌が聞こえないようにしてひたすら船を漕がせた。一方で自分は船のマストに手足を自ら括り付け、歌声を聞いても惑わされないようにした。こうしてオデュッセウスは見事この難所をくぐり抜けたのである。
という2つの方法でこの場所を通過した。このアレゴリー(たとえ話)は自然に対する人間の支配。あるいは神話に対する支配と労働の関係性を示唆している。ここにおけるセイレーンは自然。オデュッセウス一行は自己(人類)を表している。先述したように、自然は野蛮サイドであり、(自然と区別された)自己は文明サイドの単語になる。ここでも野蛮と文明の対立があることがポイント。
人類(オデュッセウス一行)というのは自己の統一性を保持し、自己の保全を目的として(つまりセイレーンに殺されないため)に、社会的分業を行う。支配者であるオデュッセウスはセイレーンの歌声による身の破滅を防ぐために、身体を縛り付ける。これは文明化した市民が身近になった幸福を、それに溺れることを厭って逆に遠ざける様子を表現している。一方で服従者である漕ぎ手はその歌声の魅力を知りながらも耳を塞がれ、ただただオデュッセウスの命令に従って労働に専念する。彼らは本来的な人間感覚(ここでは聴覚)を喪失し、命令に従うだけの被支配者になる。オデュッセウス(命令者)と従者(服従者)は、セイレーン(自然、野蛮)に打ち勝つ(自己保存する)ために、分業を行いながらも、それぞれが禁欲を強制される。自然を支配するつもりが、逆に自然に支配されてしまっているのです。ここから文明化社会の呪いが見て取れる。
自給自足経済から、それぞれが役割に応じて社会に必要な商品を生み出すという社会的分業に移り変わることによって、人類は少ない労働で、より多くの収穫物が得られるようになった。それによって人類が自然から支配されるのではなく、人類が自然を支配するようになったはずだ。しかしその発展の末に生まれた資本主義社会の下、賃金奴隷(被支配者、従事者)は強制労働を強いられ、他方で資本家(命令者、抑圧者)は直接労働に関わることもなくなり(経験の思惟の分離)、さらに破滅から逃れるために禁欲をし(内なる自然からの支配を受け)なければならない。社会的分業によって人類が進歩、文明化するほどに、支配者、被支配者ともに人間的感覚が貧しくなり逆に自然化(野蛮化)してしまう。これが産業社会の論理的帰結なのだ。
またアドルノらは二章の後半で自然の数学化、思考の数学化についても批判を行う。産業社会では事実的、現存的なものが唯一と見なされ、統計的手法を用いた実証分析のみが絶対となり、理性の計算できない不合理・非効率なものを無視してしまう。神話を啓蒙して生まれたはずの理性(実証分析)が、逆に不可侵のものとして神話化するのだ。ここでも「文明の発展の先に野蛮がある」という構図があることが伺える。
第3章、ジュリエットあるいは啓蒙と道徳
自己保存(文明化)とそのための自然への支配が啓蒙の原理であった。とすると、この啓蒙原理は人間道徳に対してどのような効果を生み出すのか? これが第三章「ジュリエットあるいは啓蒙と道徳」のテーマになる。
啓蒙とは理性による思考のことであり、理性というのは数学的思考のことでもある。理性は社会や人間を全て統計に還元し、自己保存という目的に合わせて、対象を感覚的なものから、自己保存という目的に隷従する素材へと移し替える。その結果、啓蒙的理性が発展することによって、世界の全てが計算可能な素材となり、自然だけでなく人間まで無機質で均等化された存在になる。そんな社会で、人間道徳とは一体どのような意味合いを持つのか?
取り扱われるのはカント、サド、ニーチェの3人の道徳哲学である。カントの『啓蒙とは何か?』、サドの『ジュリエットの物語、あるいは悪徳の栄え』とニーチェの『権力意思』の著作から啓蒙と道徳について考察を進めていく。
カントは、理性的啓蒙的主体である人間の転落、あるいは自己解体を恐れて、「お互いに相手を尊敬しあう義務」を科学的理性の法則から導きだそうとした。理性的思考が道徳を失うことを恐れ、理性の中から人間道徳の法則をカントは求めたのだ。しかしこれはあまりに夢物語が過ぎる。正直、微温い。アドルノとホルクハイマーも、「カントの理論には何も足場がない」とか「カント的尊敬を行うような人間は、啓蒙されておらず、むしろ神話側の愚者だ」と批判している。
これに対して啓蒙の仮借なき終着を徹底的に追及したのが、マルキ・ド・サド(ドSのサド!)の『ジュリエットの物語、あるいは悪徳の栄え』とニーチェの『権力意思』論になる。
サドとニーチェは作品を通じてカントの道徳倫理について激しい批判を行う。カントは、人間は全ての能力と性向を理性の力の下に、つまり自己自身の内的自然(欲望のこと)を支配下におき、感情によって支配されてはならないと説く。これを無感動の義務と言う。しかしサドの小説の登場人物ジュリエットは「カントのその理性的な考えは犯罪者が冷静な犯行計画をたて、良心の呵責を理性によって克服することと何が違うの!?」と喝破する。内的自然(欲望)を理性によって支配することや、感性を失った無感動が人間の徳というのなら、カントとジュリエットは同じことを主張していることになる。
科学を信条とするジュリエットにとっては、神やら十戒、罪に対する救済など、その非合理性を崇拝することは身の毛もよだつほどに気持ち悪いことなのだ。苛烈な啓蒙主義者であるジュリエットは科学で証明できないものを信仰するキリスト教徒を嫌悪する。しかしその一方で、学問的証明もないのに嫌われているものに価値を見いだすという価値転換もおこなっている。それが彼女独特の情熱であったのだ。
同じようにニーチェは価値の転倒として、弱者を代弁するキリスト教徒を批難する。その文章は非常に強烈だ。
弱い者やダメなやつは破滅すべきだ。それが我々の人間愛の第一命題であり。そして人は、彼らが破滅するのに手を貸してやらなければいけない。ある種の悪徳ーあらゆる弱い者やダメな奴に同情をかけることーつまりキリスト教徒以上に有害なものがまたとあろうか
ニーチェは強者とその残忍さを賞賛する。ニーチェは弱者が強者であることを不条理であるとした。自己保存を旨として社会が発展したというのなら、それは自然の法則である。強者がその強権を用いて弱者を圧迫するときがこの世界のもっとも自然な形になるとニーチェは言う。同情は罪悪であり悪徳。自己保存と他者支配が優先される社会では、強者の道徳が唯一になる。腕力の弱い女は男に隷従し、劣悪民族であるユダヤ人はアーリア人に支配される。それこそが啓蒙的理性の行き着く先なのだ。
野蛮な自然状態(万人の万人に対する闘争!)から発展し、自然支配と文明化を進めた社会が、なぜか人間道徳は失われ残忍冷酷な弱肉強食の世界になっていく。サドとニーチェが言いたかったのは、ずばりこういう価値転倒だった。
第4章、文化産業-大衆欺瞞としての啓蒙
アドルノとホルクハイマーがアメリカ留学したときにみた映画やラジオなどの大衆文化は、もはや金儲け以外の何者でもなく、金儲け目当てに作られたガラクタを美化するイデオロギーとして利用されていた。それらの大衆文化は国民の画一化に用いられ、抑圧者である資本が支配力を高めるための道具と堕していたのだ。こうして自発性とか個性といったものは社会から失われる。値段でしかその価値を計られず、消費者から多様性と想像性を損なわせる文化産業の中に、アドルノらは野蛮を見た。
文化産業というのはつまるところ娯楽なわけであるが、後期資本主義における娯楽とは、労働の延長に過ぎない。つまり、退屈できつい労働を回避しようとする人達が、そういう労働に耐えるために気晴らしのために娯楽を求めるのだ。しかし、娯楽に耽るということは、厳しい現状に対する消極的な承認であり、ただ苦しみから目を逸らして自分を愚化し、ただ現実逃避としているだけである。人々は娯楽産業によって躾られ、資本の側は大衆文化を通じて大衆を欺き、彼らをより操縦しやすくする。大衆は自分たちを奴隷化するイデオロギーにしがみ付かざるをえないのだ。
その結果行き着く先がファシズムなのだ。ラジオやテレビは視聴者から料金を徴収しないことで、中立であるという欺瞞を獲得する。故に大衆文化はファシズムにとって最高のツールになる。ラジオは総統(つまり権力者)の演説を垂れ流し、そのカリスマをあまねく喧伝する。テレビを通じて絶対化された言葉は、誘いを命令に変換し、やがて「ユダヤ人を殺せ」というホロコーストへ繋がっていく。また、かつて自由競争の下、企業と消費者を結ぶ役割を果たしていた広告産業は巨大コンツェルン(財閥)と一体化し、支配者の権力を守るものになる。この広告産業も、やがて全体主義的スローガンを広めるのに使われていく。
第5章、反ユダヤ主義の諸要素-啓蒙の限界
ナチスによるユダヤ人迫害は、アドルノとホルクハイマーが発見した究極の野蛮であった。ナチスはユダヤ人を弾圧することによって民衆の喝采を得た。ユダヤ人迫害を、ユダヤ民族とアーリア民族の二種族間の争いであると宣伝し、ナショナリズムを利用してこの戦争は民族戦争であると主張したのだ。敵は、人間よりも低級な種族、野蛮な存在であると見なされ、民衆は内なる欲望(これこそが本当の自然、野蛮)を解放する快楽にふけり、野蛮な民族を打ち倒す自分たちこそが文明の擁護者であるとうぬぼれる。しかし反ユダヤ主義は現状の不満へのはけ口として利用されただけで、民衆の実利は何もなかった。ユダヤ人から没収した財産が国民に分配されることもなく、すべては支配者の掌の上であった。そしてそれは家族や祖国や人類を救うためといった詭弁のイデオロギーによって鼓舞される。
なぜ理性を獲得したはずの近代市民社会がユダヤ人迫害という野蛮行為に至ってしまったのか? ここにも本書を貫くテーマである「理性の果ての野蛮」が存在する。市民のユダヤ人に対する見解には二種類ある。1つ目は「ユダヤ人は敵性人種であり、彼らを滅ぼすことが人類の幸福である」という考え。2つ目は「ユダヤ人は今となっては宗教的な伝統や信条で結びつくだけのグループであり、民族的な集団ではない」という考えだ。しかしこれは両方とも真実であり、誤りでもある。前者の見解は誤った認識でありながらも、ナチスがそれを実行してしまったという意味では真実になってしまった。後者は理念としては正しいと言える。しかし、それは暴力が再生産されない社会においてのみなのである。
ユダヤ人は自分たちは民族ではないといいながら、それぞれの住む国に適応することを避け、そのくせ社会から恩恵を受けることを求めている。それぞれの国に同化したユダヤ人ももちろんいるのだが、所詮、社会の調和なるものは民族共同体の調和であり、開かれているように見えても実際はユダヤのようなよそ者には排他的なものだ。それぞれの国に同化したリベラルなユダヤ人は「反ユダヤ主義は社会の秩序を歪める」と言うが、この社会の秩序そのものが、本来人間を歪めることなしには存在しえないものなのだ。社会の秩序とはつまるところ暴力なのであり、ユダヤ人迫害はその社会の秩序の本質が正体を表しただけに過ぎない。
市民はユダヤ人の中に自分の暗い部分を投影するのです。かつて労働は奴隷がするものであり、働くこと自体が賎しいものと見なされてた。それが商業主義の時代になると、支配者が貴族から資本家に姿を変える。彼らは賃金労働者を支配する搾取者であるにも関わらず、「労働は恥ではない」と、自分を労働者の側に起きる。そして彼らはユダヤ人を指差して「やつらこそが搾取者だ」と言うのだ。金融業者としてのユダヤ人は、全階級の経済的不正の責任を背負う悪人として、その憎悪を一身に受けることになってしまった。ブルジョワジーのユダヤ人に対する罵りや怒りは、本当の搾取者である自分の良心のやましさの反映であり、自己嫌悪の表れなのだ。
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参考文献
- 『人と思想 アドルノ』 小牧治
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