啓蒙の弁証法単語

ケイモウノベンショウホウ
8.4千文字の記事
  • 3
  • 0pt
掲示板へ

『啓蒙の弁証法 / Dialektik der Aufklärungとはテオドールアドルノとマックスホルクハイマーが著した近代文明批判の書である。

執筆の背景

2人が活動をしていた1930年代ドイツといえば、ご存知のようにナチスドイツが台頭し始めた時期であった。アドルノもホルクハイマーもユダヤ人であったため、ナチスの迫の対になり、2人は大学教授資格を剥奪されて、仕事までも奪われてしまった。彼らはドイツ社会の仕打ちに対して失望を覚え、ナチスの野蛮性に対して強い憤りを感じたのであった。その後、ユダヤしくなるにつれて、アドルノとホルクハイマーはドイツにはいられなくなり、ニューヨークへと亡命する。

しかしそこで彼らはナチスとはまた違った困難に直面したのである。当時のアメリカ社会学は統計的手法を用いた実分析が流であり、彼らのような(実分析からみて)あやふやで実態性のない思惟による社会哲学などお呼びではなかったのだ。またアメリカテレビラジオなどの大衆文化が形骸化し、値段と売れ行きのみで評価される資本主義の商品として取引されていたことにも、芸術であったアドルノは失望する。結局2人はニューヨークからも追い出されカルフォルニアへと渡ったのだった。

アドルノとホルクハイマーは統計データを妄信する社会研究や、市場商品となった大衆文化の中にナチスドイツと似た野蛮性を見いだした。

『啓蒙の弁証法』執筆の背景

ナチス・ドイツによるユダヤ人

②統計的な実分析や、市場価値(交換価値)のみに傾倒する文明社会

内容

そもそも「啓蒙の弁証法」というのは何が書かれている哲学書なのか。本作は極めて渋な記述が続き、要約不可能な難読書と言われているが、この本をあえて1文で言うのなら、それは序文のこの言葉で表せるだろう。

「なにゆえに人間は、人間らしい状態へ進む代わりに、一種の新しい野蛮状態へ陥っていくのか(序文)」

もうちょっと簡単にいえば「なぜ人類は文明化していくほどに同時に野蛮化するのか?」ということだ。

タイトルにある啓とは「(やみ)を啓(ひら)く」。つまり暗闇にを差し込ませるという意味である。人類は先史時代から今の時代まで、常にを啓いて発展を続けてきた。その中で「野蛮」や「神話」を打ち破り、「文明」や「理性」を獲得してきたはずだった。しかしその素晴らしい発展の先に人類が行き着いたのはファシズムの台頭、ユダヤ人世界大戦、労働者化、市場で取引される堕落した大衆文化であり、そこには到底、文明のは見つけらない。

ではこれらの「野蛮」は、いまだ私たち文明人がしそこねているものであり、いつか私たちの英知が「野蛮」を打ち倒すことがあるのだろうか? アドルノとホルクハイマーはこの問いに対して「否」という。これらの「野蛮」は「文明」によってされうるものではない。逆に「今日人間が陥った自然〔野蛮〕への堕落は、社会の進歩と不可分なものである」。つまり、「人類の文明化と野蛮化は切っても切りはなせないもの」なのだ。「文明」が「野蛮」を倒すのではなく、「文明」の先に「野蛮」が待ち構えている。

もう一つタイトルにある弁証法とはこの記事でも再三述べられているが「ある一つのもの(正、テーゼ)が、その本質から生まれた別のもの(反、アンチテーゼ)と対立し、両者が混ざり合い(止揚アウフヘーベン)ながら、新たなるもの(合、ジンテーゼ)になる」という意味である。アドルノとホルクハイマーは、人類の「文明」と「野蛮」の対立に弁証法を見たのだ。つまるところ「啓蒙の弁証法」は啓・文明と神話・野蛮の対立を軸にした著作になる。そのため、以下の本論においても「文明」と「野蛮」がどのような関係性で対立しているかに着することが、難解なこの論文を理解する上で重要になってくるだろう。

啓蒙の弁証法は「なぜ人類は文明化するほどに野蛮化するのか?」を解き明かした

・文明サイド自然に対する支配、進歩、自己保存、理性ロゴスなど

神話・野蛮サイド自然からの支配、退歩、貧困化など

啓蒙の弁証法を読むときは、これら二つのグループがどう対立しているかをチェック

啓蒙の弁証法の次は以下のようになる。

1章、啓概念

2章、オデュッセウスあるいは神話と啓

3章、ジュリエットあるいは啓道徳

4章、文化産業-大衆欺瞞としての啓

5章、反ユダヤ義の諸要素-啓限界

1章で啓一般について論じ、2〜5章では具体的な事例をあげて啓について、より深く掘り下げていく。

第1章、啓蒙の概念

アドルノとホルクハイマーはまず最初に原始時代の人類を想起する。原始社会では啓(文明)はまだ発生してておらず、自然(野蛮)と人類が一体化した世界である。

ここで啓(文明化)の概念を明確にするために、啓という単を「世界呪術から解放し、神話を解体し、合理的知識によって想の権威を失墜させ、もって人間自然に対する支配者の位置につけ、人間の自己保存をめざすもの」と定義する。難しいこと言っているが、要するに「呪いとか神話みたいな迷信をこの世からなくして科学的な考えをする」という意味。

初期段階の人類は、あらゆる存在にはマナ自然的霊)が宿っているというアニミズムを信奉していた。アニミズムの世界では人間と物質は、ともに生きる自然の一部として相互に融合しあった親和の関係にあった。そこでは、それぞれ相手を模倣して相手に同化する働きにより、乗り移り、乗り移られる関係によって相手に直接を及ぼそうとする。これをミメーシス(同化的模倣活動)という。啓の一番最初の仕事はこのアニミズムという呪術を根絶することにあった。

(文明化)によって、やがてこのアニミズムとミメーシスも解体されていく。元は一つであった自然と精体と客体が分離し、マナの宿っているものとそうでないものに区別されていくのだ。自分と自分でないものが分かれ、その結果、例えば言なんてものも生まれた。言は本来、何かに対する内なる感情の叫びだったものが、やがて自分から独立し普遍的な意味合いをもった記号となったのだ。原始社会の人類は啓によって着々と文明化していった。

更に次の段階として、自然擬人化した神話々が人類の歴史の中に登場してくる。もともと精霊悪魔なんてものは自然の脅威に対する人類の恐れの現れであった。人類は人の手では如何ともしがたい自然への恐怖神話的説明を行おうとしたのだ。しかし、この傾向は初期段階から既に、神話理論(文明)化。すなわち俗人間社会的な理性の獲得を進めることにもなった。本来、神話理性というものは対立する存在であるはずである。しかし神話プロセスの中に俗世間的な秩序や統一、支配・隷従の理論が含まれることになり、原始において成立したはずの人間の分離が有名実のものとなってしまう。こうして、自然から分かれ自然を支配したはずの人間(統一的体の覚醒、又は統一的理性という)は再び自然と同一のものとなった。以上のことから、神話と啓理性)は逆の存在というわけではなく、神話が既に啓(文明化)なのだということが言える。

第2章、オデュッセウスあるいは神話と啓蒙

第二章では、ギリシャ詩人ホメロス傑作「オデュッセイア」が引用され、神話から合理的世界への啓の進展過程を解明していく。この章で論じられるのは、自然と支配と労働の絡み合いである。

ホメロスのオデュッセイアは、ギリシャ英雄オデュッセウストロイアの戦いに勝利した後に、さまざまなの冒険を経て、故郷のイタケーにたどり着き、妻と再会し家族と領土を回復するという長編叙事である。ここで引用されるのはそのエピソードの一つである、「セイレーンの歌」だ。

オデュッセウスとその従者たちのは、セイレーンのいるへさしかかる。この不気味な女共は近くにきた人間を歌で惑わして殺してしまうという恐ろしい魔女であった。オデュッセウス婦の女神キルケーからこのことを聞いており、部下にはに栓をさせ歌が聞こえないようにしてひたすらを漕がせた。一方で自分はマストに手足を自ら括り付け、歌を聞いても惑わされないようにした。こうしてオデュッセウスは見事この難所をくぐり抜けたのである。

オデュッセウス

①従者にを聞こえなくしてを漕がせる

②自身は身体を縛り付け魔女の誘惑に耐える

という2つの方法でこの場所を通過した。このアレゴリー(たとえ話)は自然に対する人間の支配。あるいは神話に対する支配と労働の関係性を示唆している。ここにおけるセイレーン自然オデュッセウス一行は自己(人類)を表している。先述したように、自然は野蛮サイドであり、(自然と区別された)自己は文明サイドの単になる。ここでも野蛮と文明の対立があることがポイント

人類(オデュッセウス一行)というのは自己の統一性を保持し、自己の保全を的として(つまりセイレーンに殺されないため)に、社会的分業を行う。支配者であるオデュッセウスセイレーンの歌による身の破滅を防ぐために、身体を縛り付ける。これは文明化した市民が身近になった幸福を、それに溺れることを厭って逆に遠ざける様子を表現している。一方で従者である漕ぎ手はその歌の魅を知りながらもを塞がれ、ただただオデュッセウスの命に従って労働に専念する。彼らは本来的な人間感覚(ここでは聴覚)を喪失し、命に従うだけの被支配者になる。オデュッセウス(命者)と従者(従者)は、セイレーン自然、野蛮)に打ち勝つ(自己保存する)ために、分業を行いながらも、それぞれが禁欲を強制される。自然を支配するつもりが、逆に自然に支配されてしまっているのです。ここから文明化社会呪いが見て取れる。

自給自足経済から、それぞれが役割に応じて社会に必要な商品を生み出すという社会的分業に移り変わることによって、人類は少ない労働で、より多くの収穫物が得られるようになった。それによって人類が自然から支配されるのではなく、人類が自然を支配するようになったはずだ。しかしその発展の末に生まれた資本主義社会の下、賃金奴隷(被支配者、従事者)は強制労働を強いられ、他方で資本家(命者、抑圧者)は直接労働に関わることもなくなり(経験の思惟の分離)、さらに破滅から逃れるために禁欲をし(内なる自然からの支配を受け)なければならない。社会的分業によって人類が進歩、文明化するほどに、支配者、被支配者ともに人間的感覚が貧しくなり逆に自然化(野蛮化)してしまう。これが産業社会論理的帰結なのだ。

またアドルノらは二章の後半で自然数学化、思考の数学化についても批判を行う。産業社会では事実的、現存的なものが一と見なされ、統計的手法を用いた実分析のみが絶対となり、理性の計算できない不合理・非効率なものを無視してしまう。神話を啓して生まれたはずの理性(実分析)が、逆に不可侵のものとして神話化するのだ。ここでも「文明の発展の先に野蛮がある」という構図があることが伺える。

第3章、ジュリエットあるいは啓蒙と道徳

自己保存(文明化)とそのための自然への支配が啓の原理であった。とすると、この啓原理は人間道徳に対してどのような効果を生み出すのか? これが第三章「ジュリエットあるいは啓道徳」のテーマになる。

とは理性による思考のことであり、理性というのは数学的思考のことでもある。理性社会人間を全て統計に還元し、自己保存という的に合わせて、対を感覚的なものから、自己保存という的に隷従する素材へと移し替える。その結果、啓理性が発展することによって、世界の全てが計算可素材となり、自然だけでなく人間まで機質で均等化された存在になる。そんな社会で、人間道徳とは一体どのような意味合いを持つのか?

取り扱われるのはカントサドニーチェの3人の道徳哲学である。カントの『啓とは何か?』、サドの『ジュリエットの物語、あるいは悪徳の栄え』とニーチェの『権意思』の著作から啓道徳について考察を進めていく。

カントは、理性的啓体である人間の転落、あるいは自己解体を恐れて、「お互いに相手を尊敬しあう義務」を科学理性法則から導きだそうとした。理性的思考が道徳を失うことを恐れ、理性の中から人間道徳法則カントめたのだ。しかしこれはあまりに夢物語が過ぎる。正直、微温い。アドルノとホルクハイマーも、「カント理論には何も足場がない」とか「カント的尊敬を行うような人間は、啓されておらず、むしろ神話側の愚者だ」と批判している。

これに対して啓の仮借なき終着を底的に追及したのが、マルキ・ド・サドドSサド!)の『ジュリエットの物語、あるいは悪徳の栄え』とニーチェの『権意思』論になる。

サドニーチェは作品を通じてカント道徳倫理についてしい批判を行う。カントは、人間は全てのと性向を理性の下に、つまり自己自身の内的自然欲望のこと)を支配下におき、感情によって支配されてはならないと説く。これを感動の義務と言う。しかしサド小説の登場人物ジュリエットは「カントのその理性的な考えは犯罪者が冷静な犯行計画をたて、良心の呵責を理性によってすることと何が違うの!?」と破する。内的自然欲望)を理性によって支配することや、感性を失った感動人間の徳というのなら、カントジュリエットは同じことをしていることになる。

科学を信条とするジュリエットにとっては、やら十戒、罪に対する救済など、その非合理性を崇拝することは身の毛もよだつほどに気持ち悪いことなのだ。苛な啓義者であるジュリエットは科学明できないものを信仰するキリスト教徒を嫌悪する。しかしその一方で、学問的明もないのに嫌われているものに価値を見いだすという価値転換もおこなっている。それが彼女独特の情熱であったのだ。

同じようにニーチェは価値の転倒として、弱者を代弁するキリスト教徒を批難する。その文章は非常に強だ。

弱い者やダメなやつは破滅すべきだ。それが々の人間の第一命題であり。そして人は、彼らが破滅するのに手を貸してやらなければいけない。ある種の悪徳ーあらゆる弱い者やダメなに同情をかけることーつまりキリスト教徒以上に有なものがまたとあろうか

ニーチェは強者とその残さを賞賛する。ニーチェは弱者が強者であることを不条理であるとした。自己保存を旨として社会が発展したというのなら、それは自然法則である。強者がその強権を用いて弱者を圧迫するときがこの世界のもっとも自然な形になるとニーチェは言う。同情は罪悪であり悪徳。自己保存と他者支配が優先される社会では、強者の道徳一になる。腕の弱い女は男に隷従し、劣悪民族であるユダヤ人はアーリア人に支配される。それこそが啓理性の行き着く先なのだ。

野蛮な自然状態(万人の万人に対する闘争!)から発展し、自然支配と文明化を進めた社会が、なぜか人間道徳は失われ残冷酷な弱肉強食世界になっていく。サドニーチェが言いたかったのは、ずばりこういう価値転倒だった。

第4章、文化産業-大衆欺瞞としての啓蒙

アドルノとホルクハイマーがアメリカ留学したときにみた映画ラジオなどの大衆文化は、もはやけ以外の何者でもなく、当てに作られたガラクタを美化するイデオロギーとして利用されていた。それらの大衆文化民の画一化に用いられ、抑圧者である資本が支配を高めるための具と堕していたのだ。こうして自発性とか個性といったものは社会から失われる。値段でしかその価値を計られず、消費者から多様性と想像性を損なわせる文化産業の中に、アドルノらは野蛮を見た。

文化産業というのはつまるところ娯楽なわけであるが、後期資本主義における娯楽とは、労働の延長に過ぎない。つまり、退屈できつい労働を回避しようとする人達が、そういう労働に耐えるために気らしのために娯楽をめるのだ。しかし、娯楽に耽るということは、厳しい現状に対する消極的な承認であり、ただ苦しみからを逸らして自分を愚化し、ただ現実逃避としているだけである。人々は娯楽産業によって躾られ、資本の側は大衆文化を通じて大衆を欺き、彼らをより操縦しやすくする。大衆は自分たちを奴隷化するイデオロギーにしがみ付かざるをえないのだ。

その結果行き着く先がファシズムなのだ。ラジオテレビ視聴者から料を徴収しないことで、中立であるという欺瞞を獲得する。故に大衆文化ファシズムにとって最高のツールになる。ラジオ総統(つまり権者)の演説を垂れ流し、そのカリスマあまねく喧伝する。テレビを通じて絶対化された言葉は、誘いを命に変換し、やがて「ユダヤ人を殺せ」というホロコーストへ繋がっていく。また、かつて自由競争の下、企業と消費者を結ぶ役割を果たしていた広告産業は巨大コンツェルン(財閥)と一体化し、支配者の権を守るものになる。この広告産業も、やがて全体主義スローガンを広めるのに使われていく。

第5章、反ユダヤ主義の諸要素-啓蒙の限界

ナチスによるユダヤ人は、アドルノとホルクハイマーが発見した究極の野蛮であった。ナチスユダヤ人を弾圧することによって民衆の采を得た。ユダヤ人を、ユダヤ民族とアーリア民族の二種族間の争いであると宣伝し、ナショナリズムを利用してこの戦争民族戦争であるとしたのだ。敵は、人間よりも低級な種族、野蛮な存在であると見なされ、民衆は内なる欲望(これこそが本当の自然、野蛮)を解放する快楽にふけり、野蛮な民族を打ち倒す自分たちこそが文明の擁護者であるとうぬぼれる。しかし反ユダヤ義は現状の不満へのはけ口として利用されただけで、民衆の実利は何もなかった。ユダヤ人から収した財産民に分配されることもなく、すべては支配者のの上であった。そしてそれは家族祖国や人類を救うためといった詭弁のイデオロギーによって鼓舞される。

なぜ理性を獲得したはずの近代市民社会ユダヤ人という野蛮行為に至ってしまったのか? ここにも本書を貫くテーマである「理性の果ての野蛮」が存在する。市民ユダヤ人に対する見解には二種類ある。1つは「ユダヤ人は敵性人種であり、彼らを滅ぼすことが人類の幸福である」という考え。2つは「ユダヤ人は今となっては宗教的な伝統や信条で結びつくだけのグループであり、民族的な集団ではない」という考えだ。しかしこれは両方とも真実であり、誤りでもある。前者の見解は誤った認識でありながらも、ナチスがそれを実行してしまったという意味では真実になってしまった。後者理念としては正しいと言える。しかし、それは暴力再生産されない社会においてのみなのである。

ユダヤ人は自分たちは民族ではないといいながら、それぞれの住むに適応することを避け、そのくせ社会から恩恵を受けることをめている。それぞれのに同化したユダヤ人ももちろんいるのだが、所詮、社会の調和なるものは民族共同体の調和であり、開かれているように見えても実際はユダヤのようなよそ者には排他的なものだ。それぞれのに同化したリベラルユダヤ人は「反ユダヤ義は社会の秩序をめる」と言うが、この社会の秩序そのものが、本来人間めることなしには存在しえないものなのだ。社会の秩序とはつまるところ暴力なのであり、ユダヤ人はその社会の秩序の本質が正体を表しただけに過ぎない。

市民ユダヤ人の中に自分の暗い部分を投影するのです。かつて労働は奴隷がするものであり、働くこと自体が賎しいものと見なされてた。それが商業義の時代になると、支配者が貴族から資本家に姿を変える。彼らは賃金労働者を支配する搾取者であるにも関わらず、「労働は恥ではない」と、自分を労働者の側に起きる。そして彼らはユダヤ人差して「やつらこそが搾取者だ」と言うのだ。融業者としてのユダヤ人は、全階級の経済的不正の責任を背負う悪人として、その憎悪を一身に受けることになってしまった。ブルジョワジーのユダヤ人に対する罵りや怒りは、本当の搾取者である自分の良心のやましさの反映であり、自己嫌悪の表れなのだ。

関連商品

参考文献

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 3
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

ありじゃむ (単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: がたろう
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

啓蒙の弁証法

1 ななしのよっしん
2022/06/22(水) 10:11:25 ID: 2tKaKxJF5g
日本語訳読んでるけど難解過ぎてワードサラダ読んでるみたい。
やたら読点多いせいで文章が気持ち悪い
👍
高評価
1
👎
低評価
0
2 ななしのよっしん
2022/07/25(月) 15:23:48 ID: o2EJrMgSif
これに限らず哲学書って内容そのものより文章や翻訳センスで十中八九読みやすさ決まっちゃうよなあって感じ。

で読んだこといからなんとも言えんけども、流石にもっと分かり易く翻訳出来たのでは?それとも哲学書の売り方の一つとして、わざと複雑な文章にして読者のスノビズムを満足させるってのもあるのか?
👍
高評価
2
👎
低評価
0
3 ななしのよっしん
2022/08/20(土) 13:19:06 ID: JZIDS7T1Gv
ちなみにアドルノはナチスに協したことが確認してるので、どの口で反ユダヤ義について言ってるのかと
名著とはされているがもう全に消費期限が切れている。それこそ批判検証ネタ以外には
👍
高評価
3
👎
低評価
0
4 ななしのよっしん
2023/08/19(土) 20:51:43 ID: MNCLkc8mVj
神話もまた啓だとすると、ここでの啓定義から、神話とは「世界呪術から解放し、神話を解体し、合理的知識によって想の権威を失墜させ、もって人間自然に対する支配者の位置につけ、人間の自己保存をめざすもの」とも言えるってことになる?「神話神話を解体する」とも言えてしまい違和感あるな。

とはいえこの本から啓定義を抽出できただけでもすごい。本来ならそれは著者の仕事であるはずだけど。
👍
高評価
0
👎
低評価
0
5 ななしのよっしん
2023/10/04(水) 17:46:54 ID: 7VWA85f7wp
何かみんなインフルエンサーになりたいんやなって感じ
どんなものでも価値を価値に変えることは簡単というか…

どの人が吐き出した情報が美味しいか調して解釈酵母を手に入れるスカベンジャーというか
情報化時代も行き過ぎると泥合戦のスカトロプレイと変わらんね
👍
高評価
0
👎
低評価
0
6 ななしのよっしん
2023/10/04(水) 19:10:09 ID: 15jf6TnG1/
一人一人があらゆる概念に対して真剣に考え続けることが出来なければ、プロパガンダなど大衆向けに調整された野蛮さに流される
支配者層は野蛮さを神話メディアを通じて、被支配者に垂れ流しているが、その野蛮さには自己矛盾も含まれる場合もある
結局のところ被支配者と支配者の対立構造との離別や
人間一人一人が自ら獲得した美徳や理性の下で日々の暮らしを送るようにならなければ野蛮さを出来ないのかな
もちろん理性は押し付けによって獲得したと勘違いさせられたものではなく、自らの中から生み出さなければならないでしょうが
👍
高評価
2
👎
低評価
0