- プロ野球選手一覧 > 山口和男
概要
OB | |
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山口和男 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 広島県広島市 |
生年月日 | 1974年5月11日 |
身長 体重 |
186cm 94kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1999年 ドラフト1位 |
引退 | 2009年 |
経歴 | |
選手歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
山陽高等学校に進学。3年夏には県大会ベスト4まで勝ち進んでいるが、甲子園大会出場歴は無し。
卒業後、広島電機大学に進学。一時野手としてプレーした時期もあったが、チームのエースとして活躍。ベストナインに2度選出され、4年秋にはリーグ制覇に貢献している。
大学卒業後、三菱自動車(岡崎)に入社。1999年の都市対抗野球大会に補強選手として出場し活躍した事で評価を高め、全日本代表にも選出された。
1999年ドラフト会議にて、オリックス・ブルーウェーブを逆指名し、1位指名を受け入団。即戦力投手として期待されての入団であった。同期入団には葛城育郎・迎祐一郎らがいた。
初年度の2000年、一軍では9試合に登板し、プロ初セーブを記録。ただ、一軍定着とまではいかず、二軍でも10敗を記録するなど、プロの壁の高さに苦しんだ。
2001年、リリーフ投手として一軍に定着し、32試合の登板で、5勝6敗2セーブ、防御率3.42とまずまずの成績を残した。
2002年、シーズン途中からセットアッパーを任されるなどブレイクを果たす。7月末の福岡ダイエーホークス戦では、当時のNPB最速記録となる158km/hを記録し、注目を集めたが、シーズン終盤に右肩を故障し戦線離脱。同年は41試合に登板して2勝3敗6セーブ、防御率2.50と好成績を残した。
2003年、手術を受け、リハビリに専念したため一軍登板無し。
2004年、肩の故障から復活。好不調こそ激しかったが抑え投手を任され、3勝3敗17セーブ、防御率3.80を記録。シーズンオフにはメジャーリーグ挑戦を志願したが、球団から慰留され残留を決断している。
2005年、制球難に苦しみ、大久保勝信に守護神の座を譲るなど不調に陥り、シーズンの大半を二軍で過ごした。
以降は低迷が続く。2006年は先発転向を試みたものの失敗に終わり、一軍登板は1試合のみ。2007年に至っては一軍登板無しに終わるなど、戦力外一歩手前という苦しいシーズンが続いた。
2008年、一時は勝ちパターンの投手として起用されるなど復調。交流戦では調子を落とし二軍降格を経験したが、一軍復帰後は中継ぎ投手として登板を重ね、32試合の登板で4勝3敗4セーブ、防御率3.53という成績を残した。
2009年、一軍登板無しに終わり、シーズン終了後に戦力外通告を受けた。その後、12球団合同トライアウトに参加したが、獲得オファーは届かず、そのまま現役を引退した。
引退後はオリックスに残りスカウトに転身。山本由伸を発掘したことで知られている。
人物・エピソード
MAX158km/hの力強い速球とフォークボールを武器に活躍した速球派リリーバー。一方で、やや制球面に難があり、自滅することも少なくなかった。
暗黒期真っ只中のオリックスにおいて、NPB最速を記録した山口の存在は数少ない明るい材料であり、メディアに取り上げられることも多かった。
名字が同じであり、オリックスの前身球団である阪急ブレーブスで速球派として鳴らした山口高志氏になぞらえて『山口2世』と呼ばれることもあった。
2009年の4月1日には、エイプリルフールネタとして自らのブログで引退を表明。ただ、ファンから球団に対して問い合わせが相次ぎ、球団職員が事実確認を行い厳重注意するというプチ炎上にまで発展してしまった。
通算成績
投手成績
通算:7年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 173 | 0 | 0 | 14 | 15 | 29 | 4 | .483 | 219.0 | 99 | 194 | 94 | 83 | 3.41 |
関連動画
関連項目
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