曹叡単語

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曹叡とは、三国志に登場する人物である。

の第二代皇帝(明)である。

概要

曹叡(※ ~ 239年) 字は元仲

生年については、204年説と206年説がある。曹丕甄氏の間に生まれた。

彼の出生のについては甄氏の記事を参考。

イケメン

書』明紀より、姿秀出(てんししゅうしゅつ)と呼ばれ、生まれつき美貌なことに加え、をほどけば立ったまま床につくほど長いことで有名であった。

因みに正史姿秀出という表現で容姿を称えられているのは曹叡と軍師として有名な張良子房の二人だけ。

鹿狩り

氏を寵愛していた曹丕は、彼女皇后にするため甄氏を亡き者にした。

ある日、曹丕と共に行った鹿狩りで、鹿を射殺した曹丕に対し、その鹿である甄氏に見立てた曹叡は小鹿を殺す事をためらいした。曹丕はすぐに狩りを止め、「この子はいずれ仁徳の王となるだろう」と曹叡を平原王に封じ、次代の皇帝に立てる決心をしたとされる。

226年5月曹丕の死後に位へ就いた。

軍事

位へ就き、司馬懿曹休陳羣を用いの発展へ尽を尽くす。

即位してすぐの頃は、馬謖の策によって司馬懿を一時的に失脚させてしまうが、諸葛亮の幾度にわたる北伐で再び司馬懿に軍権を戻し、軍を強固なものへとした。以後、曹叡は司馬懿を重用するようになり、司馬懿もそれに応え数々の戦や内乱を抑えつけた。

234年、の侵攻には、相手には配下の満寵へ合肥で迎え撃つよう詔を出し、相手には司馬懿へ守りを固める詔を出しそれぞれ防いだ。

238年にはの北部・東の公孫淵王と自称して乱を起こす。曹叡は司馬懿に鎮圧を命じ、孫氏を取り除いた。

孔明死去以降の怪行動

五丈原で諸葛亮すると、一安心してしまったのか、戦への興味くなり、宮殿の造営を繰り返し、反対する臣下を処罰した。色ボケも始まり、美女を集めたり、さらには妻である毛皇后を亡き者にするなど、の行為を繰り返した。

ただし、宮殿の造営は孔明の死以前から始まっている事から、農民たちに収入を与える公共事業という見方もある。

危篤に陥り、養子の曹芳(8歳)へ後を託し、司馬懿には彼の補佐を頼み、36歳という若さで亡くなった。

ここから司馬一族の物語が始まる……。

その他 

のように諌言したり、気に入らない臣下を処刑するような事はしなかったのは評価できる。

諸葛誕玄といった人物が、四聡八達とステマを行うことによって望を集めていた。曹叡はそれを忌み嫌い、彼らを全て罷免した。この時、臣下の毓に言った言葉が「画餅」である。

曹叡には何人かの子供がいたが、全て先立たれてしまっている。が亡くなった時、葬礼の度が過ぎていると諌言されたが強行したという事もあり、 子を亡くした絶望が何らかのを与えたともいえる。

各メディアの曹叡

コーエー三國志シリーズ

皇帝に恥じぬの高さ。それだけに通常シナリオでは寿命の短さが惜しまれる。

司馬懿甄氏らを何晏諸葛誕を嫌悪武将と設定されている。

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曹叡

109 ななしのよっしん
2022/06/19(日) 15:54:35 ID: wBLHZc0zC/
、つまり士大夫的な倫理観では
「土木建築で民を虐げるのは大罪」
戦争で民を虐げるのは大罪」
「君に徳があれば、権威など示さなくても民は言うことをきく」
「君に徳があれば、民もそれを見習うので犯罪など起きない」
「っていうか君に徳があれば万事うまくいく」
とされる。曹叡は基本これ全部フルコンプで侵してるので史書での評判は悪い。始皇帝とかもそう。

だけど公共建築事業も戦争も王権の示威も法治も、現代的な政治学からみれば、実際には全て王に必要とされる仕事だからね。

史書では「曹叡はこんな悪い君だった!だから悪いことが起きた!」とことさらに書きたていても、現代の分析を加えれば必ずしもそうではないってこと。
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110 ななしのよっしん
2022/06/20(月) 18:30:50 ID: EjxwtwegzH
王業に積極的ならその時代の民衆は苦しめて構わんというのが現代的な政治学の見解だと?
そんなラジカルな姿勢を良しとするなら近現代の危険な導者も軒並み評価されそうなもんだが本当かね
まあ政治学上の分析はともあれ曹叡の暴政も死後10年で司馬氏が実権を握した件もかった事にはできんな
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111 ななしのよっしん
2022/06/24(金) 13:43:55 ID: QO0LdU6qjH
土木事業そのものではなく、農繁期に財政傾くレベルでやってんのがアカンってそれ一番言われてるし、婚姻政策も負荷分散の方法が人身売買の横行ってアカンでしょ
士大夫的な倫理観に関しても名・建前だし、賈詡日食に乗じて免職させようとした動きを否定した曹丕を肯定的に書いてる時点で、徳だけを理由に評判が悪くなったという筋立ては理がある
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112 ななしのよっしん
2022/06/24(金) 20:41:39 ID: wBLHZc0zC/
>>110
苦しめても構わんとかじゃなくて、苦しんでいたことが誇されてるだろうってことよ。
そもそも現実的に言えば大なり小なり民が苦しまない統治なんかあり得ないわけで、結局のところ為政者は民をどのように苦しませるか、どこを苦しませるのがいいのかを選択せねばならない。
要するに「あちらを立てればこちらが立たず」が政治というものであって、もが納得してもが得をする政治施策なんかあり得ないよ。

>>111
「土木造営でを傾けた」ってのはその手のことに熱心な君批判テンプレだが、少なくとも事実として曹叡の代にが傾いたような具体的な形跡はない。積極的な外征も控えていたこともあるけど。
また人身売買々の件に関しても、(略出典のこの記事をまるまる信じたとしても)批判者の茂自身が「この結婚政策自体は時宜に会っていますが」と前置きしているように、的な政策だったわけでは決してない。

臣下の話をあまり聞かない(というか聞くけど受け入れない)、自分の考えを基本曲げない
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
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113 ななしのよっしん
2022/06/24(金) 21:25:54 ID: bCYag/GR47
まず中央にがなかったであろうことは公孫淵の討伐時に4万の兵を兵しようとして、議論した臣が戦費が賄いきれないとして諌めている。これは宮殿建設時期のこと。
しかし司馬懿の政策で関中は潤っていたので、そっちから戦費を捻出したとある。
また司馬懿河以北で内事外事に駆り出され困窮している。宮殿建設を停止し当面の危急を乗り越えるべきと進言している。

別の方面から何とか補填出来たってだけで、明らかを傾けている記述はきちんとある。
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114 ななしのよっしん
2022/07/03(日) 10:05:51 ID: wBLHZc0zC/
>>113
東征伐時の戦費負担もそうだが、結局のところ内で賄えている以上、それは限界よりも下のところで止まっていたということ。
ていうか「を傾ける」じゃなくて「を傾ける」と書くべきだったが、ともかくが破滅に至るほどの負荷はかけなかったということになる。

からへと農民が流出しているのを側が問題視していたのもこのころだし、負担が限界えると即起こる民間反乱の記録もほぼない。
曹叡が権威誇示のために民に負担をかけていたのは事実だが、それは(少なくとも彼の治世の間は)「限界の範囲内で」であったとみるべきと思う。

あと越智重明先生ではないけども、書の「曹叡クソ!宣やさしい!抱いて!」という諸々の記述はぶっちゃけ(ほかの史料で裏が取れるような箇所を除き)ほぼ疑ってかかった方がいいと思う。
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115 ななしのよっしん
2022/07/19(火) 04:43:26 ID: Xmb8XO91Xu
孫権マジで同タイプなのが

まぁ、曹丕よりは優秀だったと思う
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116 ななしのよっしん
2022/07/30(土) 11:17:41 ID: J/wCz4eX5J
それは絶対にない
曹丕曹叡を一人にまとめるとして、曹丕の性でまとめたら勝てないなりには続いただろうが曹叡の性でまとめたら史実の半分ももたない
内政×はそれだけ致命的
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117 ななしのよっしん
2022/08/10(水) 04:06:03 ID: Xmb8XO91Xu
ほんまか?

見方変えると三国志を終わらせる曹丕の夷陵後南征が曹操以下のクソすぎて、争ってた地方の逆賊どもがの息から吹き返したぬぐいをしたのが曹叡と言えなくもないわけだが
そもそも曹丕の内政、言うほどか…?
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118 ななしのよっしん
2022/11/10(木) 00:12:43 ID: 3W1Rr9ZLSR
曹操が死んだ途端、彼が溺愛して「三代目」とまで言していた曹叡を武徳侯に封建し、王宗から分離した曹丕。「あのクソ親父の頭越しに勝手に三代目とか抜かしてたコイツだけには、絶対にを継がせねぇ」という固い決意を感じる
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