- プロ野球選手一覧 > 本多逸郎
本多逸郎(ほんだ いつろう)とは、元プロ野球選手である。故人。
概要
OB | |
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本多逸郎 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県犬山市 |
生年月日 | 1931年5月3日 |
没年月日 | 2005年1月2日 |
身長 体重 |
165cm 58kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 左投左打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1950年 |
引退 | 1965年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
犬山高等学校に進学。エースで四番として活躍し、2年夏には県大会決勝まで勝ち進んだものの、決勝戦で瑞陵高等学校に大敗。在学3年間で甲子園大会出場は叶わなかった。
卒業後、1950年に中日ドラゴンズの入団テストを受け合格し入団。投手としての入団であった。
1952年までは投手としてプレーし、21試合に登板したが勝ち負けなしと目立った成績は残せなかった。
伸び悩む本多であったが、足の速さと左打ちという点に着目した天地俊一監督は外野手転向を命じた。外野手としてのプレー経験の無かった本多に対し、当時の二軍監督は1000本ノックを受けさせるなど徹底的に練習を積ませ、外野手として鍛え上げていった。
1953年、練習の成果が実り1番センターの座を掴むと、鍛え上げた外野守備と俊足を武器にチームの牽引役を努め、規定打席にも到達。打率.244、15盗塁、18打点の成績を残した。
1954年、セ・リーグ10位の打率.297、25打点、20盗塁という成績をマークし、チームの初優勝・初めての日本一に大きく貢献。日本シリーズでは2度のファインプレーを披露し、日本シリーズ最優秀技能賞にも選ばれた。
1955年には全試合(130試合)に出場し、42盗塁で初の個人タイトルとなる盗塁王のタイトルを獲得した。
以降も中日のセンターとして活躍を続けたが、コーチ兼任となった1961年は江藤慎一が外野手として起用される事が増えたため出場機会を減らす。同年、現役を引退。
1962年からはコーチ専任となったが同シーズン限りで中日を退団。
1964年、二軍コーチ兼任で現役復帰し19試合に出場。翌1965年は選手専任として復帰し24試合に出場。シーズン終了後に再び現役を引退。
引退後も中日に残り、コーチや二軍監督を努め、杉下茂監督が成績不振で休養した際には代理監督を努めた。この他、スカウトとしても活動し、木俣達彦や大島康徳らを担当した。
人物・エピソード
堅い守備と俊足を武器に活躍した外野手。肘を突っ張ったような打撃フォームは「ほうきで掃くような打法」と形容されている。
愛称は「パラさん」。練習をサボって地元犬山市で開催されていた犬山パラダイスというイベントに参加したことが由来である。
通算成績
打撃成績
通算:14年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 1053 | 3432 | 3178 | 339 | 766 | 15 | 201 | 170 | 50 | 11 | 184 | 9 | 257 | 22 | .241 | .284 |
投手成績
通算:3年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 22 | 0 | 0 | 0 | 0 | --- | --- | --- | 55.0 | 27 | 22 | 40 | 36 | 5.89 |
獲得タイトル・表彰
関連項目
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