本多逸郎単語

ホンダイツロウ
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本多逸郎(ほんだ いつろう)とは、元プロ野球選手である。故人。

概要

1931年5月3日生まれ。愛知県犬山市出身。

犬山高等学校に進学。エースで四番として活躍し、2年には県大会決勝まで勝ち進んだものの、決勝戦で瑞陵高等学校に大敗。在学3年間で甲子園大会出場はわなかった。

卒業後、1950年中日ドラゴンズの入団テストを受け合格し入団。投手としての入団であった。

1952年までは投手としてプレーし、21試合に登板したが勝ち負けなしと立った成績は残せなかった。

伸び悩む本多であったが、足の速さと左打ちという点に着した地俊一監督外野手転向を命じた。外野手としてのプレー経験のかった本多に対し、当時の二軍監督1000ノックを受けさせるなど底的に練習を積ませ、外野手として鍛え上げていった。

1953年練習の成果が実り1番センターの座を掴むと、鍛え上げた外野守備と俊足を武器チームの牽引役を努め、規定打席にも到達。打率.244、15盗塁、18打点の成績を残した。

1954年セ・リーグ10位の打率.297、25打点、20盗塁という成績をマークし、チームの初優勝・初めての日本一に大きく貢献。日本シリーズでは2度のファインプレーを披露し、日本シリーズ最優秀技賞にも選ばれた。

1955年には全試合(130試合)に出場し、42盗塁で初の個人タイトルとなる盗塁王タイトルを獲得した。

以降も中日センターとして活躍を続けたが、コーチ兼任となった1961年江藤慎一外野手として起用される事が増えたため出場機会を減らす。同年、現役を引退

1962年からはコーチ専任となったが同シーズン限りで中日を退団。

1964年二軍コーチ兼任で現役復帰し19試合に出場。翌1965年は選手専任として復帰し24試合に出場。シーズン終了後に再び現役を引退

引退後も中日に残り、コーチ二軍監督を努め、杉下茂監督が成績不振で休養した際には代理監督を努めた。この他、スカウトとしても活動し、木俣達彦大島康徳らを担当した。

2005年1月2日肝硬変のため死去。享年73歳。

人物・エピソード

堅い守備と俊足を武器に活躍した外野手。肘を突っったような打撃フォームは「ほうきで掃くような打法」と形容されている。

の深い顔立ちから女性人気も高かったようである。

称は「パラさん」。練習サボって地元犬で開催されていた犬山パラダイスというイベントに参加したことが由来である。

通算成績

打撃成績

通算:14年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 1053 3432 3178 339 766 15 201 170 50 11 184 9 257 22 .241 .284

投手成績

通算:3年 登板 完投 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率
NPB 22 0 0 0 0 --- --- --- 55.0 27 22 40 36 5.89

獲得タイトル・表彰

関連項目

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