水野勝成(みずの・かつなり 1564~1651)とは、三河の戦国武将、のち大名である。主に徳川家臣。備後福山藩主。
武将としても藩主としても、もっともっと評価されるべき人物。
概要
やや知名度は薄いものの、徳川家康の従兄弟であり、一時期は流浪の傭兵・六左衛門として名をはせ、鬼日向の異名を取る戦国屈指の暴れん坊、戦闘マシーン。
若い頃は相当ヤンチャしているが、後半生になると落ち着きを見せ始め、備中・備後にまたがる福山藩10万石の藩主として善政を敷くと共に、西国大名に対する監視役を務めあげた。大坂の陣でも大活躍し、島原の乱の鎮圧にも参加している。
徳川二十八神将のひとり。「名将言行録」曰く「倫魁不羈(りんかいふき:傑物である為に誰も縛る事は出来ない)」の人。
生涯
不良少年六左衛門
刈谷城主・水野忠重の子として誕生。忠重は徳川家康の生母・於大の方の兄弟なので、家康とは従兄弟の関係に当たる。
初めは徳川家臣の身として16歳の時、高天神城攻めで初陣。ところが翌年、父が織田信長にヘッドハンティングされたため織田家臣の身となる。
天正8年(1580年)の「第二次高天神城」の戦いでは、最後に玉砕覚悟で総出撃した岡部元信ら武田軍と大激戦となるが、早くも15の首を獲るなど鬼の片鱗を見せつける。これにはノッブもホックホクである。
信長が本能寺の変で横死した後、天正10年(1582年)に旧武田領を巡る「天正壬午の乱」が発生すると、一人で徳川家に戻ってこれに参加。家康の背後に回り込もうとしていた北条氏忠らの別動隊を、鳥居元忠らと共に撃退している(黒駒合戦)。この時、元忠に先に出陣の命令が出ている事を聞いた勝成は、ひとり鳥居軍の元へと駆けつけると
「ちょっとちょっと何やってんの鳥居さん。ウチの親父もアンタ信用して『息子の事を頼む』って言ってたのによォ。俺達は甲府の守り担当だろ? なんでアンタだけ出陣命令下ってる訳!? はぁー、抜け駆けとか見損なったわ。おい、これから存分に俺の実力見せてやるからな」(意訳)
……と勝手に鳥居軍の先陣に立って敵部隊に突入し、またも多くの首を獲ってみせた。
どうみてもDQNです本当にありがとうございました。
天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」では、織田信雄配下になっていた父・忠重と再会、水野軍の一員として戦う。が、ここでも相変わらず先陣に立ってヒャッハーしていた上、結膜炎にかかって目が痛いという理由で兜をかぶらず鉢巻一丁で戦っていた。
これを見た父に「お前兜かぶれよ、頭カチ割られても知らねえぞ。使わねえ兜なんて小便壷にでもしちまえ!!」(意訳)とまで言われるが、勝成は「”事故”る奴は、”不運”(ハードラック)と”踊”(ダンス)っちまったんだよ」(意訳)と言うなり即刻勝手に敵陣に突入。またまた一番首を獲って帰ってきた。忠重激おこである。
なおヒャッハーはヒャッハーを呼ぶのか、この戦で鬼武蔵こと森長可を討取ったのは水野家の足軽であった。
戦あるところに六左衛門
こうして親子仲が険悪になっていた事もあり、父の家臣が勝成の行動(多分またヤンチャしたのだろう)を報告したのでそいつを斬殺。これに遂にブチ切れた父によって勘当、奉公構(勝成を仕官させないでね!というお願い)まで出されてしまった。天正12年(1584年)、勝成21歳の話である。
仕方ないので西へ西へとフラフラしながら京都に到着するが、街中で大乱闘を起こすなど完全にDQNです本当にありがとうございました。
その後は仙石秀久配下で四国征伐に参加したり、佐々成政配下で肥後国人一揆鎮圧に参加したり、黒田官兵衛配下で豊前国人一揆鎮圧に参加したり、小西行長配下で天草五人衆の反乱鎮圧に参加したり………と、西国の戦にたびたび参加しては、やっぱり先陣を切って首を獲りまくっていた。
他にも加藤清正や立花宗茂といった面々に仕えた事もあり、その実力は知れ渡っていたようだが、どこに行っても長続きせず、天正18年(1590年)以降は完全に浪人生活を送っていたようだ。
自由人六左衛門
この頃の生活ははっきりしないが、備中の国人三村氏の生き残りである三村親成の元にいたようだ。
ここでお付きの娘に手を出して、後の嫡男・水野勝俊をもうける。のちのち福山藩主となった事もあって、この時期の備中を舞台とした本当か嘘か分からない伝説が色々と残っているが、まあこの勝成なので何をやってても不思議ではない。
そんな感じで自由に生きていた勝成であったが、慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなった事で、世間はにわかに騒がしくなってきた。
戦の匂いを敏感に感じ取ったのか、翌年、15年ぶりに徳川家に帰参する。
関ヶ原の戦い
家康のとりなしもあって、父・忠重ともようやく和解。上杉征伐のために家康に従い小山城へと向かうが、その最中に予想外の事態が起こってしまう。
父・忠重が西軍への寝返りを断ったために斬殺されてしまったのだ。せっかく仲直りしたのに……。
この為、急遽水野家の家督を継ぐことになり、先祖代々の三河刈谷の領主となった。勝成37歳の時である。
関ヶ原の戦いでは本戦には参加させてもらえず、大垣城攻撃を担当する事になった。
この時、九州にいた頃に知り合ったらしい秋月種長が西軍として大垣城に篭もっていたので、内通を持ちかけている。種長とその弟・高橋元種、そして相良長房と九州大名の皆さんがこれに同調し、将の首を手土産に寝返らせることに成功。この頃には突撃一辺倒ではない戦いもこなせるようになっていたようだ。大人になったな勝成……。
とは言えそこはやはり勝成、石田方の守将・福原長堯を捕らえた際には、愛用の短刀・正宗を分捕っている。ヒャッハー新鮮な正宗だァ!この戦により「大垣正宗」あるいは勝成が後に拝領する官位・日向守にちなんで「日向正宗」の号を与えられた短刀は、後に国宝指定を受けて現在では三井記念美術館に所蔵されている。
戦後、京都に駐屯していた際に斬首を受ける小西行長に対し、かつて仕えた縁ゆえか「敵対したとはいえ晒し者になるのは余りにしのびない」と編み笠を贈った。後の姿からも恩義を忘れない一本気な気質が表れている。
鬼日向の大坂
そのまま三河刈谷藩主となり、3万石を領する。
慶長6年(1601年)には従五位下・日向守に叙されるが……日向守といえば明智光秀。そんな訳で縁起が悪いと多くの武将に忌避されていた官位だった。が、勝成はそんなことは全く気にせず、以後「鬼日向」の異名を取ることになる。
大坂の陣の時には既に51~52歳。息子・勝俊も引き連れて、戦国最後の大戦に参上した。この頃、宮本武蔵を客将として迎え入れており、勝俊の護衛役につけている。
なお、昔の事をよーく知っている家康からは「先駆けすんなよ! お前も槍一本で戦ってた昔と違っていい歳の大将なんだから、絶対先鋒とか一番槍とかすんなよ!!」と前フリ念押しされている。まあ仕方ない。
そして「道明寺の戦い」において案の定、一番槍を挙げる。お前大将だろ!?
この激戦で豊臣方の後藤基次(黒田時代の同僚)や戦国のオレンジこと薄田兼相が討死している。
ただそうこうしている内に遅れていた豊臣方の後詰が到着(真田幸村(信繁)、毛利勝永、明石全登など)。さすがにこちらの疲労や弾薬の問題でこれ以上の戦いは無理か、と判断する徳川軍だったが、勝成はひとり「いや頑張れ頑張れできるできる!!もっとやれるって!そこで諦めんなよ!っていうか首獲りたいんだって!!」とお隣のDQN仲間伊達政宗に熱く主張するも、直々に断られている。
余談ながらこの道明寺の戦いでは「水野家の兵が伊達隊に殺害され、馬を奪われる」→「水野隊が伊達家の兵を待ち伏せして殺害、馬を取り返す」という仲睦まじい光景が見られた。一体みんな誰と戦っているんだ。
天王寺・岡山の戦いでも縦横無尽の大暴れを見せる。
幸村最後の突撃によって家康が生涯最大の大ピンチを迎えた際にも、DQN仲間松平忠直らと共に幸村隊を壊滅させ、更に続く明石全登との戦いではまた先陣に立って首を獲っている。ただし全登は水野家臣に討ち取られたとも、逃げおおせたとも言われており不明。
なおこの時、全登の猛攻に水野隊の一部が崩れ、後ろにいた伊達政宗に「こっちくんな」と一斉射撃されている(そして神保相茂さんが討死)。またお前か。
江戸時代~最期
そんなこんなでたっぷり大暴れした勝成は、大和郡山に移封となった。
知行は倍増の6万石だが、本人は「ええ……あんだけ働いたんだから2、30万石くらい良いだろ、ケチ」とか思っていたらしい。でも家康のお願い無視して先陣切りまくってたからね。仕方ないね。尤も秀忠からは抜群の武辺故に信頼されており(秀忠からしたら年が近い又叔父でもあるためか)後の福山移封に繋がる。
元和5年(1619年)に福島正則が難癖つけられて改易され、その旧領東部にあたる備後福山15万石に加増転封。以前世話になった三村親成を家老に迎えるなど漢を見せる(ただしこの時点では親成は既に亡くなっている筈なので、実際のところは子孫だろうか)。
以後は領地経営に全力を尽くし、現代にも続く特産品を振興、特にイ草(畳)の生産に力を入れている(後の備後表)若い頃にあちこち放浪した経験で、庶民の暮らしをよく理解していた事が功を奏したようだ。人間、何でも経験である。
他にもかつて過ごしていた経験から領内に居た旧三村・福島・宇喜多家に仕えていた浪人を召し抱えて適材適所で配したり、福利厚生を充実させ(藩士の私的旅行も届け出せば自由→有給バンザイ。当時からしたら異例も異例)やむを得ない理由で去る家臣にも推薦状を持たせて「コイツ、こんなにすげえからちゃんと面倒見てくれ」と送りだしたり、全国初の藩札発行(領内のみ流通可な紙幣。今で言えば地域振興券)、全国二番目の公的水道を整備、額面上15万石だった備後福山藩は実数30万石というチートっぷりを魅せた・・・何この完璧超人。
そうして名君と慕われる殿様になり、孫も生まれてすっかり落ち着いたと思われた勝成の元に一報が届く。時に寛永14年(1637年)、苛烈な悪政とキリシタン迫害に端を発した「島原の乱」である。
この乱の鎮圧は、当初総大将として幕府から派遣された板倉重昌(戦死後は松平信綱)を除くと、基本的に九州大名によって行われていた。
しかし唯一本州から派遣されたのが勝成だった。この時、勝成は御年75歳。総大将になった松平信綱の参謀長として(同じ立場に立花宗茂も参加。やべえよこのメンツ)本陣で相談役を担う。その為水野家の軍勢は子の勝俊に任せた……
子・勝俊に加えて孫・水野勝貞も連れての堂々の参陣であった。かつて九州を放浪し、小西家に仕えていた経験も買われたのだろう。
更に原城総攻撃においては、勝俊(当時41歳)が原城本丸への一番乗りを果たしている。やはり血は争えない。
寛永16年(1639年)、遂に隠居を決意。ただその後も政治にはかかわっていたようだ。
そして水野勝成は慶安4年(1651年)、88歳の長寿でこの世を去った。
若き日から槍を振り回し、馬を乗り回し、首を獲り人を斬りとヤンチャしていた男であるが、畳の上で安らかに最期を迎えた……。
ちなみに死の前年には鉄砲を撃って的に当てている。やっぱおかしいわこいつ。
関連動画
補足
やはりマイナーなのか、この暴れっぷりからは考えられない微妙すぎる能力が並ぶ。というか信長の野望では水野一族自体が勝成ひとりという時代が長く、不遇であった。
「創造」で水野一族が大増員、そして「戦国立志伝」では顔グラも一新され能力も全面的に見直し・強化された。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | |||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
天翔記 | 戦才 | 126(B) | 智才 | 66(B) | 政才 | 100(B) | 魅力 | 58 | 野望 | 46 | ||||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 66 | 智謀 | 45 | 政治 | 48 | 野望 | 59 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 67 | 知略 | 42 | 政治 | 56 | 教養 | 35 | ||||||||
革新 | 統率 | 67 | 武勇 | 72 | 知略 | 67 | 政治 | 32 | ||||||||
天道 | 統率 | 67 | 武勇 | 72 | 知略 | 57 | 政治 | 32 | ||||||||
創造 | 統率 | 39 | 武勇 | 67 | 知略 | 57 | 政治 | 40 | ||||||||
戦国立志伝 | 統率 | 78 | 武勇 | 81 | 知略 | 69 | 政治 | 64 | ||||||||
大志 | 統率 | 78 | 武勇 | 90 | 知略 | 76 | 内政 | 63 | 外政 | 67 |
関連項目
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