「甲斐親英」(かい・ちかひで 1540 ~ 1587)とは、南のチート坊主こと阿蘇家の柱石「甲斐宗運」の嫡男であり、戦国のアルピニスト佐々成政の肥後統治に反抗して戦死し、死後に手足の痛みを治す「足手荒神」となった武将。
概要
肥後阿蘇神社の大宮司を務める阿蘇家の重臣・甲斐宗運の嫡男に生まれる。
甲斐宗運には、
の4人の息子がいたが、甲斐親英の弟達は皆、日向の伊東氏に通じようとしたが父にばれて抹殺されてしまった。
甲斐親英も、そんな苛烈な父・甲斐宗運に反抗して排除しようとしたものの失敗し、家臣のとりなしによって命を永らえた。
父・甲斐宗運が死ぬと(息子を殺そうとした事を恨んだ甲斐親英の妻が孫娘を使って毒殺したとも)、幼君・阿蘇惟光の筆頭家老となった甲斐親英は、「俺は俺!親父とは違う!」と自己主張したかったのか、甲斐宗運が遺した
こちらから、島津に戦を仕掛けてはなりません。
我らは守りを固め守成に徹するのです。
やがて天下を統一する者が現れます。
それまで、持ちこたえるのです。
の訓を守らずに島津氏を攻撃し、逆襲を受けて甲佐城・堅志田城・御船城・隈庄城等を失った。
阿蘇惟光と島津義久の間で和平交渉が進む中、大友宗麟との連携を警戒された事から島津軍に捕らえられた甲斐親英は、八代に連行されて抑留された。
豊臣秀吉による九州征伐の後には、旧領を回復したものの、雪山強行登山の果てに秀吉に敗れて肥後の領主にされてしまった佐々成政の統治政策に反発し、菊池武国らと武装蜂起して肥後国人一揆を起こした。
隈本城を落城寸前までおいこんだものの、甲斐親英は秀吉が送り込んだ鎮圧軍に敗れ、手足に重傷を負って逃走した。
逃走先の村人により手厚く看護された甲斐親英は、長くない事を悟ると、村人への感謝の気持ちをこめて、
手足の守り神となろう
との遺言を残して逝った。
現在、甲斐親英は、甲斐宗運とともに甲斐神社に祀られ、祈願すると手足の痛みがとれると言われる事から「足手荒神」と呼ばれている。
※その他「甲斐親英」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
関連動画
▼阿蘇惟将の家臣の一人として登場する「阿蘇家の受難/阿蘇家の挑戦」
▼「阿蘇家の挑戦」の続編「阿蘇家の天道」にも数少ない阿蘇家臣としてスタートから登場
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | - | 智才 | - | 政才 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||
将星録 | 戦闘 | 57 | 智謀 | 38 | 政治 | 55 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世紀 | 采配 | 36 | 智謀 | 54 | 政治 | 44 | 野望 | 53 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 36 | 知略 | 54 | 政治 | 48 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 36 | 知略 | 54 | 政治 | 49 | 教養 | 57 | ||||||
革新 | 統率 | 51 | 武勇 | 41 | 知略 | 66 | 政治 | 55 | ||||||
天道 | 統率 | 51 | 武勇 | 41 | 知略 | 66 | 政治 | 55 | ||||||
創造 | 統率 | 48 | 武勇 | 50 | 知略 | 64 | 政治 | 55 |
関連項目 |
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