甲斐親英単語

カイチカヒデ
1.3千文字の記事
  • 2
  • 0pt
掲示板へ

「甲斐親英」(かい・ちかひで 1540 ~ 1587)とは、南のチート坊主ことの柱石「甲斐宗運」の嫡男であり、戦国アルピニスト佐々成政の肥後統治に反抗して戦死し、死後に手足の痛みを治す「足手荒」となった武将。

名は「甲斐秀」とも。

概要

肥後神社大宮を務めるの重臣・甲斐宗運の嫡男に生まれる。

甲斐宗運には、

の4人の息子がいたが、甲斐親英の達は皆、日向伊東氏に通じようとしたがにばれて殺されてしまった。

甲斐親英も、そんな苛甲斐宗運に反抗して排除しようとしたものの失敗し、臣のとりなしによって命を永らえた。

甲斐宗運が死ぬと(息子を殺そうとした事を恨んだ甲斐親英の妻が孫を使って殺したとも)、幼君・阿蘇惟光の筆頭家老となった甲斐親英は、「親父とは違う!」と自己したかったのか、甲斐宗運が遺した

こちらから、島津に戦を仕掛けてはなりません。
らは守りを固め守成にするのです。
やがて下を統一する者が現れます。
それまで、持ちこたえるのです。

の訓を守らずに島津氏を攻撃し、逆襲を受けて甲佐・堅志田・御等を失った。

阿蘇惟光島津義久の間で和交渉が進む中、大友宗麟との連携を警された事から島津軍に捕らえられた甲斐親英は、八代に連行されて抑留された。

豊臣秀吉による九州征伐の後には、旧領を回復したものの、山強行登山の果てに秀吉に敗れて肥後の領にされてしまった佐々成政の統治政策に反発し、菊池らと武装起して肥後人一を起こした。

を落寸前までおいこんだものの、甲斐親英は秀吉が送り込んだ鎮圧軍に敗れ、手足に重傷を負って逃走した。

逃走先の村人により手厚く看護された甲斐親英は、長くない事を悟ると、村人への感謝の気持ちをこめて、

手足の守りとなろう

との遺言を残して逝った。

現在、甲斐親英は、甲斐宗運とともに甲斐神社られ、祈願すると手足の痛みがとれると言われる事から「足手荒」と呼ばれている。

その他「甲斐親英」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。exit 

関連動画

阿蘇惟将臣の一人として登場する「の受難/の挑戦」


▼「の挑戦」の続編「」にも数少ない臣としてスタートから登場

補足

信長の野望」(PCシリーズにおける甲斐親英の力一覧。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 戦闘 智謀 政治 野望
天翔記 戦才 智才 政才 野望
将星 戦闘 57 智謀 38 政治 55
烈風 采配 戦闘 智謀 政治
世紀 采配 36 智謀 54 政治 44 野望 53
蒼天録 統率 36 知略 54 政治 48
下創世 統率 36 知略 54 政治 49 教養 57
革新 統率 51 武勇 41 知略 66 政治 55
統率 51 武勇 41 知略 66 政治 55
創造 統率 48 武勇 50 知略 64 政治 55

関連項目

関連コミュニティ


【スポンサーリンク】

  • 2
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

甲斐親英

1 ななしのよっしん
2023/09/10(日) 02:36:03 ID: zDBVfaZh0w
兄弟を殺されて自分も殺されそうになったらそりゃ遺言を守らんわ…
👍
高評価
0
👎
低評価
0