秋水(しゅうすい)とは、
である。本項では3について記載する。
概要
開発までの経緯
1943年秋、在ベルリン日本大使館付陸海軍武官たちは、ドイツ軍が開発中の新型ロケット戦闘機について逐一報告を受けていた。そして実験場のペーネミュンデからバート・ツビッシェン・ナーンに向かって飛行する「メッサーシュミットMe163コメート」を見て、強い衝撃が走った。既にアメリカ軍が超兵器B-29の開発に着手している事を察知していた帝國陸軍は、有効な迎撃手段になるかもしれないと興味を示した。
さっそく日独との間でMe163本体とHWK509Aロケットエンジンの製造権取得の交渉が始まったが、ドイツ側は日本の技術レベルでは手に余ると判断。連合軍に設計図を鹵獲される危険性も考慮し、一度は断った。1944年3月11日、第四次訪独艦・伊29潜が無事ロリアンに入港した事で製造権の取得が許可され、阿部海軍武官とドイツ航空省ミルヒ技術局長との間で協定が成立。訪独していた伊29潜で必要な資材を運ぶ事になった。しかし道中には連合軍が跳梁跋扈しており、加えて喜望峰周辺は一年中悪天候という過酷な旅路だった。そこで日独は伊29潜と呂501(元U-1224)の2隻を用意し、同じ資料を積載。どちらか片方でも日本本土に辿り着く事を期待した。
1944年3月30日、吉原春夫海軍中佐を乗せた呂501がキール軍港を出港。日本を目指したが、途上の5月16日に大西洋上で米駆逐艦のヘッジホッグ攻撃を受けて消息を絶った。4月16日、巌屋英一海軍技術中佐を乗せた後続の伊29潜がロリアン軍港を出港。こちらは敵中突破に成功し、喜望峰を抜けて7月14日に中継地シンガポールへ到着した。休息を経て日本本土を目指したものの、台湾南端で待ち伏せていた米潜水艦ソーフィッシュの雷撃によって沈没。資材や資料は海底に沈み、完全に失われた。
Me163の輸入は頓挫したかに思えた。しかしシンガポール寄港の際、巌屋中佐がごく一部の資料を持ち出しており、空路で羽田に帰着した。このため資料の完全な喪失は避けられた。……のだが、それはMe163B型ロケット戦闘機の機体及びエンジンの取扱い説明書20ページ、ロケット推進薬の化学的組成の説明書20ページ、巌屋中佐のメッサーシュミット社での報告書という開発には殆ど役に立たない資料ばかりだった。常識的に考えれば、これだけの資料でロケット戦闘機を国産化するのは絶望的だった。だが逼迫する戦局が断念を許さなかった。限定的とはいえ、既に6月15日からB-29の本土爆撃が始まっており、有効的な対抗手段を持たない日本陸海軍は未知の新兵器に頼らざるを得なかったのだ。
陸軍はキ-200、海軍はJ8Mの仮称をそれぞれ与えた。正式名称は試製秋水。
運用法
ロケットエンジンの強大な推進力を使って、高度1万mまで三分半で上昇。時速600~800キロでB-29に接近すると、両翼に装備した30mm機銃で攻撃。上昇に燃料を使い切ってしまうので、攻撃後はグライダーのように滑空して帰投する。敵機に追随する護衛戦闘機の対処は不明。航続距離も大変短いので、B-29の進路上に待ち伏せるのが主任務となる。ちなみに一回の飛行に2トンもの航空燃料が必要で、戦争末期の日本に大量運用が出来たとは思いがたい。
開発開始
1944年7月20日、海軍航空技術廠で和田操廠長主催の部内合同研究会が開かれ、巌屋中佐の説明のもと開発の可否が審議された。資料の少なさから反対意見が多く、戦局の悪化から潜水艦での追加輸送も出来ないという有様だったが、迫り来るB-29の脅威に対抗するにはロケット戦闘機に賭けてみるしかないという考えに至り、陸海軍の統一計画として総力を挙げる事になった。8月7日からは開発担当の三菱重工代表者3名が会議に参加し、そこで試作機が発注される事になった。設計図が少なすぎるので三菱側は一度「開発不能」として断ったが、海軍の航空技術廠が必要なデータを算出したため何とか承諾に至った。
仲が悪い陸海軍にしては珍しく協力体制を取っており、機体は海軍主導で三菱重工名古屋航空機製作所に、エンジンは陸軍主導で三菱重工名古屋発動機研究所に依頼。燃料関係は第一燃料廠と民間の化学工場が担当し、8月1日より開発がスタートした。納期は極限にまで切り詰められ、機体設計の期日は10月15日、エンジンは10月末までに2基完成させるという超ハードスケジュールだった。ロケット戦闘機という未知の分野だけに、これまでに培ってきた技術や経験は全く役に立たなかった。関係者は不眠不休で日夜頑張り続け、製作所に仮眠室を設けて現場で寝泊まりした。乏しい食料事情の中でも強壮剤とバターが支給された。
9月8日に第一回木型審査に入り、10月9日に最初の木型模型が完成。そこから改造や改修を繰り返し、陸海軍の共同審査を受けて11月初旬に機体設計を完了。設計図らしい設計図は一枚も無かったにも関わらず、わずか20ページの説明書だけで形にした。ロケットエンジンを担当するグループは試作機こそ機体設計より早かったが、実物の完成は難航。九州大学工学部の権威葛西二郎氏に助力を仰いでどうにか完成が見えてきた。陸軍側のエンジンは「特呂二」、海軍側のエンジンは「KR-10」と呼称された。
ロケット燃料を貯蔵するための陶器製造令が下され、各市町村が製造に当たった。貯蔵用のパイプや容器は「ロ号兵器」と呼ばれていた。常滑市は陶器作りが盛んだったため、燃料に余計な反応を与えないよう特製の常滑焼が作られた。市内には大量に作られたロ号兵器の容器や残骸が現存している。
秋水の燃料は水化ヒドロジンと過酸化水素だったが、前者は人体をも溶かす危険物で、後者は爆発の危険を伴うものだった。このため工員は真夏の密閉された工場内ですら、長袖長ズボンを強いられた。しかも当時の日本では30%濃度の過酸化水素しか作られておらず、80%濃度の製造は初めてだった。生産及び濃縮作業には女学生が動員されたが、体調不良を理由に欠勤しだす者が続出。不審に思った監督官が事情を聞いてみると、「金髪になるのが嫌」と涙ながらに訴えた。これは空気中に漏れた過酸化水素が髪を脱色させ、栗色にしてしまっていたのだ。金髪の子かわいそう。
設計がひと段落した12月9日正午頃、東海地方に大きな地震が襲った。いわゆる東海大地震である。これにより名古屋市の航空機製造所は大きなダメージを受けてしまう。幸い図面は厳重に保管されていたため喪失は避けられたが、ガスの途絶や工員の住宅が焼ける等して試作や実験に大きな遅延が発生。ようやく被害から立ち直った12月16日、名古屋への大規模空襲が発生。名古屋の軍需工場を標的にしており、執拗な爆撃で大損害が発生。エンジン開発担当の工員264名が死亡し、事実上機能を喪失。生き残った工員は横須賀の追浜へ疎開する事になり、そこで開発が続行された。完成した機体の方も追浜基地へ疎開している。1944年末には秋水の運用を見越して第312航空隊が開隊。実機が無いので、無尾翼のグライダー「秋草」(MXY8)を作って訓練を実施した。名刀と機体名から秋水部隊と呼ばれていた。
1945年1月19日、ついに燃焼実験に成功。日本史上初のロケットエンジンが誕生した。しかし実用化まではまだまだ課題があり、故障や不具合が頻発した。海軍の空技廠、第一燃料廠、陸軍の第二及び第四技術研究所、三菱重工名古屋発動機製作所と長崎兵器製作所、九州大学工学部が総出で問題解決に当たった。ところが4月には入ると、遂に横須賀も空襲を受けるようになった。エンジン担当グループは長野県松本飛行場へ疎開。機体は完成していたのに、肝心のエンジンが中々完成しなかったのだ。実戦部隊は配備の遅れに焦燥していたが、精神論で尻を引っ叩く事は無かった。技術者の苦労は誰もが知っていたからだ。4月22日、強引に初飛行を行おうとしたが、当日エンジンの実験中に爆発事故が発生し中止。原因の究明に日時を費やす羽目になった。B-29の空襲は激化する一方で、海軍は神奈川県山北に実験場を移した。不断の努力の結果、6月12日に三分間の実験に成功。同時期に陸軍が開発していたエンジンも完成し、やっと機体への装着が可能になった。6月下旬に一技廠に送られ、装着作業が行われた。テストを行う飛行場は厚木に指定されたが、もしもの時は不時着水が出来るとして追浜飛行場に変更された。テストパイロットには第312航空隊の犬塚豊彦大尉が選出された。
初飛行
7月7日は快晴だった。海軍の試作一号機が飛行場に引き出され、準備が進められた。新機軸のエンジンだから慎重に、という事で燃料は三分の一に抑えられた。肝心のロケットエンジンが中々点火せず、予定時刻を大幅に遅れた17時までずれ込んだ。やっとの思いで稼動状態にし、ついに飛行許可が出た。ロケットエンジンに点火され、緑色の炎を引きながら秋水は猛然と滑走。11秒後、320mを走ったところで離陸。45度の急角度で上昇を始めた。日本の空に、初めてロケットが飛んだ瞬間だった。関係者は一斉に歓声を上げ、努力が結実した事を確信した。
高度400mに差し掛かった頃、突然「パーン」の音とともにエンジンが停止。炎が黒煙になり、地上の関係者も異変に気が付いた。犬塚大尉は二度エンジンを再起動させたが、失敗。余力で500mまで上昇した後、機体は水平になって滑空。非常時は不時着水も認められていたが、貴重なテスト機を失いたくない犬塚大尉は何とか飛行場に着陸させようとした。しかし沈降速度が予想より早く、施設の屋根に右翼が接触。飛行場の西端に不時着大破してしまった。ただちに待機していた消防車が出動し、炎上する機体を消火。中から犬塚大尉を引っ張り出した。救出された犬塚大尉は頭蓋骨骨折の重傷で、意識も朦朧としていた。防空壕に作られた病室へ搬送されたが、「振動も無く、操縦性も良く、いい飛行機だ。一日も早く戦争に使えるように……」という言葉を遺し、翌8日午前2時頃に絶命した。
合同原因調査会議が開かれ、原因の究明が行われた。結果、燃料タンクの欠陥が原因だと判明。タンクを作った三菱に責任を押し付ける雰囲気が広がったが、責任者の柴田大佐が「全責任は自分にある」と擁護。彼の謝罪を以って閉会となった。その後、柴田大佐は三菱スタッフの仕事場を訪れ、貴重なパイナップルの缶詰めと煙草を贈って労った。
一方、海軍の試作機が事故を起こした事は、試作二号機を有する陸軍にショックを与えた。それでも飛行テストに向けて準備を続けた。エンジンの方は改修が繰り返されたが、7月15日に燃料ポンプの爆発事故で整備分隊長の正田大尉が殉職。最後までエンジンの不安要素を取り除けないまま、8月15日の終戦を迎えてしまった。戦後、秋水の資料は軒並み破棄され、残余の機体も地中に埋められる等の憂き目に遭っている。
陸軍の計画では、1946年3月までに3600機を量産するという壮大なものになっていた。柏飛行場を秋水の基地にし、B-29迎撃の拠点に充てる予定だった。終戦時には5機が完成、10機が完成寸前の状態だったが、肝心なエンジンは2基しかなかった。日本初のロケット戦闘機は散々な出来だったが、伊29潜から持ち帰った僅かな資料だけで造り上げた技術者の努力は特筆すべきものである。
現存機
戦後、3機がアメリカ軍に接収され、研究材料になった。このうちの1機がブレーンズ・オブ・フェイム航空博物館に完全な形で展示された。1961年、日本飛行機杉田工場の拡張工事中に地中から秋水の胴体が発見され、1963年2月より航空自衛隊岐阜基地に展示。1997年11月からは三菱に譲渡され、設計図を集めて復元。現在は名古屋航空宇宙システム製作所史料室にて再展示されている。
関連項目
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