辻恭彦単語

ツジヤスヒコ
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辻恭彦(つじ やすひこ)とは、元プロ野球選手である。

概要

1942年6月18日生まれ。愛知県名古屋市出身。小学5年生頃から本格的に野球を始め、中学3年生時捕手としてプレーするようになる。

享栄商業高等学校に進学。3年時には夏の甲子園大会に出場を果たしたが、甲子園大会では初戦で敗退している。

卒業後、西濃運輸に就職。に5~6番打者を任され、1962年には都市対抗野球大会にも出場している。

1962年阪神タイガースへ入団。

入団当初はキャンプ村山実のキレのある投球を全く捕球できずに「もうええわ、こっちが怖いわ」と言われ、小山正明の投球は制球が高かったため捕球こそ出来たもののいい音を出せず「ヘタクソ」呼ばわりされるなど、プロめられる技術の高さに苦戦。入団から5年ほどは控え捕手としてプレーし、試合出場は負けゲームでの代打がほとんどで、ブルペンで投球を受けることのほうがメインの役割であった。それでも1965年には二軍打点王タイトルを獲得している。

1968年辻佳紀の不調もあり、出場機会を大きく増やし、86試合に出場。打率.254、7本塁打、29打点マーク江夏豊バッテリーを組むことが多く、江夏シーズン401奪三振の大記録達成にも貢献した。

1969年1970年は同ポジション田淵幸一が入団したこともあり、正捕手定着とはいかなかったが、1971年病気を患った田淵を埋め全試合に出場。打率こそ.193と低打率だったが、自己最多の8本塁打記録した。

1972年からは田淵捕手として復帰したため再び控えに回ったが、1973年8月30日中日ドラゴンズ戦で江夏バッテリーを組み、延長戦ノーヒットノーランを達成している。

1975年大洋ホエールズに移籍していた元同僚の辻佳紀とのトレードで大洋へ移籍。

大洋では経験を活かし伊藤勲福嶋久晃に次ぐ3番手捕手として長く活躍。若手投手育成や、平松政次引退前にもう一咲かせるのに一役買った。

1982年若菜嘉晴が加入したことで出場機会が減。1984年、42歳となった同シーズンは一軍出場6試合に終わり、現役を引退

引退後は古巣の横浜大洋横浜阪神バッテリーコーチや育成コーチを務め、波留敏夫万永貴司多村仁志福盛和男相川亮二といった選手を育てた他、木戸克彦鈴木尚典らのイップスをさせている。

横浜退団後は解説者評論家として活動する一方で、WIEN BASEBALL CLUB横浜球友クラブ際総合伊勢原クラブ明治学院大学監督コーチを務めた他、四国アイランドリーグで巡回コーチを務めた。

現在野球評論家として活動し、週刊ベースボールにて「ダンキャッチャーはつらいよ」というコラムを長期間に渡り連載していた。

人物・エピソード

インサイドワークの巧みさとタフさを売りに阪神大洋ホームを守った捕手。そのリード江夏豊遠藤一彦ら名投手からも高く評価されていた。

データ野球がまだ根付いていない頃から相手選手のデータ分析や、を見抜くための研究を欠かさなかったという。

阪神時代、同じ姓のでポジションも同じ捕手辻佳紀が在籍していたため、区別するために「ダン」の称で呼ばれるようになった。ダンプの由来は、運送会社出身であり、丈夫で怪に強くずぐりとした体であったためである。

引退後に整体師の資格を取得。整体師の講師も務めているが、整体院を開業したことはない。

通算成績

打撃成績

通算:22年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 974 2269 1998 142 418 44 163 8 52 6 193 20 353 59 .209 .285

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