金田正泰単語

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金田正泰(かねだ まさやす)とは、元プロ野球選手監督である。故人。

概要

1920年7月21日生まれ。日本統治下の朝鮮で生まれ、京都府京都市で育ったといわれている。

小学6年生時に球拾いしていたところを安中学校監督に筋が良いと見い出され、特待生として安中学へ進学。安中時代は春の甲子園大会に4度出場した。

卒業後は教師になるのため早稲田大学への進学を志望したが、計のことを考え断念。甲子園での活躍からプロ野球5球団から入団の誘いがあり、「どうせなら厳しいを選んだほうが成長できる」と、条件のあまり良くなかった阪神軍に入団を決めた。

入団2年1943年から外野のレギュラーに定着し、この年は78試合に出場。

戦時中は勤労動員され、阪神電鉄尼崎庫で勤務していた。

1946年に復帰。この年当時の日本記録更新する157安打を放ち、打率.347マークし、首位打者最多安打タイトルを獲得した。

シーズンオフには今の給料では家族を養えないと電撃退団し、問屋を経営。事業は軌に乗り始めていたと言われているが、兼任監督となった若林忠志の説得で野球絵の情熱が再燃し1947年開幕前に復帰。シーズンでは、2番打者としてリーグ最高の出塁率.421マークし強ダイナマイト打線の一として活躍。ベストナインタイトルも獲得した。

1949年打率.302に加え、初の二桁本塁打となる10本塁打マーク4月南海戦ではサイクルヒット記録している。

1951年には打率.322に加え、18本の三塁打記録し2度ベストナインを獲得。この18三塁打2022年現在でも破られていないNPB記録である。

1953年打率.327に加えキャリアハイとなる出塁率.433(セ・リーグ1位)を記録した。

だが、1956年シーズンオフ藤村富美男排斥事件の中心人物となり退団。その後、金田の謝罪と妥協もあり再度契約を結び直し排斥事件は解決。しかし、若手の大津の台頭もあり出場機会は減、結局1957年限りで現役引退

引退後は阪神監督に二度就任(1960年-1961年1972年途中-1974年[1]

1974年監督を退任した後は球界から離れ、麻雀店とステーキ店を経営していたという。

1992年12月5日急性心不全のため死亡享年72歳。

人物・エピソード

川上哲治にも絶賛された天才的なバットコントロール安打を量産し、ダイナマイト打線の上位打線として活躍した。俊足の選手でもあり、1シーズン18三塁打NPB記録シーズン最多三塁打も4度マークしている。

金田正一の速球を頭部に受け倒れた際も、耳から血が流れているにも関わらず直ぐにプレーを再開したという逸話がある。ただ、その直後に「太陽がぐるぐる回っとる…」と言って倒れている。

に衣着せぬ発言や口の悪さから周囲と対立することも多く、選手時代には藤村富美男排斥事件の中心人物となり、2度の監督生活も選手らとの衝突が絶えなかった。一方で名の新人であった掛布雅之を辛抱強く起用し、後の飛躍のきっかけを与えている。

通算成績

打撃成績

通算:15年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 1479 6225 5354 881 1527 55 568 187 62 6 764 38 457 22 .285 .378

監督成績

通算:5年 試合 勝利 敗戦 引分 勝率
NPB 551 267 259 25 .508 Aクラス3回、Bクラス2回

獲得タイトル・記録

関連項目

脚注

  1. *1962年から1971年解説者を務めていた。

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