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関口清治(せきぐち せいじ)とは、元プロ野球選手である。故人。

概要

192510月9日生まれ。当時日本統治下であった台湾台北市出身。

台北工業学校に進学後、1942年には戦時中の開催ということもあり公式記録には残らないものの文部省催の甲子園大会(通称「幻の甲子園」)に出場している。卒業後は日本大学に進学するするつもりだったが、制権を奪われていたため断念。

卒業後、台湾の兵役に進み、兵役後は社会人野球の全武生、信州化学を経て、1948年読売ジャイアンツへ入団。

だが、巨人では右肩の負傷のもあり11試合の出場にとどまり1年のみで退団。

退団後、三原脩監督紹介もあり社会人野球の強チームである星野組に入社。同チームでは西本幸雄氏が監督を努めており、エースとして荒巻淳が所属していた。1949年都市対抗野球大会では4番打者として活躍し、チーム優勝に導いた。

1950年監督西本エース荒巻とともに新設された毎日オリオンズに入団しようと試みたが、巨人制限選手となっていたため入団できず、巨人からは「復帰するならセ・リーグチームで」と言われ、西日本パイレーツに入団。

西日本は選手層が薄かったためすぐにレフトレギュラーとなり、打率.252、18本塁打、73打点記録した。

1951年からは西日本西鉄クリッパースが合併して誕生した西鉄ライオンズに所属。西鉄では不動の5番打者として活躍。

1954年には打率.276、27本塁打、87打点記録し、チーム優勝に貢献。ベストナインにも選出された。

1956年にはリーグ最多の13三塁打記録優勝に貢献すると、日本シリーズでは当時最多の4本塁打を放ち、打率も.381と打ちまくり、西鉄初の日本一にも大きく貢献した。

1958年打率.276、16本塁打、77打点マークし、2度ベストナインに選出された。

この年以降打撃は低迷。1962年阪急ブレーブスへ移籍。

1963年飯田徳治とともに大正生まれ最後の現役選手となったが[1]、結局この年限りで現役を引退

引退後は阪急ブレーブスや古巣の西鉄近鉄バファローズで長らく打撃コーチを務めた。

1982年には西本幸雄の後を受け近鉄監督に就任し、大石大二郎ら若手を積極的に起用した。

近鉄退団後は野球解説者として活動。

2007年6月9日、慢性閉塞疾患のため死去。享年81歳。

人物・エピソード

長身を生かしたパワフルな打撃と持ち前の勝負強さで、西鉄黄金時代の5番打者として活躍したクラッチヒッター。

若手の頃はカーブを大の苦手としていたが、西鉄時代にはカーブ打ちの名人と呼ばれるまでにしていた。後輩豊田泰光からカーブ打ちの極意を聞かれた際には「銭もってこい」と突き放しているが、本人く偶然コツを掴んだもので言葉で説明できないためだったとのこと。

監督としては「伸び伸び野球」をモットーに掲げ、若手を積極的に起用。滅多なことで怒らない温厚な性格として知られ、からも好かれていた。

通算成績

打撃成績

通算:15年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 1532 5392 4916 606 1298 166 731 73 49 26 383 18 800 120 .264 .320

監督成績

通算:2年 試合 勝利 敗戦 引分 勝率
NPB 260 115 122 23 .485 Aクラス1回、Bクラス1回

獲得タイトル

関連項目

脚注

  1. *実際には関根潤三大正生まれだが、戸籍上は昭和生まれとなっている。

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