「飯田直景」(いいだ・なおかげ 1562 ~ 1632)とは、本多忠勝らと共に日本槍柱七本に数えられる加藤清正の家臣・加藤家三傑の一人であり、土木技術に定評のある戦国時代の一級建築士。
諱の飯田直景よりも通称の「飯田覚兵衛」(いいだ・かくべえ)の方が有名。
加藤家三傑 |
飯田直景(飯田覚兵衛) |
森本一久(森本儀太夫) |
庄林一心(庄林隼人) |
概要
従兄弟の佐々成政に従って佐々成政が羽柴秀吉に敗れた後肥後の国人一揆の責任を負って自害して佐々家が改易された後とも、加藤清正と幼馴染で最初かた仕えていたとも言われるがとにかく加藤清正の重臣として森本一久(森本儀太夫)・庄林一心(庄林隼人)らと共に加藤清正に仕えた。
豊臣秀吉より日本槍柱七本の一人に数えられる程の槍の達人で、加藤清正に従って得意の槍による武勇を誇り、賤ヶ岳の戦いでは加藤清正の先陣を勤めて活躍し、朝鮮の役に参加した際は、亀甲車と呼ばれる装甲車を開発して普州城攻防戦で活躍し、関ヶ原の戦いでも加藤清正に従って九州各地で戦った。
武官としての功績以外に土木技術にも定評があり、特に城普請においては一級建築士の腕前を披露し、加藤清正が関ヶ原の戦いの後に所領とした肥後に入って熊本城を建設する際の普請では180メートルにも及ぶ石垣をつくりあげる等して今も「飯田丸」としてその名を残しており、その後は、名古屋城や江戸城の普請にも奉行として参加している。
加藤清正が、豊臣秀頼と徳川家康との対面にて豊臣秀頼に付き従った後に突然の体調不良で没し、子の加藤忠広が後を継ぐと、飯田直景も加藤忠広に仕えたが、加藤正方と加藤正次による対立等から肥後加藤家が改易となった後は、京都に隠棲した。
清正にだまされた?
私は一生、加藤清正にだまされた。
と言っていた。
しかし「だまされた」内容と言うのは、
初陣で功をあげたとき、朋輩の多くは鉄砲に撃たれ死んでしまったのでもう武士はやめようと思ったが、帰るやいなや、加藤清正より武勲を褒められて刀を賜った。
このように毎回その場を去っては後悔したのだが、加藤清正はいつもすぐに私に陣羽織や感状を与えるので人々はうらやましがり、褒めたてたりもした。
やむを得ずいつまでも采配をふるって士大将といわれたのは、こうやって加藤清正にだまされたもので本意ではなかった。
と言ったものである。
まったく仲良しさん達だなぁ君らは。
※その他「飯田直景」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
関連動画
▼豊臣家再興の為に肥後で挙兵した加藤清正に従って城普請から戦場まで駆ける「豊臣家の盛衰」
▼「信長の野望革新PK」地方別武将ランキング近畿編に築城[S]の適正優秀者として登場。さすが一級建築士。
補足
「信長の野望」(PC)シリーズにおける飯田直景(飯田覚兵衛)の能力一覧。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 158(A) | 智才 | 124(B) | 政才 | 110(B) | 魅力 | 66 | 野望 | 53 | ||||
将星録 | 戦闘 | 76 | 智謀 | 62 | 政治 | 28 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天下創世 | 統率 | 66 | 知略 | 41 | 政治 | 54 | 教養 | 34 | ||||||
革新 | 統率 | 57 | 武勇 | 76 | 知略 | 52 | 政治 | 54 | ||||||
天道 | 統率 | 57 | 武勇 | 76 | 知略 | 52 | 政治 | 48 | ||||||
創造 | 統率 | 44 | 武勇 | 71 | 知略 | 53 | 政治 | 49 |
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