人呼んで、気まぐれジョージ。
勝つと思えばあっさり負ける。ダメかと思えば強く勝つ。
その日の走りは、気分まかせ、風まかせ。
人を裏切るほどにジョージの人気は高まった。
昭和51年春、天皇賞。
天才福永洋一の手綱に応える雨中の大逃げ。
あれよ、あれよという間に3,200メートルを逃げ切った。
狂気の沙汰の勝ちっぷり。
走りたいから走ったまでよ、そんな風情のエリモのジョージ。
憎くて、愛しいヤツだった。
エリモジョージとは、1972年生まれの日本の元競走馬である。
勝利時は圧勝、敗北時は惨敗という極端な成績から「気まぐれジョージ」「気分屋」などの愛称で親しまれた。
主な勝ち鞍
1975年:シンザン記念
1976年:天皇賞(春)(八大競走)、函館記念、京都記念(秋)
1978年:京都記念(春)、鳴尾記念、宝塚記念
概要
父セントクレスピン、母パッシングミドリという血統。
セントクレスピンはイギリス産馬で現役時代は6戦4勝、勝ち鞍に凱旋門賞があるがこのときの凱旋門賞では1着同着だったのがライバルの進路妨害による降着があり単独優勝となった経緯がある。
引退後は日本に種牡馬として輸入されたが輸入時になんと勃起不全という種牡馬としては致命的な欠陥があることが発覚。関係者が頭を悩ませる中たまたま北海道に来ていた矢野調教師がセントクレスピンに治療を施すと勃起不全が解消し、交配が可能になったエピソードがある。(矢野師はこれらの経験から調教師引退後は馬の整体師として活躍した)
母パッシングミドリは現役時は14戦4勝の成績だったが、日本で一大牝系として名を馳せたビューチフルドリーマーの血を引いている。
しかし、気性面はすこぶる悪くこの問題をしっかり引き継いだエリモジョージのその後に多大な影響を及ぼす事となった。
後にナリタブライアンなどを手掛けることになる大久保正陽厩舎に入厩。なお、この頃の大久保正陽は調教師転身翌年に急死した父の厩舎を引き継いだばかりであった。
1974年夏の函館でデビューを迎え2戦目で勝ち上がると3戦目は強気に重賞に出走するも惨敗。
4戦目の条件戦を圧勝すると西の2歳馬チャンピオン決定戦阪神3歳ステークスに出走、8番人気と人気はなかったものの僅差の3着に食い込んだ、このとき初めて同馬に騎乗したのが福永洋一で今後ジョージと洋一は多くの苦楽を共にすることになる。
年が明けた3歳の初戦はシンザン記念、1番人気に支持されたエリモジョージは馬場の外目を通って快勝、洋一にとって1975年の初勝利はこのシンザン記念だった(エリモジョージが1番人気で勝利したのはこれが最後である)
3歳早々重賞を制したことからクラシック有力…と思われたが続く2戦を惨敗、9番人気に人気を落として皐月賞出走するも「狂気の逃げ馬」カブラヤオーの前には歯が立たず3着、NHK杯を惨敗し4番人気で日本ダービーを迎えるが破滅的なペースで逃げ続けるカブラヤオーの前に成す術なく12着に敗れた。
その後ダート戦だった札幌記念に出走するもここも惨敗、えりも農場で休養に入ったがここで思わぬ災難に見舞われる、8月になんと原因不明の出火により厩舎が全焼、合計17頭もの馬が焼死するというアクシデントが起きたのだ。
生き残ったのはエリモジョージ含めて僅か2頭、しかし自身も負傷したことにより3歳シーズンは休養となった。
4歳となり復帰、勝利を挙げることはできなかったが大阪杯と鳴尾記念連続3着と調子は上向いた状態で春の天皇賞を迎えた、この年の春の天皇賞は昨年菊花賞馬コクサイプリンス、昨年有馬記念馬イシノアラシ、GI級レースの勝利はないものの6連勝と勢いに乗ったロングホークと4歳馬3頭による三つ巴と思われた。
一方エリモジョージは同期の人気馬から大きく後れをとる12番人気、まあシンザン記念以降1年以上も勝利がなかった上に、重馬場実績が皆無となれば人気低迷は当然である。洋一と大久保師はレース直前道中は中団待機が理想だが馬が行きたがる素振りを見せたらハナを切ってもいいという作戦に至ったという。
迎えたレース本番、好スタートを切るとかかる様子を見た洋一はすかさずハナを切った、そのままペースを落とし主導権を握ると逃げ切り態勢に入った、後方の人気馬達は不良馬場でスタミナを消耗し伸びず、唯一三つ巴の中では最も人気がなかった(それでも3番人気だが)ロングホークが迫ってくるもそのロングホークも最後100mで力尽き見事天皇賞を逃げ切ったのである。
思わぬ穴馬の激走にどよめく場内、実況していた杉本清アナもゴール時は「エ゙リ゙モ゙ジ゙ョ゙ー゙ジ゙!」と
謎めいた実況をしている、後に杉本は人気馬中心で実況していたのが裏目に出たと語っている。
ともあれ見事天皇賞馬となった同馬だったがしばらく苦戦が続く、宝塚記念含めて3連敗、やはり天皇賞はまぐれか…と思われたが3連敗後の函館記念では9頭中8番人気、しかも斤量60キロにも関わらず2着を7馬身ちぎってレコード勝ちし天皇賞馬の貫録を見せたのである。
このパフォーマンスに2着以下の騎手の殆どが勝馬が強すぎると脱帽したという。
が直後の京都大賞典では惨敗、強いのか弱いのかよくわからん馬である、続く京都記念では斤量61キロと函館記念に続き酷量だったがレース序盤からハナを切るとあとは一人旅、2着以下に8馬身差つけて当時の芝2400mでは破格ともいえる2分25秒8という従来のレコードを0.8秒も縮める日本レコードで圧勝したのである。しかしこのパフォーマンスを出しながら洋一曰く「本調子じゃなかった」というのだから本当にわけがわからない。(ちなみにこの日本レコードは第1回ジャパンカップまで5年以上破られることはなかった)
その後クモハタ記念4着を挟んだあと大一番有馬記念に参戦、相手にはあのTTトウショウボーイとテンポイントという当時3歳にして後の日本競馬に名を残す名馬と初対決になったが当時の有馬記念は古馬優勢の風潮もあってトウショウボーイとテンポイントの間の2番人気に支持される。最後の直線を先頭で迎えるもトウショウボーイに交わされるとその後テンポイントなどにも力なく交わされ6着、4歳シーズンを終えた。
5歳になった同馬は上半期の最大目標を宝塚記念とするも連敗続き、さらに調教中埒に誤って激突してしまい負傷、宝塚記念も回避となる。復帰戦こそは勝利するものの5歳時は負傷の影響もあって復帰戦の1勝にとどまった。
迎えた6歳、日経新春杯でテンポイントの悲劇を目の当たりにすると続く京都記念を4馬身差で圧勝、鳴尾記念では斤量62キロながら天皇賞馬ホクトボーイを相手に大差で逃げ切り、自身最高といってもいいパフォーマンスを見せた。余談だが彼が「気分屋」や「気まぐれ」と親しまれ始めたのはこのころである。
そして昨年は出走すら叶わなかった宝塚記念、最大のライバルは意外にもこれが初対戦となったTTGの生き残りグリーングラス。鞍上は洋一の同期である岡部幸雄で、この年から主戦に抜擢された岡部とのコンビで前走の春の天皇賞を制している。1番人気こそグリーングラスに譲ったもののレースではやはり序盤から先頭で主導権を握るとそのままグリーングラス以下を寄せ付けず4馬身差の圧勝、グリーングラス陣営に「エリモジョージがここまで強いとは思わなかった」と言わしめたのだった。
これで京都記念、鳴尾記念、宝塚記念と全て圧勝での3連勝、これには洋一曰く「馬が完成した、いまはどの馬にも負ける気がしない」陣営も「もう気まぐれとは呼ばせない」と話すほどだった。
こうしてTTがターフを去った後の競馬界主役になるのかと思われた…
宝塚記念後に出走した高松宮杯、陣営は「状態は宝塚記念のときより良い」と自信を見せ、単勝支持率は55%超、相手は3連勝中にコテンパンに負かしたホクトボーイや実績では大きく劣る新興勢力ばかり、誰もがエリモジョージの圧勝で重賞4連勝を疑わなかった。
しかし迎えたレースではハナを切らず控えるも3コーナーで失速していくエリモジョージの姿が、まさかの殿負けの大惨敗でレースを終えた。
その後も走り続けたが勝利はもちろん馬券内にも絡めない惨敗が続いた、主戦だった洋一もエリモジョージ7歳時の3月に落馬事故に遭い、ついに騎手としてターフに帰ってくることはなった。洋一が背から去った後も3戦したが全て惨敗で終わり、引退となった。結局彼は最後まで気まぐれだったのである。
引退後は種牡馬となったものの、母譲りの気性難を引き継いだ産駒が多く大成しなかった、強いて言うならタマモクロスとオグリキャップの初対決となった1988年の天皇賞(秋)に条件馬ながら格上挑戦で出走したパリスベンベが代表産駒といったところだろう。
1987年に種牡馬を引退し余生を送っていたが2001年4月10日、29歳の大往生を遂げた。
自身が最高の勲章を手にした天皇賞から25年後の春のことだった。
稀代の癖馬
人気を背負うと惨敗、人気薄だと史上最強馬と言われてもおかしくないパフォーマンスで圧勝する気まぐれっぷりは多くのファンから親しまれた。現に1番人気で勝利したのは2戦目と初重賞制覇となったシンザン記念だけであり、それ以外は全て馬券外の惨敗である。
気まぐれっぷりは生涯戦績にも表れており、44戦して[10-1-4-30]と2着に至ってはデビュー戦だけである上に、3着こそ4回あるものの4歳時の鳴尾記念が最後の3着である。そのため天皇賞を制して以降は勝利か馬券外に惨敗(一着以外での掲示板確保は、テンポイントが悲劇に見舞われた日本経済新春杯を含む5回の4着だけである)という非常に極端な成績だった。
長らく同馬の主戦騎手を務め騎手としての全盛期を迎えつつあった福永洋一も、この馬に関しては「よくわからん、走るときが分かるなら事前に教えてほしい」とお手上げだった。「栗東所属の馬のデータはすべて網羅している」と豪語した福永にこの様な泣き言じみた事を言わせただけあってか、エリモジョージは福永以外の騎手で重賞勝利を果たしていない(福永以外の勝利は、新馬と条件戦の2勝の松田幸春と平場オープン1勝の池添兼雄だけ)。さらに、「60キロ以上の斤量や重馬場などの不利な条件下だからと言って負ける訳では無い(逆境で燃えないとは言っていない)」と言うひねくれた部分も、福永に「わからん」と言わしめた一因ともなっている(実際、今で言うG-1レース勝利は不良(天皇賞)・重(宝塚記念)条件下でのレースで、二度のレコード勝利は共に斤量60キロ以上での記録であった)。
近い世代にカブトシロー、少し後にダイタクヘリオス、近年ではゴールドシップなど愛される癖馬たちはたくさんいるが、これらの馬たちもクセの強さでエリモジョージに勝る馬はいないのではないかと筆者は思う。
血統表
*セントクレスピン 1956 栗毛 |
Aureole 1950 栗毛 |
Hyperion | Gainsborough |
Selene | |||
Angelola | Donatello | ||
Feola | |||
Neocrasy 1944 黒鹿毛 |
Nearco | Pharos | |
Nogara | |||
Harina | Blandford | ||
Athasi | |||
パッシングミドリ 1966 鹿毛 FNo.12 |
*ワラビー 1955 黒鹿毛 |
Fast Fox | Fastnet |
Foxcraft | |||
Wagging Tail | Tourbillon | ||
Foxtail | |||
グローリアス 1948 鹿毛 |
*セフト | Tetratema | |
Voleuse | |||
雪義 | *トウルヌソル | ||
種義 | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Gainsborough 4×5(9.38%)、Pharos 4×5(9.38%)、Foxhunter 5×5(6.25%)
関連動画
関連項目
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