テルシオとは、16世紀にスペイン王国が編み出した防御的な軍隊の編成方法である。
カラコールなどとセットで語られることが多い。本稿ではテルシオ派生のオランダ式とスウェーデン式は簡略化する。
概要
テルシオは大量の長槍兵と、マスケット銃兵によって編成された。その本質は移動要塞のような動く巨大な方陣であり、機動的に動いて敵を殲滅するような陣形ではなかった。無論、これは時代が下るに連れて編成自体も変わっていくが、根本部分は変わることなく衰退していった。
テルシオに求められたのは長槍兵の圧倒的な防御力であったが、これを支えたのは後述する『常備軍化』と、それがもたらす高い練度と士気だ。これらは当時の軍隊が陣形の削り合いであり、士気の崩し合いだったため、この要素が高ければ高いほど、当時の軍隊としては優れていたのだ(それはもちろん現代でも当てはまる部分ではあるが)。
当時の軍隊として高い練度と士気を持ち、圧倒的な防御能力を以って削り合いを制していったテルシオは、多くの模倣を生み、最終的には近代的なオランダ式、スウェーデン式の軍事編成の前に敗れていった。
テルシオの産声
テルシオが生まれる以前のスペイン軍の編成について述べる。テルシオが生まれる以前のスペイン軍は、軽装で身軽な軽騎兵(ヒネーテ)と、円形の盾を装備した剣士(ロデレロ)にて編成された。イベリア半島は山がちな地形も多く、平原での大規模な野戦よりも、山岳戦や攻城戦が多かったためである。これらの戦いでは投擲物から身を守る必要があり、盾は重要なツールであった。しかしこの編成に変革をもたらしたのは、レコンキスタではなくイタリア戦争だった。
イタリア戦争は身内(?)のアラゴン王国の継承権を理由にしゃしゃり出て出兵した戦争であったが、完全武装の重騎兵と、圧倒的な防御力を誇る長槍兵の前に大惨敗を喫した戦争である。当然ながら何百キロもの金属の塊が時速数十キロで突っ込んでくる事態は想定していなかっただろうし、していたとしても円形の盾を持った歩兵部隊が耐えることはなかっただろう。さらに防御面を忘れたとしても、盾を持った剣士が何十何百の槍の壁に肉弾攻撃を仕掛けても、これまた勝つことはなかっただろう。
そんなこんなで辛酸を舐めたスペイン軍は、大きな軍制改革に乗り出していく。
生み出された軍事編成は、テルシオである。
陣形と編成
実際の話、模倣といえば模倣だった。
まず剣士から長槍兵(パイクマン)が主力となった。無数の槍の壁により、重騎兵はおいそれと歩兵の隊列に突っ込むことができなくなった。次に長槍兵を援護したのが、当時最新兵器だったマスケット銃だ。銃火器は徐々に性能を上げており、歩兵の武器としての地位を担えるようにはなっていた(連射性能はない、信頼性に難ありなど問題はある)。そこで長槍兵の周りに配置し、援護にあたった。次に軍隊としての柔軟性も改良し、1部隊に配置される士官の数を大幅に増やしていった(これは現代の軍隊では顕著であるし、次に登場するスウェーデン式やオランダ式でも顕著になる)。
これらの改良は実を結び、以前敗北を喫したフランス軍相手に、パヴィアの戦いでは大勝利を収めることとなる。この時のフランス軍はご自慢のガチムチ重騎兵を動員していたし、フランソワ1世も武闘派がお好みだったようだが、今度は銃兵とパイクマンの編成が勝利の凱歌を挙げた結果になった(後述するが、フランス軍が騎兵に重きを置くのはフランス式の新テルシオの時も変わらず)。
改良型の登場
テルシオも、いつまでも最強の座にはいられなかった。優れた戦術は模倣され改良されるように、オランダにてテルシオの弱点を改良した新編成が生まれた。それがオランダ式だった。
テルシオはその絶対的な防御力と、当時の戦い方がそもそも消耗戦や削り合いだったことから優れた戦術として君臨できた。しかしその反面、部隊全体としての機動力はなかったし、そのようなことは想定していなかった。そこでオランダ式では2つの点に改良を加えた。
まず機動力については部隊の大きさを小さくすることで解決した。テルシオに求められたのは防御力だったが、オランダ式が生まれる頃には、さほど病的な防御能力への懸念は無くなっており、部隊の小型化は問題無いと判断された。次に銃兵の比重を向上させた。長槍兵が防御力の源泉であったが、今度は攻撃力が求められたため銃兵が増えていったわけだ。
これらの改革は、オランダのマウリッツ・オラニエ公により行われていった。彼は軍隊の編成を変更しただけではなく、軍事訓練においても高い功績を残している。軍事訓練自体は、剣が主力だった頃から無かったわけではないが、彼はその軍事訓練をより洗練された緻密なモノへと変貌させた。その結果、軍隊が今までならず者のたまり場だったものを、複数の個がまるで生きた1つの個として躍動するかのようなものへと進化させた。そしてこれが軍隊に今まで低レベルで存在していた『集合体』としての意識を高め、士気と部隊としての堅牢さを植えつけた。
本稿にとっては余談になるが、オランダ式はこの後に起こるオランダの独立戦争にて、その原動力となった。オランダが晴れて独立した背景には、この緻密で洗練されたオランダ式抜きには語れない。
テルシオよ、ふたたび
テルシオには強力な対抗馬が生まれたが、全く進化しなかったわけではなかった。というよりまた真似た。
小型化し機動力が向上したオランダ式同様、部隊のサイズを縮小し、銃兵の比率を向上させた。今まで左から右へと長く伸びていた長槍兵の横隊はなくなり、代わりに中央に長槍兵が陣取り、両翼に銃兵が陣取った。これはオランダ式をより改良したスウェーデン式の影響を受けていると思われる。
しかしながらテルシオに再び陽が差すことはなかった。
まずテルシオ消滅と時期を同じくしているのは、長槍兵の廃止であった。長槍兵はテルシオに完全無敵の防御力を与えはしたが、部隊にそれほどの防御力を必要としなくなっていった。さらには前述のとおり、戦いの形式が長槍兵の削り合いから、鉛球の嵐をぶつけあう戦いに変異したのも影響している。テルシオも進化を続け、長槍兵と銃兵の比率は段々と狭まり、最終的には50:50になった。致命的に鈍重だった陣形は部隊の小型化と士官の大量配備により強化され、初期テルシオほど問題にはならなくなっていった。
だがこれらの進化を遂げた新生テルシオの前に立ちはだかったのは、より高機動で攻撃的なオランダ式、スウェーデン式だった。オランダ式はより柔軟に機動出来たし、スウェーデン式はより攻撃的になった。さらに致命的だったのはパヴィアの戦いで葬ったフランス軍が、今度はテルシオを元に新編成した軍隊で挑んできたことだった。彼らはテルシオを真似はしたものの、お家芸である騎兵をより重視した編成で挑んできた。
そして1643年5月19日、新生テルシオ2万7千を擁するスペイン軍は、2万3千のフランス軍の前に1万5千も大損害を蒙り、敗れ去ることとなった。これはテルシオが、すでに過去の遺物であることを証明したのだった。
テルシオのその後
18世紀、時の国王であるフェリペ5世は布告を行う。スペイン王国陸軍はテルシオを廃止し、連隊制をを採用した。これはテルシオが持っていた硬直性や機動性が解消されることを意味していていたが、同時にテルシオが完全に否定された瞬間とも言える。
テルシオは編成された当時は、たしかに間違いなく最強の陣形だっただろう。当時の戦いは相手の消耗とこちらの消耗の我慢比べだったし、機動戦でもなかった。常備軍化は、今風に言えば契約社員だけど長期雇用、違うのは正社員と呼ばれるか契約社員と呼ばれるかの違いだよというものだった。だからこそ契約社員主体という前時代と変わらないにも関わらず、他の契約社員を圧倒できた。これは長期雇用が彼らに士気と練度を与えたからだ。
その代わりにスペインが払った代償は軽くはなかった。
常備軍は幾度もの国家破産を招いていた。スペインは新大陸の金銀財宝が、これでもかというほど流れこんだかもしれないが、それでも彼らを雇用し続けるのには無理があった。
こうして軍隊はその後、傭兵から市民へ、国民軍へと変貌を遂げていく。
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