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ラリー・レインズLawrence Glenn Hope "Larry" Raines(ローレンスグレンホープレインズ)とは、アメリカ合衆国出身の元プロ野球選手である。

概要

1930年3月9日生まれ。アメリカ合衆国ウェストバージニア州出身。

シカゴ高等学校卒業後、メジャーリーグではなくニグロリーグプレーしていた。23歳となる1953年阪急ブレーブスに入団。

初年度は開幕から20試合連続安打を達成するなどチームリードオフマンとして活躍し、オールスターゲームにも出場。全試合(120試合)に出場し、打率.286、8本塁打、49打点、61盗塁記録し、盗塁王タイトルを獲得。また、16三塁打現在でもパ・リーグ記録となっている。

1954年、開幕からしばらくは1番打者としてプレーしていたが、シーズン途中から3・4番打者を任されるなどクリーンナップとして活躍し、オールスターゲームにも2年連続で出場。最終的にはパ・リーグ最多の184安打を放ち、打率.337、18本塁打、96打点、45盗塁の成績を残し、打点こそ山内和弘の97打点に次ぐ2位だったが、首位打者タイトルを獲得、ベストナインにも選出された。

この活躍で自信を得たレインズはメジャーリーグ挑戦を決意し、1954年限りで阪急を退団。

1955年クリーブランド・インディアンス契約マイナーリーグで結果を残し、1957年メジャーデビュー。同年は96試合に出場し、打率.262、16打点、5盗塁記録。ただ、翌1958年は7試合の出場の出場に留まった。

その後阪急球団にレインズの代理人から「以前よりパワーアップしている」と紹介状が届き、1962年、再び阪急契約を結ぶ。

代理人からの紹介や前回来日時の活躍もあり期待されたがプレーにキレがなく、73試合の出場で打率.252、5本塁打、27打点、8盗塁と精を欠き、同年限りで自由契約

実は成績不振だけが解雇理由ではなく、再来日前に離婚訴訟を起こされ、慰謝料を球団が肩代わりしていたのだが、これ以外にも多額の借があることが発覚。更に代理人からの紹介状や入団手続きの書類がレインズによる偽造であるという事実も発覚したため、というのが解雇相であった。

阪急退団後、消息不明となっていた。

1978年1月28日、死去。享年47歳。

人物・エピソード

走攻守三拍子い、スピード感のあるプレーから「い稲妻」「ハヤブサ」などと呼ばれた助っ人外国人選手。

日系人選手や日本統治下の台湾出身選手以外の外籍選手でNPB盗塁王を獲得したのは、レインズとロベルト・バルボンの二人のみである。

初来日時には練習や試合に取り組んでいたが、2度の来日時にはからを飲むなど不さが立ち、関係者をガッカリとさせていたようである。

成績

通算打撃成績

通算:5年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
MLB:2年 103 275 253 40 64 2 16 5 2 0 19 1 45 3 .253 .308
NPB:3年 330 1381 1267 209 383 31 172 114 16 6 84 8 159 22 .302 .348

タイトル・表彰・記録

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