ルドヴィコ・ザメンホフ単語

ルドヴィコザメンホフ
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ルドヴィコ・ザメンホフとは、人工言語エスペラント開発者である。

※以下の記事は面さを重視するために長文となっています。
概略のみ知りたい方はWikipediaへどうぞ。

※また以下の内容は筆者から見ても左的(反民族義、理想etc)な内容を非常に多く含んでいます。ご了承ください。

出身地と名前

ユダヤポーランド人の言語学者。本業は眼科医。
ルドヴィコ・ラザロ・ザメンホフとはエスペラント名前である。

ロシア語名はリュードヴィク・ラーザリ・ザミンゴーフ(彼の住んでいたポーランドは当時、実質ロシア領)。家族からはリュードヴィク(ルドヴィク)の称である“ルテック”と呼ばれた。

ペンネームDoktoro Esperanto(ドクトーロ・エスペラントエスペラント博士)。
以下は便宜上、この人物をルドヴィクもしくはザメンホフと称す。

生い立ち

生年日は1859年12月15日。中等学校外国語教師であるポーランド人のマルクス・ザメンホフと同じくポーランド人のロザリア・ザメンホフの長男としてロシア領(旧リトアニア大公)ビャウィストクの町に生まれた。

マルクスは大多数を占めるキリスト教徒から迫されていたアシュケナジム東欧ユダヤ人)の系に生まれながらも外国語の才に秀で14歳でワルシャ古典学校卒業ドイツ語ラテン語ギリシャ語など数多くの言を身に着け、ユダヤ人困難とされていた中等学校教師まで上り詰めた実者である。

マルクス自身は五人の子供たちに対してユダヤ人の話すイディッシュドイツ語方言)よりも、ロシア語ポーランド語を教えた。そのため息子のルドヴィクのロシア語である。

19世紀のポーランド

ルドヴィクは14歳までをビャウィストクの町で育った。
その後、の転勤によりワルシャワへ移り生涯の大半をここで過ごす。

当時のポーランドロシア領であった。もともとこの土地にはポーランド王国という王があった。
しかしながらロシア帝国などに分割占領され、そしてそれ以後、ワルシャワ周辺部長らくロシアポーランドであった。

ロシア統治下のポーランドでは的な場(学校、役所など)でポーランド語は禁止。ロシア語が話された。
仮に的な場所でポーランド語で話す、ましてや教育を行うなどすると厳罰に処された。
当時のポーランド出身の化学者・物理学者のマリア・スクウォドフスカ=キュリー(キュリー夫人)は以下のように述べている。

学校で、先生が私たちに内密にポーランド語で授業をやっていたが、ロシアの視察官の足音が聞こえたので私たちは慌ててポーランド語で書かれた教科書を隠し、代わりにロシア語教科書を取り出した。
ロシア視察官が入ってきて、教科書などを確認した後、生徒の一人にロシア語で質問した。
「今上の皇帝、及びその敬称は?」「ロシア皇帝アレクサンド2世陛下です」
エカチェリーナ2世以降の皇帝名前は?」「エカチェリーナ2世パーヴェル1世…」

ルドヴィク自身も少年時代からポーランド歴史などを教えてもらった。
またユダヤ人に対する言われもない理由での暴動ポグロムexit)に数度、遭遇したために“暴力ではない解決法”を考えるようになった。

少年期

ザメンホフはビャウィストクユダヤ人ゲットーに住んでいた頃から人々が共通して話せる簡単な言の可性を模索していた。

この当時のポーランド住民は移民が多く、話される言ロシア語ポーランド語、イディッシュドイツ語の四言であり、それぞれの言を話す人たちが宗教民族などの問題も含め対立しあうという複雑な状況の中にあった。そのため言の違う人による中の暴力沙汰は日常茶飯事であった。

ルドヴィク自身はユダヤ人であるということ以外ではからロシア語以外にもポーランド語やイディッシュドイツ語と多くの言を教えられたためそこまで言葉には苦労しなかった。

しかしユダヤ人であった彼には旧約聖書に書かれた、「バベルの塔」の物語が心に引っかかっていた。

そのバベルの塔あらすじは以下のとおりである。

大昔、人間たちが協天国へも達する高いを立てようとした。
その天国を脅かしかねないとして、はそのことに激怒した。
その罰として人間の言を分けて人間同士の心を引き裂き、世界中の人間を民族、言葉ごとに人々を隔ててしまった。

旧約聖書バベルの塔」概略

男爵閣下の奮闘

ザメンホフ一家はルドヴィクが14歳の頃、の転勤によりワルシャワに引っ越した。
ルドヴィクはワルシャワ第二古典中等学校に転入してくる。

この頃のルドヴィクは他の生徒とは一線を引きドイツ語フランス語、イディッシュポーランド語に至るまで数多くの言を習得した。その優秀さから、友達からは男爵閣下名された。

この10代の頃から彼は本格的にのついて独自で開発をし始める。
彼は当初、ラテン語世界中の人々で話される言となると考えていたが実際、学んでみると文法の変化が難しく、友人たちからは「みんな頭を抱えている。大学生ですら落第点スレスレなのに、この言をするなんて自分勝手だね」などと言われる始末だった。

彼はここでラテン語案を却下し、自分の手で作るしかないと考え始める。そのためにはどうすればいいのか長らく彼は悩んでいた。しかし、ある時、その問題を解決する救世主たる言が現れた。それこそが「英語」である。

英語との出会い

彼は古典学校英語と出会い、英語を学んだ。
ここで英語にはロシア語などと違い語尾変化や格変化もなく、文法が非常に簡素にできていることに関心した。

文法が複雑なのは偶然だ、複雑な文法なんかくても言葉は通用する。

しかし、ルドヴィクはこういうにも考えた。
「待てよ…英語の場合過去形は大体、規則的に-edで終わる。
だけどgoの場合はwentだ。何故だろう。いっそのことgoedにしたら分かりやすいのに…」

そしてそんなことを考えながらワルシャを歩いていると、ひらめきを思いついた。これがエスペラント運命を大きく左右することになる。

「そうか、接尾詞だ!こんな簡単な事に何故気づかなかったんだ!別々の単を覚えなくても接尾詞を使って品詞を区別すればいいし過去形現在形など動詞の変化も自分で規則的にすればいい。そして名詞を作るにしてもこれなら簡素化できて覚えやすい!」

彼がどのように単製作をしたのかはエスペラントの記事を参考に。

大学生時代

試行錯誤を重ね、1878年12月(19歳)にエスペラントの著書「リングヴェ・ウニヴェルサーラ」がほぼ完成した。
しかしながら「今これを発表すれば、(ロシア政府から)危険人物扱いされるかもしれない」とから忠告され、結果的に大学卒業まで発表を待つこととなった。

そして彼は中等学校ギムナジウム)を1878年5月卒業しその後、彼は医者になるためワルシャワを離れモスクワ大学へと向かった。医者になることはが、ユダヤ人だからといって捻くれて堕落した生活を送ってほしくない。息子医者に、薬剤師にする、という方針からであった。
この方針に従いルドヴィクのレオン・ザメンホフも医師になっている。

しかし情勢の不安定さから身の危険を案じ2年後、モスクワを離れ故郷のワルシャ大学に編入し、医学を学んだ。

この頃、故郷ワルシャワでも火事でのデマユダヤ人放火したというもの)をきっかけにユダヤ人ゲットーに数千人の非ユダヤ人暴徒武器を持ち襲撃した。
ザメンホフ一家は地下室へと逃げ、何とか生き延びた。しかし言われもないデマロシア人がユダヤ人暴力を振るい、激怒したユダヤ人自警団が武器を持ち一斉に起し、ロシア人と正面衝突した。数~数千人同士が武器を持ち衝突しあったため、双方二人以上の死者が出た。

シオニズムへの傾倒と訣別

グロムの終結後、ザメンホフはシオニズムについて考え始めしばしばシオニストたちの会合に参加していた。

シオニズムとはユダヤ人が数千年前に住んでいたパレスチナに移住するというものであるが、ユダヤ人がこの土地を離れた後、数千年後経ち今では多くのアラブ人たちが住んでいるので対立は避けられなかった。

この頃、ザメンホフが雑誌にシオニズムについて論文を投稿した。
その内容は「アラブ人との衝突よりも、ユダヤ人アメリカ大陸に移住すべき」というものだった。このことに対して会合に参加した友人の一人は反論した。

「君には先祖への敬意がい。らの聖地シオンに帰り、ユダヤ人国家を建することこそ、アメリカ移住より良いはずだ。君は本当はユダヤ人をやめたいんじゃないか?」

ザメンホフはこれに反発し「ユダヤ人全員エルサレムに戻ったとして何が起きると思う?間違いなく戦争だ。は起こす気はいが、きっと他のユダヤ人が起こすだろう。その点、アメリカ開発中南部一体のき地を買えば数千家族は移住できる。衝突もく、エルサレムよりも安くだぞ?既に向こうには何人も移住してる。」と言い放った。

こんな議論が幾度となく続いた。そのうち彼はアラブ人との殺し合いを起こしてまで、シオンへ帰還することに疑問を抱いた。そしてシオニストの会合には参加しなくなった。

気弱な医師ザメンホフ

1885年(26歳)、ザメンホフは大学卒業し内科医のを歩き出した。

当初はリトアニアにいる夫婦に住み、病院を開業した。
田舎生活ではあり、ワルシャワとべると人口は少ないが必死に働き、食べていけるだけ稼ぐことができた。

かしこに住んでいた祈祷師たちが度々、営業妨をした、
またザメンホフは苦しむ患者を診たり、臨終の場に立ち会ったりすると万策を尽くしても「自分の治療のせいだ」と落ち込む気弱な面があった。そこで重病人とは関係の仕事になろうと決心。

翌年、ウィーン大学病院に通い眼科を専門的に学び、ザメンホフは眼科医となった。

妻との出会い・子供

ザメンホフの妻クララ(旧姓:ジルベルニク)はクララの仲介により出会った。
出会いから数ヶで仲は良くなり、ザメンホフにも訪れマルクスロゼリアも「器量の良いと付き合ってる」として喜ばれた。

しかし富であったクララは「貧乏医者結婚する気か!」と大激怒した。そのためクララ家出してルドヴィコと結婚する寸前までいった。最終的にはクララも折れて、二人は婚約した。

クララはザメンホフが研究している「」というものに興味を持ちザメンホフも熱心にクララに教えた。
夫の身近でエスペラントに精通したおかげで、彼女は夫の死後に二十年以上、世界エスペラント会議に参加し、世界人間と、難なくエスペラントで会話できるまでになった。

二人の間には長男アダム、長女ソフィア、次女リディアが生まれた。アダム同様に眼科医となり、ソフィア
特にリディアエスペラントに習熟し、教師として欧州中や米国教室を開いた。リディアユダヤ教から宗したバハーイー教徒だったといわれている。

しかしながらポーランドに侵攻してきたドイツ軍に捕まりアダムは危険思想の疑いをかけられレジスタンスとして銃殺刑ソフィアリディアはトレブリンカ絶滅収容所のガス室で絶命するに至った。

リディア手紙には「私たちの苦難の末には、より良い世界が現れるかもしれません。私はを信じています。バハーイー教徒であり、バハーイー教徒として死ぬはずだ。一切はの手に委ねましょう。」と書かれている。

アダムの子、ルイ=クリストフ・ザレスキ=ザメンホフ氏(Louis-Christophe Zaleski-Zamenhof 1925-2019)は強制収容所から生き残り、2019年まで存命であった。収容所で生存後はフランスに移住。最終的にはポーランド生まれのフランス人(ポーランドフランス人)の造技師・海洋工学者であり、エスペランティストとして祖の意思を継いだ。

「第一書」完成

婚約後にザメンホフは作りにひと段落がついたため、この言に関する本を出版することとなった。

しかしながらザメンホフはロシア語版、ポーランド語版などと、各版をいずれは作りたいと考えていた。
出版社から断られたので自費出版するはめになったが予算が足りず、クララに掛け合い持参の中から出版費用に当てることにした。

ルドヴィクのマルクスはこの当時、本の検閲官をしていた。マルクスは、同僚に掛け合い「息子のお遊びだから、大に見てくれ」と出版許可に念を押した。そしてとうとう帝国政府からの許可が下りた。

1887年(28歳)、エスペラント教科書「Unua Libro(第一書)」のロシア語版が発表された。

この本の発表により、このザメンホフの世界には「希望する」という意味の「エスペラント(Esperanto)」という名前がつけられ、ザメンホフ自らはペンネームで「エスペラント博士」と名乗る。

「普段、自分のにいてかと話すときは自国語の言を使い、通じない場合はこの言を話してほしい。言の不通による対立が戦争や人々の心の妬みに発展するのは愚かである。」

それがルドヴィコ・ザメンホフ(エスでの彼の名)の願いであった。

ヘブライ人である前に

ザメンホフは「第一書」が刷り上がると即座に新聞社や有名人などに送りいろんな人に注してもらおうとした。

そして少しずつこの本が手にとられるようになった。
2年後、エスペラント学習者が1000人をロシアにて初のエスペラント雑誌「ラ・エスペランティスト」が発行され、一年の終わり(9月1日発刊なので4ヵ後)には110人ほど購読者がいた。30歳となったばかりの著者ザメンホフの元を訪れる人が増えた。

この頃、ウラディーミル・マイノフという人物がトルストイの小説エスペラント語版を出すときに写真名前が欲しいと請され「私の全名はリュードヴィク・ラーザリ・ザミンゴーフ(ロシア語)です。」と聞くと、ラーザリ(エス:ラザーロ)という名前ユダヤ人が良く使う名前だったので、宗教について問うと「私は正教徒(ロシア正教会の信徒)でもカトリックでもプロテスタントでもなくブライです。」と丁重に答えた。(ヘブライ人はこの当時のロシアでよく使われたユダヤ教徒の呼称)

イノフ自身はエスペラント賛同者で、彼を軽蔑する気はかったが、ザメンホフ自身がヘブライ人だと知るとエスペランティストを辞め離れる者も多かった。ザメンホフはこうした人々を見るたび「ヘブライ人である前に私は一人の人間だ」と何度も自分や他人に対してするようになった。

ジカ街の眼科医

ザメンホフはその後、幾度とエスペラントの本を出版。
彼に同調するようにエスペラント語訳の小説もどんどん訳されていった。

ザメンホフは1897年(38歳)、首都ルシャワのジカに診療所兼自宅を構える。
ザメンホフ一家エスペラントの本を出版したために貧しくなり各地を転々とし暮らしを立て直そうとした末、貧民街であるジカに定住することに決めたのだ。当時のこの場所には眼科医もいなく定住するにはちょうど良かった。

ジカ一の眼科医であるザメンホフの名は評判になり、ここで毎日大勢の貧しい労働者階級や老人のを診察することとなった。エスペラント研究より医業を優先にし貧しい人々の救済に勤めた。

「貧しい人のすら救えない者が、世界規模の活動など不可能だ」

ザメンホフ自身もこの頃、あまり体調は優れなかったが、貧民街であり、お金を払えない人には返済を待ったりや、ザメンホフ自身の治療費がほかの医者半額程度であったことを考えると理をして必然的に一日数十人単位で見るほかかった。

世界エスペラント大会

1904年、末リディアが生まれる。ルドヴィクが45歳の時だ。

翌1905年1月サンクトペテルブルクにて血の日曜日事件勃発。
これは日露戦争の停戦、労働者生活保障などを的に10万人以上の労働者ストライキを起こし6万人が行進をしていたが軍の鎮圧部隊が発するに至り労働者側には数千人の死傷者が出た。

これをきっかけに以後、6年にわたり約千名(知事、総督、憲兵将校、将軍警察官、資本家ら)が暗殺された。

ザメンホフにとっては暗い事件続きだった。しかしそんな中で同年8月、第一回世界エスペラント大会がフランス・ブローニュ開催された。その光景を見てザメンホフは驚愕すると共に感動した。
合計で7000人近い人々が22ヵから集結しエスペラント話し合いをしていたからだ。それはザメンホフからすれば予想外の出来事であった。

この年、1905年はザメンホフにとって最も動の年であった。血の日曜日事件、第一回世界エスペラント大会の開催、そしてまたロシアではポグロムが発生しロシア全土で数千人が暴動により命を落とした。

1910年(50歳)、ザメンホフは英国下院議員のジェームズ・オグレーディー卿らの推薦により、ノーベル平和賞の受賞者補となった。しかし、最終的には受賞するには至らなかった。

第一次世界大戦

1914年、サラエボ事件の報復としてオーストリアセルビア宣戦布告。これに対し同じスラブ民族ロシアセルビア側を支持。ドイツロシアとの交渉決裂に伴い、宣戦布告
こうして周辺諸を巻き込んだ欧州戦争第一次世界大戦が勃発。

同年7月28日、ザメンホフ夫妻は第十回世界エスペラント大会に出るためドイツ経由でパリへ向かおうとしていたが、三日後にドイツロシア宣戦布告敵国民であったザメンホフ夫妻はどうにかワルシャワへと逃げ帰った。

戦争による検閲のため、エスペラントでの使用は当然許されず、ドイツ語フランス語で多くのエスペランティスト手紙を書いた。そこには彼の強い決意が書かれてあった。

廃墟から再建を困難を恐れない働き手が必要である。
エスペランティストはこの精鋭の芽生えになろう。
使命を果たすには、何よりも理想を思い
絶望念さに打ち負かされないようにするのだ

小林 著「ザメンホフ 世界共通エスペラント)を創ったユダヤ人意志の物語」より

この年の11月、ザメンホフは度重なる苦難により持病の心臓病が悪化。心筋梗塞を引き起こした。
眼科の仕事医師になったばかりの息子アダムに全面的に任せることとなった。

晩年

1917年4月14日、ザメンホフは心臓病により57歳の若さでこの世を去った。
働き盛りの30歳直後にも発症したため生涯を通して彼の持病とも言える。
晩年の3年間は心筋梗塞で倒れたりと病状は回復と悪化を繰り返していた。

1917年の4月に入ると心臓発作を繰り返し、胸の痛みで、横になって寝ることすらできなかったが、家族に迷惑をかけまいと、強な痛みをこらえながらずっと慢していた。

そして1917年4月14日
死の直前までソファで横になり自宅で主治医の診察を受けており、医師に対して「おかしなを見たんですよ。」「今晩は横になって落ち着いて寝れるかもしれないですね。」とっていた。診察後妻クララドアの前で医師を見送り、再びクララが戻ってきたときルドヴィクは横になったまま息絶えていた。
彼は自らの死を感じていたのか、傍らにあったにはクララが離れたときに書かれたと思われる遺書が置いてあった。

葬儀の後、彼の遺体はワルシャ地のオコポワ通りにあるユダヤ人墓地に葬られた。墓石には彼の名前と生年日以外にも、エスペラントシンボルマーク」が描かれている。


生涯を通して、ルドヴィコ・ザメンホフは貧乏であった。またポーランド人であり、ユダヤ人でもあった彼にとってはロシア帝国支配下のポーランドに生まれたことは、苦難の日々だったかもしれない。

しかし宗教や言越することを自らの理想とし、人との協調や思いやりを第一に考えた心弱くも気高き一人の男の人生は、エスペランティストのみならず世界の人々に多大なを与えた。

こうして半世紀にもわたる彼の人生物語はこうしてフィナーレを迎えた。

彼の死から1年後、彼の祖国ポーランドロシア帝国から独立した。

遺書

以下は、ザメンホフが最期にエスペラント語で記した遺書の一部である。

何の的で私は生活し、どんな的を持って学び、働き、するのだろうか。
全てのことが意味で価値で滑稽なものであるのに。
私は次のことを初めて悟った。死は消滅を意味しないだろう。
宇宙には一定の法則があるに違いない。
きっと何かわからないものが私を崇高な的に導いているだろう


小林 著「ザメンホフ 世界共通エスペラント)を創ったユダヤ人医師物語」より

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ルドヴィコ・ザメンホフ

11 ななしのよっしん
2014/04/09(水) 01:18:13 ID: sxH9ZpGVdA
言うほど左翼か?
普通読み物っぽい感じだったけど
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12 ななしのよっしん
2014/11/27(木) 20:49:05 ID: OU1bopgT54
宮沢賢治ダブる物があるお方だね。
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13 ななしのよっしん
2015/02/18(水) 13:45:01 ID: D96kJcqtTA
新しい神の国のための
イーハトーブで話されるべき言もしもあるならばそれに当たる
どちらも理想郷建設をしていた
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14 ななしのよっしん
2016/01/21(木) 08:25:02 ID: lk+eQt5IJE
エスペラントってこんな人が作ってた言だったのか…
記事書いた人に詳しく書いてくれてありがたいと言いたい

>>11
普段からそういった事を気にしてるからこそ、最初から文献をそういったで見ているんじゃないかな
眼鏡が外せなくて困ってる人だと思えばいい
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15 ななしのよっしん
2018/03/13(火) 13:09:50 ID: 8nKAmyEdhs
ピピサルトン

現実共産主義被れの孤立したコミュニティでの遊びでしかないという…
共産主義でもそうだが、どうしてこう後継者は最初に考えた人の願いとかけ離れたとこにいきたがるのかねぇ…
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16 ななしのよっしん
2018/04/29(日) 19:18:05 ID: M+4fcgpep+
ほんとこの人が言ったとおりに戦争を起こし奪って馬鹿な事し続けてるよね。
南部行けば南北戦争後だから安く買えるだろうし・・・
今でもあの辺り貧困地域ではあるし。
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18 ななしのよっしん
2020/04/07(火) 19:40:59 ID: pdZBf9eEVj
別に左的じゃなくね?
事実しか書いてないように見えるけど
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19 ななしのよっしん
2020/04/07(火) 19:43:14 ID: pdZBf9eEVj
エスペラントってこんな切実な平和への願いから生まれたものだったのか
いまエスペラントではないけど英語事実上のになっていて世界中の人が意思疎通できるのは、ザメンコフ氏のがかなったようなものだよね
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20 ななしのよっしん
2020/08/06(木) 23:38:21 ID: zJi9juJYor
ああ?反米、反英語最後の希望としてエスペラント語に縋り付くリベラルバカにしてるのか?
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