「ワーテルローの戦い」とは、1815年6月18日にオランダ(当時。現在はベルギー)のワーテルローで行われたフランス対イギリス・オランダ連合軍およびプロイセンとの戦いである。ドイツでは「ベラリアンスの戦い」とも呼ばれる(後述)。
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概要
戦いに至るまで
1814年、ロシア遠征より続く敗退による指揮下将官らから見放された形となってナポレオンは、フォンテンブローから流刑地であるエルバ島へ流されることになる。フランスはルイ18世が王政復古により王位についたものの、旧態依然の王政であったことなどもあり、わずかな間で人心は離れていくこととなった。
1815年2月、流刑地であるエルバ島より帰還したナポレオンは自国民の熱烈な歓迎を受けつつパリに到着。フランス皇帝の座に返り咲いた。
この事態は驚きであったものの諸外国にとってはあまり問題ではなかった。対仏大同盟として動員できる兵力は70万を軽々と越えていた。長らく続いた戦いで疲弊したフランスにとって動員できる兵力は限られ、60万の動員が限界であり、それすら国内で多くの批判にさらされてる始末であった。
ナポレオンが当面考えなければいけないのは、ベルギーにあるウェリントン公アーサー・ウェルズリー率いるイギリス・オランダ連合軍9万5千およびヴァールシュタット伯ゲープハルト・レーベレヒト・フォン・ブリュッヒャー率いるプロイセン軍の兵力12万に対する対応であった。もっとも強力であるこの兵力を敗退させれば諸外国の大同盟は瓦解することは間違いなかったからである。
とはいえフランス側にとって問題はそれだけではなかった。
往時の大陸軍(グランダルメ)を率いたナポレオン指揮下の将官、元帥および将軍たちの多くはルイ18世に忠誠を誓っており、再びナポレオンに忠誠を誓うことを厭うものも多かった。ルイ18世に忠誠を誓わなかったのはダヴー元帥ぐらいのものだった。結局彼の元に再び集ったのはダヴー、スルト、ド・グルーシーほかであり、これだけでは心もとないナポレオンはネイ元帥を呼び寄せる。
ナポレオンはパリにダヴーを置いて(彼の指揮・統率・組織運営能力の高さ故に陸軍大臣兼パリ防衛の任についた。この判断はのちに大きな影響を及ぼす)、参謀長にスルト元帥をつけ、ネイ及びド・グルーシー元帥と共に兵力21万を率いてイギリス・オランダ連合軍およびプロイセン陸軍の撃破を目指すため北上することを選択した。
ナポレオン率いるフランス軍は慢性的な人材不足に陥っていた。
長らくナポレオンの参謀長を務めたベルティエ元帥はナポレオン帰還を知るや自殺していたため、かわりの参謀長に就任したのはスルト元帥だった。だが彼は軍団長としては優れていたが、ナポレオンの幕下において組織運営を務めるには経験も実績も欠けていた。
ネイ元帥は戦場において勇気溢れた指揮官ではあるが、あくまで前線指揮官レベルでしかなかった。最後の元帥であるド・グルーシーに至っては騎兵指揮官としての能力は認めれていたものの軍団を率いる能力をもっていたわけではなかった。ともかくナポレオンはネイとド・グルーシーとそれぞれ三つに軍勢を分けて北方に進むことになった。
6月16日。ド・グルーシー率いるフランス軍はプロイセン軍と衝突。ナポレオン本軍はこれに合流してプロイセン軍1万6千を倒し、あまつさえフォン・ブリュッヒャー元帥を負傷せしめた(リニーの戦い)。
もっとも戦いぶりとしては低調極まることは否めなかったようだ。ナポレオンに絶頂期の指揮のセンスはなく、彼を補佐し彼の手足として戦った元帥たちの多くはこの場に居合わせなかったのだから。
ともかくこのリニーの戦いで勝利したことは間違いがなく、ナポレオンはド・グルーシーに3万の兵力を与えてプロイセン軍を追撃することを命じた。一方、ネイのほうは緩慢な動きでイギリス軍の一部を撃破するタイミングを逃してしまっていた。
さまざまな問題を抱えたナポレオン率いる軍勢ではあったが、相手となるイギリス・オランダ連合軍のウェリントンも判断ミスを犯して手勢を多くに方面に展開していたため主兵力が心もとなかった。プロイセン軍に連絡を取り、急ぎ合流することに求め、自身はフランス軍との対決を選択した。場所はオランダ(当時。現ベルギー)のワーテルロー村(Waterloo)から南に若干下ったモンサンジャン高地(Mont-Saint-Jean)で行われることになる。
6月16日のリニーの戦い後半から、断続的に降り続いた雨のためリニーの戦いからの疲労が解消されぬまま、フランス軍7万2千はイギリス・オランダ連合軍6万8千と闘うことなる。ナポレオン率いるフランス軍は兵力が大きかったものの、プロイセン軍が合流するまでにイギリス・オランダ連合軍を退ける必要があった。
戦いの経過
6月18日、朝。断続的に降り続いた雨のせいでモンサンジャン高地周辺は泥にまみれていた。そのため、ナポレオンは指揮下将官らの進言を退けて戦いを昼前まで伸ばすこととする。これは大砲の運用に支障をきたすためだったが、なにより今は時間が何よりも貴重な状況に応じて重大な要因となった。
戦場は、フランス軍左翼からウーグモン、ラ・エイ・サント、パペロットの三つの農場屋敷があり、事前に展開したイギリス軍によって拠点となっていた。イギリス軍主力は高地側に展開しておりフランス軍からは全貌を見ることができないでいた(このためナポレオンは最後まで敵全体の把握に苦しむことなる)。
午前11時30分。フランス軍は自陣左手に見えるウーグモン農場屋敷(とっても城館に近い)に攻撃開始。
ナポレオンの意図は左翼に攻撃を集中させてイギリス軍主力をそちらへ向けさせたあと中央をネイの兵力で分断させようという考えだったが、長らく続いたナポレオンの戦いぶりはもはや諸外国に知れ渡っており、ウェリントン公はこの意図を看破。そのままで戦い続けることを選択する。一方のウーグモンをめぐる戦いではナポレオンの不出来な弟、ジェロームの戦いぶりがまずかったために戦況は膠着状態に陥る。
午後1時30分。フランス軍は当初の意図通りにいかないものの、中央・右翼の攻撃を本格化。右翼を率いるデルロン将軍率いる軍勢はこれまた稚拙な戦いぶりというか古式ゆかしき集団前進で損害を出すものの、右手パペロット屋敷を攻略することに成功するだけではなく、イギリス軍指揮官ピクトンを戦死させた。とはそれ以上の進撃は、イギリス軍のスコットランド歩兵連隊がなんとか押しとどめることになる。
この状況にウェリントンは戦線中央にポンソンビー将軍ら率いる騎兵2個旅団を突入させるが、これを読んだナポレオンは槍騎兵を側面から突入。ポンソンビー将軍を討ち取ることに成功し、騎兵を撃退する。
このような展開で戦線は全域にわたって激しく戦っているものの、兵力差などからじりじりとフランス軍に優位に傾きつつあった。だが、戦線右手にプロイセン軍の軍勢が見えてから状況は一変する。
リニーの戦いの後、プロイセン軍主力に対して向けられたド・グルーシーはそれ以後断続的に降り続いた雨のため敵主力の拘束に失敗。なおかつ、ワーテルローからの砲声を聞いた部下から本隊への合流の進言を退け、事前の命令を基づいてプロイセン軍を追うことを選択していた。
ナポレオンはワーテルローの戦いが始まった直後からド・グルーシーの兵力を呼び寄せようとしていたが、参謀長のスルトが伝令を最初は一人しか送らず、その一人も途中で落馬、負傷してしまうなど、不手際が目立った。なんとか互いの状況を知りえたときにはド・グルーシーは戦場への合流が間に合わないことが明らかになっていたのだった。ナポレオンはこのことを知ると、ベルティエなら100騎は伝令を送っただろうと言ったという記録が残っている。
もっともこの状況下でもナポレオンはまだ勝機があると確信していた。予備隊の一部であるローバウ将軍指揮下の兵力をプロイセン軍へ振り分け、より攻勢を強めることを決意した。
午後4時ごろ。
持病のため、体調がすぐれないナポレオンは、一度休憩することとして指揮をネイらに託す。ところがこれが最大の蹉跌となった。
攻勢を受けているイギリス軍で負傷者などを後方へ送っている動きを見たためか、その様子をフランス軍中央のネイ元帥が全面後退の兆しとして判断したのか、指揮下の騎兵に突撃を命じた。この判断は今も謎の部分とされており、ウェリントン公が百歩(あるいは百メートル)後退を命じたためためとも、いや、そんな事実はないとの話もある。
このネイ元帥の命令だけで済めばよかったものの、この騎兵突撃は周辺部隊にも波及して、なんと5000もの騎兵突撃となってしまう。それにつられてケレルマン指揮下の騎兵も突撃に参加するという大規模騎兵突撃となってしまった。
(途中でこの状態に気がついたナポレオンが少数の騎兵突撃をさせるよりは、さらなる騎兵を送り込む選択をしたという説もある)。
この独断で、かつ制御しきれていない騎兵突撃はイギリス軍の方陣によって迎撃されることになった。
騎兵単独での攻撃力は最初の突破力のみであり、壊乱しつつある兵力相手でなければ多大な損害を出すことになることはわかっていたが、ネイは歩兵、砲兵の協力すら求めず単独で突撃を選択するという致命的なミスを犯したのである。
歩兵が騎兵突撃に対して行える防御陣形である方陣のいくつかは騎兵の波に飲み込まれたものの、イギリス軍は何とか耐え抜くことに成功した。
幾度か馬を乗り換えるなどして、何度も突撃の指揮をとったネイ元帥ではあったが、結果的には成功に至らず貴重な騎兵の多くを失っただけであり、フランス軍は決め手を失ったまま残りの兵力を糾合して攻勢を強めるしかなかった。
一方、戦場右翼に到達しつつあるプロイセン軍先遣隊に対して向けられたローバウ将軍のフランス軍予備兵力は苦境に立たされており、ナポレオンは段階的に予備兵力を切り崩してプロイセン軍からの防御に注力するはめになる。
騎兵突撃に失敗したネイではあったが、今度は歩兵部隊を率いて陣頭指揮をとって中央のラ・エイ・サント農場の攻勢を開始する。個人的勇気が求められる戦場においては勇猛だったネイはこの戦いを優勢に進めるが、増援をも求めてた。
ラ・エイ・サントにまで砲兵を進めてイギリス軍本陣に対して砲を打ち込める状況になったのだ。ここで最後の、かつ精強を誇る老親衛隊主力を投入すれば中央が突破できる。だが、ナポレオンはその求めを却下する。
かたやイギリス軍を率いるウェリントン公も兵力が乏しく弾薬も尽きつつあった。が、ナポレオンが最後の予備兵力投入をためらっている間に再編成を行い、兵力を中央へ集めることを決意した。後背よりプロイセン主力が到達しつつあることが判明しており後先考えずの防衛が可能になりつつあったのだ。
午後7時ごろ。
中央のラ・エイ・サント農場屋敷を制圧した報告をうけてナポレオンはここで最後の予備隊でもある精強を誇る老親衛隊の投入を決意する。しかし遅きに失したことは否めず、集結したイギリス軍近衛の前に倒れることになった。
ナポレオンの初期の戦い、イタリア戦役から彼に付き添い、数多の戦場で無敵を誇っていた老親衛隊の敗北にフランス軍の士気は崩壊。潰走を始める。一人、ネイ元帥が前線に踏みとどまって将兵を鼓舞するがすでに誰も聞くものもいなかった。
もはやここまでと悟ったのかナポレオンは最後の手勢を率いて突撃を行おうとしたらしいがスルト元帥らによって馬車に収められて撤退することとなったという。
全面的に潰走を続けるフランス軍を追撃しようとするイギリス軍主力及びプロイセン軍だったが、殿として老親衛隊の一部が方陣を組んで最後まで立ちふさがった。降伏を勧告するイギリス軍将兵に対して老親衛隊を率いたカンブロンヌ将軍は「糞ったれ(Merde!)」、「親衛隊は死すとも降伏せず (La garde meurt, et ne se rend pas.)」と言って全滅を受け入れた。…というのが定説とされているが、どうもこの上記の言葉は、実際は老親衛隊を指揮していた違う将軍の言葉で、カンブロンヌ将軍はそれよりも前に捕虜(負傷後)になっていたというのが本当のところである。
敗因とその後のお話。
ナポレオンは往時にもっていた天才的な判断のキレや、その場での帳尻合わせ的な冴えも、また彼の判断ミスを帳消しにしてくれた運も失っていた。さまざまな健康的な問題を抱え、指揮に集中できなかったことが当時の周辺にいたものたちの記録に残っている。
彼を補佐すべきだった将官たちも少なく、かつ、その能力に欠けていた。
ナポレオン自身があまりに突出していた才覚の持ち主であるため、部下の将軍、元帥たちの多くは自分たちで判断し、行動するということを放棄していた感もあり、悪く言えば元帥とはいえ単なる前線指揮官のレベルに留まっていた。
彼らはナポレオンのいない戦場においては並程度の指揮官であった。これはナポレオンもそうであることを望んでいたふしもあるのだが。
ナポレオンの戦略を高次元で理解し、彼に進言するだけでなく独自の判断で組織を維持運営できたのはダヴー、マッセナなど一部の元帥ぐらいのものだったといわれる。マッセナはこの時老齢で中立的立場であったが、ダヴーは健在で、かつナポレオンに味方していた。もし、と言われる側面に、パリ防衛にあたっていたダヴー元帥がナポレオンを補佐していればどうだっただろうか。というIFがある。
彼の戦略眼・戦場での指揮ぶり、そして管理能力の高さなどを考えればスルト元帥よりも上手に参謀長の務めを果たしたことであろう可能性は高く、前線指揮をスルト元帥に参加させることでネイ元帥よりも戦局を踏まえた用兵が行えたかもしれない。
実際にはダヴー元帥以外に軍を組織して、かつ独自の判断で動けるような人材はこの当時のナポレオン軍団においては望み薄であり、1814年の離反劇もあって、とてもではないがダヴーをパリから動かせる状況ではなかったのがナポレオンにとっての痛手でもあった。
(あるいはダヴー個人の忠誠心はあったものの、ナポレオンにとってはダヴーを疎んじていたという話なのかもしれない)
実際、ダヴー元帥はワーテルローの敗北を知るやド・グルーシー元帥が率いた兵力とパリ防衛のための兵力を糾合、パリへと向かうプロイセン軍に対して配下の兵力を送り込んで戦った…という記録が残っているという。
また、当時、ネイ元帥が戦闘神経症にかかりPTSDなど不安定な精神状態だった、という説もある。戦闘神経症はともかく、確かにネイ元帥が過度の緊張状態に置かれており、正常な判断を下せなかった可能性もあるだろうが、このような状態を補佐するために参謀が必要であり、この点ではナポレオンに抵抗するために参謀制度を確立したプロイセン軍などに比べて劣っていたと見なされるかもしれない。
ミッシェル・ネイは再び王位に舞い戻ったルイ18世らによって裁判後、銃殺刑となった。ちなみにこの裁判で今後のことを省みず弁護を行ったのは、彼とともに戦った将官の中では(あまり彼とは仲が良くなかったものの、評価していたという)ダヴーだけだったという。
ミッシェル・ネイの最後の言葉は以下に伝えられている。
「兵士諸君、これが最後の命令だ。私が号令を発したらまっすぐ心臓を狙って撃て。私はこの不当な判決に抗議する。私はフランスのために百度戦ったが、一度として祖国に逆らったことはない」
ともかく、ワーテルローの戦いのあと、再びナポレオンは退位して今度はフランスからさらに遠く、世界の果てとも言っていい大西洋にあるセント・ヘレナ島へと流刑されることになった。その地で彼は六年にわたる幽閉・監禁生活を送り、そして亡くなった。ナポレオンに付き従った者たちは、あるものは隠棲し、あるものは大身となり、あるものはそのままフランスに仕えるなど、様々な運命を辿った。
こうして長きにわたったナポレオンによる欧州の戦いは終わりを迎えることとなった。
ちなみに戦場がモンサンジャン高地であるにもかかわらず、そこから外れの村ワーテルローの名を冠している(Battle of Waterloo)のは、決戦前夜にこの村に逗留したウェリントン公の横槍ともいわれている。
その一方でプロイセン側のフォン・ブリュッヒャー元帥一行は戦いが終結した日の夜9時ごろ、ブリュッセルから南へ数マイル外れにある宿屋「ラ・ベラリアンス」(仏: La Belle Alliance, 「麗しき同盟」を意味する)の間近でウェリントン公一行と顔を合わせた。この終戦を象徴する出来事を記念して、この反ナポレオン諸国の連合を想わせる宿の名を冠して「ベラリアンスの戦い」(独: Schlacht bei Belle-Alliance)と呼ぶべきだと主張し、ベルリン市内の「円形広場」(Rondell)を「ベラリアンス広場」(独: Belle-Alliance-Platz)に改称した。その甲斐あってか、ドイツ語圏ではこちらの名前も定着しているが、現在のラ・ベラリアンスは週末限定のナイトクラブとなっており、広場の方は第二次大戦後すぐにマルクス主義者フランツ・メーリングの名を冠したもの(Mehringplatz)に再び改称されている。
また、戦いの後、英国では余計な気を使って、戦場跡地に鹵獲した大砲を鋳潰して作った獅子の像を、ご丁寧に50mほどのピラミッド型台座の上に据え付けてみせたが、この行為にウェリントン公は激怒。
「なんて事をするんだ。私の戦場が台無しではないか!」と言ったとか。…気持ちは理解できますよね。
映画「ワーテルロー」
この「ワーテルローの戦い」を描いたのが映画「ワーテルロー」である。
1970年、イタリア・ソ連の合作映画として作られたこの作品はなんとエキストラとしてソ連軍兵士2万が駆り出され、ウクライナの撮影場の地形を変えて(!)まで当時のワーテルローの地形を蘇らせた。二千名の撮影エキストラは事前に当時の戦闘訓練をうけて先込め銃の装弾方法などを習得したとされる。彼らはフランス軍、イギリス軍の軍服にその都度着替えて映像を彩り、史上空前のノーCGによるワーテルローの戦いを描いたのである。
大地を埋め尽くさんばかりの両軍兵士、敵陣に向かっていく騎兵とそれを迎え撃つ砲兵、兵士、方陣体型を組むイギリス軍や、ウーグモン屋敷をめぐる死闘など描いた作品であり、それにナポレオン役のロッド・スタイガーなど欧米での一流俳優たちが絡むというナポレオニックなら垂涎もの作品に仕上がっている。っていうかナポレオンに興味をもったら見てみるべき映画であるといえるだろう。
ただ残念ながら国内ではVHS版のみしか流通しておらず、DVD化が求められている作品でもある。
海外では販売されているDVD版があり、こちらは英国Amazonを経由して購入する方法があるものの、当然リージョンコードや色々とハードルが高い条件もあり、すんなりと見ることはできない(あれこれ細工をすれば見れるのだが)。、
ちなみになんとソ連版にいたっては4時間もの大長編映画となっているようで、ワーテルローの前哨戦であるリニーの戦いから描かれているという…。
国内メーカーの方には是非ともソ連ノーカット版DVD(BD)の販売をせつにお願いするところです。
関連動画
ワーテルローの戦いについての解説映像。ちなみに現在のワーテルロー戦場あとの地形は参考にならない。
関連項目
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