同盟市戦争とは、紀元前91年末から紀元前88年の約2年間半にわたり、共和制ローマ(古代ローマ 後のローマ帝国)が統治するイタリア半島で起きた内戦である。
軍事勢力
どちらも、もともと同じ、ローマ軍を編成していた。つまり新国家イタリカ側も合理主義のローマ風の戦法(百人隊による軍団編成)を行っていたために、双方ともに同等なまでの多大な犠牲者が出て、ローマ側も大苦戦した。
国家
イタリカ (ローマ連合の同盟都市・同盟部族)
首都はコルフィニウム(現在の呼称はコルフィーニオ。ローマの南東120kmほど)。ローマ市民権を認めないローマ市民に反発し、新国家イタリカの建国を宣言。ローマ市民権の獲得をめざし、ローマ連合の盟主国ローマ市と戦闘をする?。決起当初は八部族だけでありイタリカ側の面積もローマに比べると少なかった。後にローマ側からの離脱者が続出し、イタリカの数倍の領土面積にまで膨れ上がる。同盟諸都市民は、ローマ市民から、ソーチ(同盟者)もしくは、イタリクス(イタリア人)と呼ばれていた。
なおイタリア語において自国はイタリア(Italia)と呼ぶが、当時のローマ帝国の公用語であるラテン語ではイタリカ(Italica)である。
ローマ (ローマ連合盟主のローマ市を中心とする連合)
盟主ローマ市とその直轄領、属州、およびイタリカ側に離反しなかったローマ連合の同盟都市から成立する。この当時、寡頭制(世襲の元老院議員による元老院)を採用する保守派の元老院派(オプティマテス)と、反元老院主導派である民衆派(ポプラレス)による対立が激化している。そもそも、この同盟諸都市の反乱は、紀元前91年度の護民官ガイウス・ドゥルスス(民衆派)が、市民権の拡張を行っていたが、彼が元老院派のスパイにより暗殺したことにより始まる。最終的には彼らが妥協し、反乱都市民と反乱軍を許し、イタリア半島全域に住む者に市民権を与えたため、新国家イタリカはローマに復帰し、この内乱は収まることになる。
両軍の将校
イタリカ軍
- クイントゥス・ポペディウス・シロ (Quintus Poppaedius Silo)
マルシイ族出身の執政官。北部戦線総司令官。紀元前89年、マメルクス・アエミリウス・レピドゥス・リウィアヌス将軍(暗殺された護民官ドゥルススの実弟。紀元前77年度執政官)の軍団との戦闘で戦死する。 - ガイウス・パピウス・ムティルス (Gaius Papius Mutilus)
サムニウム族出身の執政官。南部戦線総司令官。
1万の歩兵と1000の騎兵を率いイタリア半島南部のカンパニア地方を戦い続けた。
その後、降伏。ローマ市民権を与えられたが、元老院によりイタリア半島追放処分となり、紀元前87年、自殺。 - ティトゥス・アフラニウス (Titus Afranius)
マルシイ族出身の将軍。三頭政治のポンペイウスの父、グナエウス・ポンペイウス・ストラボとの戦いで戦死。 - ティトゥス・ウェッティウス・スカト (Titus Vettius Scato)
パエリーニ族出身の将軍。紀元前88年、自殺。 - ヘリウス・アシニウス (Herius Asinius)
マルッキーノ族出身の将軍。終戦後はローマ市民権を得て、平民(プレブス)として暮らす。
なお、アシニウスは氏族名(ノーメン)であり、家族名(コグノーメン)は不明。
彼の孫のガイウス・アシニウス・ポリオは、後に、紀元前40年度の執政官となる。
以上の代表者を含めて多数。
ローマ軍
- ガイウス・マリウス(Gaius Marius)
この時は北部戦線の将軍。元執政官。家族名を持たない。
彼もまた後の独裁官、ガイウス・ユリウス・カエサルの叔父である。平民階級出身であり、20代の頃より軍隊で戦い、護民官となった後、元老院議員となり、最終的には執政官になった所謂叩き上げ。
後に再び執政官となり、民衆派指導者として元老院派のスッラと内戦を引き起こす。スッラ派との戦いに勝ち、スッラ亡命中に執政官になるも、まもなく病死し、独裁官スッラ率いる元老院派が、今度は逆に民衆派議員を殺し、政権を握った。 - ルキウス・コルネリウス・スッラ (Lucius Cornelius Sulla)
この時は南部戦線の将軍。コルネリウス氏族に属する貧乏貴族スッラ家の出身。
もともとはマリウス配下の兵士として台頭していくが、この後、マリウスとは反目しあい内戦を引き起こす。
後に元老院派の指導者になり、マリウス率いる民衆派と戦い、独裁官に就任する人物。 - グナエウス・ポンペイウス・ストラボ (Gnaeus Pompeius Strabo)
北部戦線の将軍。後に、戦時中の紀元前89年の執政官に任命され、北部戦線の総司令官となる人物である。本名はグナエウス・ポンペイウスという個人名と家族名のみの名前だが、斜視であったため「斜視」を意味する「ストラボ」という愛称がつけられる。
三頭政治で活躍する同名のグナエウス・ポンペイウス・マグヌス(マグヌスとは「偉大なる人間」という愛称で、後に上司である武官スッラからこう呼ばれた。)は彼の息子であり、この戦いで一兵士として初陣を迎えた。
後にマリウス派により殺害されるが、その当時、彼の息子は若かったため、連座されず、カエサル派とポンペイウス派による内乱において、エジプト軍により殺されるまで生き延びることができた。 - ルキウス・ポルキウス・カトー (Lucius Porcius Cato)
紀元前89年度執政官。就任によりカエサルから、南部戦線総司令官職を引き継ぐ。
紀元前89年度の冬、軍団を率いて、マルシイ族の野営地襲撃中に戦死。
以上の代表者を含めて多数
用語説明
ローマ連合とは
ローマは紀元前8世紀の建国以後、徴兵制からなる軍団によりイタリア半島の複数の都市・諸部族を傘下に収めた。しかし、住民を殺すなどといった蛮行はせず、彼らはローマと同盟を組むことを許された。
最初はイタリア半島の都市はみんな対等であり、それぞれの都市・部族がローマ以外の都市・部族と同盟を組むことも許されていた。この同盟をラテン同盟と呼ぶ。ラテン同盟の合同軍によって手に入れた戦利品は、徴兵制によりもっとも兵士を多く出すことになる主導国ローマと、同盟都市で半分にわけることになる。
しかしながら、紀元前390年、イタリア半島以北にすむケルト人(ラテン語ではガリア人。以下ガリア人と称す)のセノネス族が、イタリア半島のローマ市に侵攻したことがあった。この時、ラテン同盟の同盟都市は主導国のローマが存亡の危機にあると、ローマを見捨て、ガリア人側についたことがあった。またローマ軍も各地で大敗。これによりローマ市はガリア人により征服され、逃げれなかった市民の多くは女性は強姦され、老若男女とわず虐殺された。逃げ出した市民は涙を流して逃げ、遠くから眺めることしかできなかった。
この事件は後世のローマ市民に、ローマ史上最悪の屈辱と呼ばれることになる。
最終的には後に「第二の建国の父」と称されるマルクス・フリウス・カミルス将軍が、ガリア側に、大金を払うことにした。都市民ではなく、狩猟民族であったガリア人は、都市の使い方を知らなかったため、水道を腐らせ、疫病を蔓延させるなどをしたため、この誘いに乗った。こうしてケルト人はローマ市を後にし、イタリア半島の北へと去った。この後、ローマ市は市民により立て直しをされ、回復をした。
しかしこのローマ史上最悪の屈辱は、同時にラテン同盟のもろさをあきらかにした。人間でいえば、ついさっきまでの自分の友達だったものが、自分を殺そうとする者に組みする悪党になったことに匹敵するであろう。カミルス将軍はじめローマ市民はこのことに対して激怒した。
ローマは裏切ったイタリア半島の同盟者を許す代わりに、後にローマ連合と呼ばれるものを課すことにした。これは盟主国をローマ市直轄領とし、その他の同盟国はローマに対し同盟を結ぶ。ここまではラテン同盟と同じである。しかし、同盟国に対しては盟主国ローマ以外の勢力と同盟を結ぶことを禁止した。つまりローマと自分という二者のみの同盟を結んだのだ。こうすれば加盟国と別の加盟国の関係は薄くなる。それにローマは兵士を多く出す軍事大国であり、ローマに対して同盟都市は主従関係を強いることとなった。これは連邦制とほぼ同じである。
このローマ連合の結束力は固く、かつて起きたローマ連合外との対外戦争(ポエニ戦争 カルタゴvsローマ連合)においては、盟主国ローマが主力軍を編成し、見本として率先して犠牲を払う姿勢をみせた。
ローマ市民権とは
ローマ市民権は現在でいえば、ローマという国家に住むものが持つ国籍に相当するものと考えるのが手っ取り早い。以下で述べる同盟市戦争の原因はこのローマ市民権を、イタリア半島の住民全員が有するか、有しないか、という問題から発展した。
以下に述べる権利・義務は紀元前91年末に基づく。
ローマ市民権を得られる人間 (紀元前91年末)
- ローマ市に住んでいる平民以上の階級保持者
- 解放奴隷身分(後述)であっても、3万アッシスの資産と、五歳以上の実子の男子を有すれば、ローマ市民になれる。またその子供の世代以降は平民階級として扱われるため、ローマ市民権が与えられる。
権利
- 民会(貴族階級、騎士階級、平民階級を問わないローマ市民全員の集会)における選挙権および被選挙権
- あらゆる私有財産の保証
- 裁判における控訴できる権利。すなわち裁判で死刑判決が出たものが民会に訴えられる権利。
- 法的に結婚できる権利。これにより子供には無条件にローマ市民権が与えられる。
- 志願してローマ軍の兵隊になれる権利
- そして何よりローマ市民であることは、属州民等よりも優遇されることを意味し、名誉を重視するローマ人にとっては一人前の人間であることを意味するのだ。
義務
この義務を怠る者は、非ローマ市民および非同盟国民か、貧乏人か、奴隷か、解放奴隷か、裕福だが男子がいない家の者、無法者などであったそうだ。兵役回避は名誉を重んじるローマ人にとっては屈辱以外の何物でもなかったようだ。
そしてローマ市民はポエニ戦争時はその主力軍団として果敢に戦い、一番多くの死傷者を出した。そして同盟都市に関しても兵役の義務を与えた。
しかし、107年から101年にかけて執政官に選ばれたガイウス・マリウスは軍事改革を行い、その一つとしてローマ市民の徴兵制を廃止するに至った。これによりローマ軍は軍事を職業とする志願制となり、それにより士気も上がった。
だが、一方、ポエニ戦争などを通して共に戦ってきた同盟都市民は徴兵制が課したままであった。これが後にこの戦いが起こる争点の一つとなる。
補足
古代ローマ人の人名について
ローマ人の人名は主に三つで構成される。それが、個人名(プラエノーメン)、氏族名(ノーメン)、家族名(コグノーメン)である。また、この他にも添え名(仇名、敬称)などが存在する。
もともとは個人名と氏族名だけであり、氏族名が重要であった。しかし同じ氏族名(たとえばファビウス、ユリウス、コルネリウス、クラウディウスなどが代表例)を名乗る人々が多発したので、それぞれの家族ごとに家族名がつけられるようになり、それが定着した。家族名の由来は様々で先祖の特徴を表すものであったり、周辺にあるものから付けたりと氏族名以上に多種多様に存在する。
なお氏族名や家族名は少なくとも百数種類以上のバリエーションがあるので個人は特定できる。だが、個人名に限ればバリエーションは少ない。現在のイタリアにおいては、キリスト教関係の名前や、ほかのヨーロッパ言語からの単語を用いたりして、個人名はとても多くなっている。
しかし古代ローマにおける個人名は、特にこの紀元前91年においては、30も満たない。代表的なものを挙げるとすれば、ガイウス、ルキウス、グナエウス、デキムス、クイントゥス、マルクス、アッピウス、ティベリウスなどがそれである。それに父親の名前を息子が世襲するということもよくあった。たとえば後の独裁官、ガイウス・ユリウス・カエサルは父の名前もガイウス・ユリウス・カエサルであるし、グナエウス・ポンペイウスもそうである。個人名がこのような存在なので、ローマ時代の平民の学校などにおいては此処にいる人全員ガイウスなどもザラであった。大体は家族名(必要な場合は氏族名)を呼んで区別する。
なお、平民などの人々においては氏族名を持たない人もそれなりに存在し、個人名と家族名のみを有する人もいる。たとえば、上記に挙げている、後の独裁官ガイウス・マリウスや、グナエウス・ポンペイウス(父と息子が同名であり、それぞれの添え名で区別する。)がそうである。
ちなみに以上は男性名の場合である。
女性名はどうしたかというと、安易すぎるのだ。どうするかといえば、「~~ウス(us)」で終わる氏族名を女性系の「~~ア(a)」で終わらしたものを女性個人の名前とするのである。ちなみに氏族名を持たない人々の場合は、家族名の語尾部分の母音を「~~ア(a)」で終わらす。
たとえばアッピウス・アウレリウス・ネムス(Appius Aurelius Nemus)という名を持つ、すなわち父親がアウレリウスという氏族名を持つ場合において、娘の名前は全員、アウレリアである。これは家族名は関係ない。たとえばガイウス・アウレリウス・シルウァという男性の娘の場合も、女の子が生まれればその子の名前はアウレリアだ。
ちなみに長女、次女、三女がいても全員名前はアウレリアである。ただし、当時は「一番目のアウレリア」だの「二番目のアウレリア」だの数字をつけて区別していた。また、同じ氏族出身の同名(例えばユリウス氏族の娘であるユリア)の人々が集まるときは、「~~家のユリア」、「~~(父名)の娘のユリア」といって区別していたともいわれる。
なおアウレリウス氏族出身の女とアウレリウス氏族出身の男が結婚して長女と次女が生まれた場合、母親も、長女も次女もアウレリアといった事態が存在した。こういったとき、歴史学においては区別のため母親を「大アウレリア」、娘を「小アウレリア」とか呼んで区別する。
古代ローマにおける身分について
以下は紀元前91年時のものである。なお、属州のケースは割愛する。なお、当時、市民権が認められたいたのはローマ市およびローマの直轄領に住む平民階級以上の住民のみである。ローマ市民として民会に参加できるのは平民階級以上の人物に限る。
なお、これはあくまで共和政ローマにおける身分制度についての事項であり、執政官に官職についてのことではない。
- 貴族階級(パトリキ)
ローマ人の最上流階級である。そして大富豪でもあり、属州においては農園など、たくさんの土地を持っている。共和政ローマは国政の大半は彼らが牛耳ており、民主制ではなく、世襲制の貴族が議員を務める元老院による寡頭制であろう。この家に生まれた当主は、終生、かつ無条件に世襲の元老院議員になれる。なお、元老院議員の給料は出ない。1年任期の2人の執政官(元老院議長であり、国家元首)や法務官、属州総督に選ばれるのは一部の例外を除いて、大体が、貴族階級か騎士階級出身者である。なお貴族といえど没落している家(コルネリウス氏族スッラ家など)も多数存在する。 - 騎士階級(エクィテス)
もともと徴兵制のあった時代においては百人隊において、騎兵になれる人間は、相当裕福な人間とであったことに由来する。徴兵制廃止前後はただ単に、経済的富裕層の人間を指す言葉として使われる。主に10万アッシス以上を有する人間のことを「騎士(エクェス)」と呼び、その複数形がエクィテスである。 - 平民階級(プレーブス)
主に5万アッシス以上の資産を持つ一般市民のことを指すが、主に解放奴隷でなければどんなに貧乏人でも平民階級に属する。民会に参加できるのはここより上の身分になる。なお、護民官は平民階級の人物しかなれない。護民官となる人間には元老院議員の位が渡される。また護民官は法務官の決定や、元老院決議を却下できる強大な「拒否権」と何からも拘束・殺傷されない「身体の不可侵権」を持つが、後者に関しては元老院派(元老院議員である貴族階級のうち、元老院による寡頭制と貴族階級の優位を維持しようとする勢力)によるグラッスス兄弟の暗殺により破られ、今回もドゥルスス暗殺事件が起きてしまった。 - 解放奴隷(リベルトゥス)
下に書かれている奴隷が主人から自由の身分を与えられ、奴隷でなくなった元奴隷の身分。元々の主人とはパトロス(保護者)とクリエンテス(被保護者)として関係を継続する者が多く、相互協力関係にある場合も多い。なお、前記に書かれている通り、この当時のローマとその直轄領在住の解放奴隷は3万アッシスの資産と、5歳以上の息子を持てば平民階級になれ、その子孫も無条件に平民階級になる。なお、彼らは奴隷時代には個人名や仇名しか持っていなかったが元主人から同じ氏族名と家族名を持つことを許される。たとえばアントニウス氏族のシルウァ家に仕えていたマルクスという奴隷が、主人から「お前は忠義に満ち良く働いたので、解放奴隷にする」といわれた場合、マルクス・アントニウス・シルウァというローマ風のフルネームを名乗ることを許された。 - 奴隷(セルウィタス)
ローマにおける奴隷は主に戦争に負けた敵兵、敵国民などといった政治的事情が大きい。例としては第三次ポエニ戦争(ローマ軍vsカルタゴ軍)で滅亡した元カルタゴ国民や、今から60年ぐらい前に起きたコリントスの戦い(ローマ軍vsアカイア同盟軍)によるギリシャ諸都市民などがそれである。だが奴隷に対しては一方的に肉体がボロボロになり、瀕死するまでの強制労働を強いたり、あるいは殴り蹴飛ばし殺害するための道具のごとく虐待をしまくるといったものではない。すなわち後世の西洋の人々が人種差別の憎悪を含めて白人が黒人に対して行った所業とは大きく事離れている。ローマ時代の奴隷は、現在でいえば使用人、家庭教師に近い。そのため主人が長年の忠義に応じてやろう、と思えば解放奴隷身分にするということもあったし、そうでなくとも奴隷の息子(奴隷同士の結婚可)が主人の息子と遊び相手になり、同じ教育を受けるといった関係もあった。同じテーブルで一緒に食事をとるのも普通である。また特にローマ人はギリシャ文化を愛していたため、特にギリシャ出身の奴隷は重宝され、ギリシャ語、ギリシャ文化を家庭教師の奴隷からみっちり教えられることも多かった。たとえば、ある貴族階級の家で奉公している奴隷の場合、主人の息子が言うことを聞かない場合があった。彼は主人から信頼されていたので、主人から許可を得て、息子を殴るといったお仕置きも許されたほどだ。
開戦までの経緯
ドゥルスス護民官暗殺事件(紀元前91年)
紀元前91年度の護民官に就任した一人に、マルクス・リウィウス・ドゥルススがいる。
護民官はその名の通り平民の権利を守るのが主たる職務である。また護民官は当然、民衆派であり、彼は当時の護民官の中でもその代表格と言っても良いであろう。彼はイタリカに住む同盟者全員に対するローマ市民権の拡張を主張していた。このことに対して元老院派は反発し、民会での彼の演説においては元老院派の怒号がしばし聞こえることもあった。
そして彼は同盟者達にとっては希望の星であった。彼が護民官として主張をし、ローマ市民たちがローマ市民権の拡張に賛成者がいる限りは、同盟者達は武力蜂起というローマ市民権獲得はこれっぽっちの考えなかったはずだ。
しかし、ドゥルススは1年の任期中に、民衆派による彼の支持者に守られながら自宅へと歩いている最中、元老院派の放った刺客により刺殺された。彼は死の間際、保守的なことを考える元老院派に対する失望も含めたであろう、最期の言葉として、「ローマ市民は何時、私のような人物を持てるのであろうか…」と言い残し、絶命した。
その後
この事件に同盟者たちは驚愕し、絶望した。これまでポエニ戦争などで協力した我らに対するローマの態度はこのように冷酷なものなのであるのか。同盟者たちは希望の星であるドゥルスス護民官を暗殺されたことで、穏健な協議は不可能であると悟った。
同盟者たちがローマ軍と協力して戦った数十年前のポエニ戦争の時の元カルタゴ人でさえ、奴隷にされた後に、その有能さと主人に対する忠誠から、主人から自由な身分を与えられ財産と男子を持ちローマの平民として市民権を得るという時代である。かつての敵が自分たちよりも良い待遇であるのに、あの当時の子や孫にあたる同盟者たちには見返りもなければ、今やローマが廃した徴兵制さえ、ローマは同盟者に課している。あまりに不平等で差別的ではなかろうか。
そしてローマ連合の掟をひそかに破り、同盟者たちはイタリア半島各地の部族・都市と密通した。最終的にはイタリア半島の南北の8部族がローマ市民権獲得を目指して、紀元前90年になる前に、軍団を編成し武力による一斉蜂起することを決めた。
開戦 (紀元前91年末)
それは、紀元前91年末の数日間に起きた。
イタリア半島に住むピチェント族、ウェスティーノ族、マルッキーノ族、パエリーノ族、マルシイ族、フレンターノ族、サムニウム族、ヒルピーノ族が、一斉に武装蜂起を起こし、ローマ領に奇襲攻撃をかけた。
これこそがローマ連合の内乱たる「同盟市戦争」の開戦であった。
この時点では、ローマ領の都市や多くの同盟者たちはまだローマ側についてるか、あるいは何もしない中立であり、反乱側の規模はまだ8部族内のことである。しかしこれにより、ローマよりも生まれ育った郷里の行動に従うことにしたローマ連合軍の将兵の4割近くが離反する、という事態を引き起こした。
そして北部で勢力を誇るエトルリア族・ウンブロ族の諸都市はこの反乱で、ローマ側につくか、同盟者側につくか、決めかねていた。すなわちこれはローマが劣勢になれば、各地の部族あるいは都市が同盟者側で参戦する可能性は大いにあった。
こうして勃発した同盟市戦争のはじまりは、ローマ市民および元老院の予期せぬことであった。そして彼らはこの蜂起を知るや、その出来事に驚嘆した。
イタリカ建国
反乱を起こした8部族は、新国家イタリカの建国を宣言した。今でこそイタリアは主に国名として扱われるが、当時は地理的名称としてのみ使われた。
新国家イタリカの首都はウェスティアーノ族、フレッキーノ族、マルッキーノ族の領土の中間にあたる、ウァレリーア街道沿いの都市コルフィニウム(現・コルフィーニオ)とした。
ローマ市から見れば南東の位置にあたり、距離は120~130km前後しか離れていないのだ。
また新国家イタリカは、元老院、民会(市民全員からなる市民集会)、毎年2名選出される執政官と、司法を担当する12人の法務官制というローマと全く同じ制度を導入した。
万全を期したイタリカ側は、ローマ軍傘下にいる故郷出身の将軍や百人隊長らローマ軍兵士をも抱き込んだ。そして軍団をウァレーリア街道を北進させ、ローマへ向かい進軍することに決めた。南東からローマを攻めるのだ。
紀元前90年
年が明け、突然の武装蜂起に対応するための迎撃体制をローマ側も整えた。
まず戦線を大きく、北部戦線と南部戦線に分けて対応することになった。この紀元前90年に選出された執政官(執政官(コンスル)はローマの元首であり、元老院議長であり、ローマ軍の総司令官であった)の二名を南北それぞれの総司令官とし、配下の将軍たちにはそれぞれ数多くの歴戦を潜り抜けた者たちをつけるといった最善かつ万全の対応であった。
こうして、執政官ルプス率いる北部戦線軍団を北進、執政官カエサル率いる南部戦線の軍団を南進させ、各地で戦闘が勃発した。
紀元前90年6月 北部戦線 共和政ローマ執政官ルプス死す
北部戦線担当の執政官ルプスは各地で激戦を繰り広げたが、毎度、数多く出るローマ軍の死傷者の数に驚いた。だが、それはイタリカ側も同じことであろうとルプスは考えていた。
ルプスは軍事経験豊富な部下の元執政官マリウスから、「執政官殿。このままでは犠牲が増えるばかりであるので、兵士を更に訓練すべきだと私は考えております。」と主張されるも、ルプスは、「マリウス殿。我らにはそうしている時間がないのです。」と断った。
そして北部戦線の軍団がリーリス川(現・ガリリャーノ川)を渡る際に、ルプスはマリウスと話し合い、まず数万単位の全軍団をルプス側とマリウス側に二分することにした。それぞれ別個の二つの橋を造り進軍することにした。なおローマ軍には海以外の川を渡る際には橋を造って渡河をするのが普通であり、これは終戦後の新属州に対するインフラ整備にも役立った。
この軍団の様子を斥候で知ったマルシイ族を率いる指揮官ウェッティウス・スカトは、マリウス率いる軍団の造る橋の近くに密かに本陣と本隊を置き、そこからルプス指揮下の軍団に向けて別働隊を送り込むことにした。俗にいう不意打ち作戦である。この様子に橋を造っていたルプス、マリウスをはじめ、ローマ兵は気づかなかった。
翌朝、ルプス側の軍団野営地が敵の強襲にあった。見張り番は敵の襲撃があったことをすぐに知らせた。予期せぬ事態にローマ兵は混乱しながらも、近くにある武器を手に取って応戦した。だが、この強襲により、軍団兵の半数以上が戦死。ルプス自身も自ら剣を持ち応戦するも、とあるイタリカ軍兵士により頭部に致命傷を受け即死した。
この後、マリウスは川にローマ兵の死体が流れてることに気付き、野営地の辺りを調べさせた。そして斥候により、敵の本陣を見つけることができ軍団の準備を整え、敵の本陣めがけて攻勢をかけた。
この攻撃に敵は守りきれず、スカトは退却命令を出し、攻勢中の別働隊もこれを知るや退却した。北部戦線はこうして敵の本陣を取り、数度となくぶつかり合ったものの、ローマ・イタリカ双方とも犠牲者はあまりにも多大であった。
紀元前90年の総括
南部戦線においては、スッラなど勇猛果敢な将軍の目覚ましき活躍により、ローマ側のやや優勢となった。しかし、南部戦線の軍団長二名が戦死。その軍団長の一人にはガイウス・ユリウス・カエサル(後の独裁官、およびその父とは別人)がいた。彼はこの年の執政官ルキウス・ユリウス・カエサルの実弟である。
何故ここまでイタリカ軍とローマ軍は、一進一退の激戦を繰り広げているのだろうか。それはイタリカ軍がローマ軍の戦法を知っているからに、相違ないであろう。今までのローマ軍は、カルタゴ軍やシリア軍、ゲルマン人といったゲリラや非効率なまでに部隊の統率がなされていない軍団との戦闘を数えきれないほど積み重ねてきた。
しかし今日の敵は、ローマ側から見れば、相手はみずからと同じ戦法をとり、同じ武器を持ち、同じ防具をつけ、同じように百人隊による戦列を組み攻撃してくるのだ。彼らイタリカ軍は、かつて自分たちと同じ釜の飯を食った仲なのだ。ローマ軍にとっても、イタリカ軍にとっても、すなわち己のことを極限まで知り尽くした相手との戦闘である。
これにより一進一退の激戦が連続して続き、双方とも同程度の戦死者が膨れ上がった。ローマ軍はあまりの死体の多さに、普段はローマに死体を運んで埋葬するのだが、今回で埋葬することをあらかじめ決めた。
紀元前90年前半は、イタリカ軍のやや優勢である。これ以後、イタリカ軍も北部戦線で捨て身の根性で猛攻を仕掛けるも、死傷者の数が爆発的に膨れ上がり、戦力の激減を味わうことになる。なおルプスの死後、北部戦線の総指揮はガイウス・マリウスが代行することになった。南部戦線も、執政官ルキウス・カエサル、将軍スッラの猛攻により、紀元前90年後半はローマ軍がやや優勢となった。
だがローマを寝返る同盟都市も相次ぎ、参戦時のイタリカ側勢力の数倍に至るまでになってしまった。
紀元前90年冬 ローマの妥協
数十回にも亘る激戦により、一進一退の死闘の日々が続く。こうして今年は冬を迎えた。
ローマ軍においては冬は戦闘することはなく、敵の侵略の可能性がない時は、野営地で冬越えをすることが一般的であった。イタリカ軍側もローマ軍の動きに目を見張りつつ、自ら進軍することをやめ休戦状態となった。
ルプスが戦死し、今年度唯一の執政官となったルキウス・ユリウス・カエサルは、戦況を見計らってローマに帰還した。彼はローマに帰り、市民全員を招集し民会を開くことにした。
この時、カエサルの脳裏には「戦況は我が軍の優勢とはいえ、妥協せんことには、これからも激戦が続き多くの血が流れる。イタリクスの要求を飲めば、かつての同盟者をローマ市民と認めなければならない。このことは今後ローマの治世に損失を生むかもしれぬ。されど致し方無き事だ。それにイタリア半島以外の外敵のことも気になる。そもそも数百年前のローマ建国に立ち返れば、恭順を貫く敗者の同化こそがローマのあるべき姿なのだ。」という一筋の考えがあったかもしれない。これはあくまで推測である。
そしてカエサルは平民、騎士階級、元老院議員のそろう民会の場において「ユリウス市民権法」という法案を提出した。
この法律には、ポー川以南のイタリア半島居住者(平民階級以上)に対し、ローマ市民権を認めるという趣旨の内容が書かれてある。ただし彼らが、この方に則り、ローマ市民権を得るためには、イタリカ側がローマに対して無条件に従い、無条件に武装解除および停戦をし郷土に帰すことであった。そうすれば彼らは無罪放免とした。
この演説においては、平民、騎士階級をはじめ、あれほど反対していた元老院派からも怒号や批判は聞こえなかったという。反対していた元老院派などのローマ市民は戦力の大幅な損失を受け、自らの市民権に対する考え方を改めざるを得なかったのだ。
その後のイタリクス 北部戦線
この法の内容を知ったイタリクスたちは「我が勝利」、「悲願達成」、「ローマと戦う意義はもはや存在しない」などと歓び、北部戦線の部族たちはこの法律を受けることにした。彼らの大半はこうして武装解除し、ローマ側に恭順した。北部戦線の同盟者たちは、首都コルフィニウムをローマ側に明け渡し、ここに新国家イタリカは消えた。これを記念して、イタリクスとローマ人が握手するという銀貨も造られたほどである。
だが、イタリカの北部戦線の総司令官クイントゥス・ポペディウス・シロは、このローマの対応には最後まで反対を示し、戦い続ける意志を見せた南部戦線のサムニウム族の軍団に参加して指揮を執った。これにより南部戦線においては一年にわたり、残党勢力による戦争が継続されることとなる。
また北部戦線でもローマに対する反感などから、武装蜂起が完全に鎮圧したわけではなかった。
紀元前89年
※イタリカと言う国家は首都がなくなり名実ともに消えた。しかし以下は便宜上、ローマに対し武装蜂起している反乱兵の集団をイタリカ軍と称すことにする。
紀元前89年初春、今年度の執政官にグナエウス・ポンペイウス・ストラボと、ルキウス・ポルキウス・カトーの両名が選出された。そして彼らは協力して北部戦線、南部戦線にまだ残る反ローマの残党狩りを行うことになった。
ポンペイウス・ストラボは北部戦線を担当した。彼は軍団を率い、まだ武装蜂起をしているイタリカ北部の都市アスクルム(現 アスコリ・ピチェーノ)を目指し進軍した。
アスクルム近郊にてローマ軍とイタリカ軍との戦闘が行われた。イタリカ軍を率いていたのはマルシイ族のティトゥス・アフレニウス将軍である。しかしここでは、ローマ軍の圧勝であり、マルシイ族を中心とするイタリカ軍は6万人が死傷した。こうしてアスクルムは降伏。北部戦線の抵抗は完全に消滅した。
一方、執政官カトー率いる南部戦線においてはまだ激戦が続いた。フキネ川の戦いにおいて、ローマ軍はイタリカ軍を上回る死傷者を出して退却。その後、マルシイ族の野営地襲撃中をするが、この時に致命傷を受けた総司令官カトーは戦死した。これ以後、スッラが総指揮権を代行することになった。
テアヌス川の戦いにおいてイタリカ軍は兵力を大きく失い、ローマ軍に対して降伏した。ローマ軍は武装解除した彼らを殺すことはなく、彼らがローマ市民になるのを許すのと引き換えに、武力行使をしてローマには向かうことの無きことを確認する。そうして軍団はローマへと帰還した。
なお、具体的な月日は不明であるが。この年、北部戦線の総司令官クイントゥス・ポペディウス・シロが戦死した。皮肉なことにシロを殺した軍団を率いていたのは、彼らの蜂起の原因となった暗殺事件の被害者、マルクス・リウィウス・ドゥルスス執政官の実弟であり、アエミリウス氏族のレピドゥス家に養子にいったマメルクス・アエミリウス・レピドゥス・リウィアヌス(後の紀元前77年度執政官)であった。
紀元前88年 鎮圧
紀元前88年、北部戦線担当地域においてサムニウム族による小規模な反乱が起きたようだ。だが既に目的意義を失い、戦争で起きた恨みのみで戦う彼らに勝ち目はなく、その戦いの名が史書に残ることはなかった。
こうしてローマの妥協とイタリカ側の妥協、それ以後の反乱などを通して、戦争は終わり、全ローマ軍団は帰還した。
まとめ
同盟諸都市民は戦いには敗けたものの、政治的目標は果たされた。これからの彼らはローマとの同盟諸都市民というローマの従属者ではなく、正式にローマの一員になった。ローマとは別の国ではなく、ローマの本国イタリアの地方自治体となる。これからのローマは、共和政と帝政の両期間を通して、イタリア半島全域の本国と、属州から成る超大国へと成長する。これは、その本国の領域と本国民であるローマ市民を決める第一歩なのだ。この500年後に西ローマ帝国が滅亡するまでの、ローマ市民の概念を決める上でなくてはならない第一歩だ。
こうして足かけ2年にも亘るイタリア半島の内乱はひとまず終わった。だが翌年の紀元前88年には、ガイウス・マリウス率いる民衆派とルキウス・コルネリウス・スッラの閥族派による血なまぐさい内乱がはじまることになる。結果はスッラの勝利であるが、彼の引退と死後はまた迷走する。
そしてマリウスの甥ガイウス・ユリウス・カエサルが、元老院による寡頭制を廃し、自らが独裁官になり、ローマの政治を変えていくことになる。彼がグナエウス・ポンペイウス・ストラボの息子、グナエウス・ポンペイウス・マグヌス一派との戦いを終わらせたのは、この戦争終結から44年後のことになる。
参考文献
- 塩野七生 『ローマ人の物語Ⅲ 勝者の混迷』 (1994年 新潮社)
- 学習研究社『歴史群像シリーズ決定版 図説 激闘ローマ戦記』 (2009年 学習研究社)
- Wikipedia日本語版 「同盟市戦争」
- Wikipedia英語版 「Social War (91–88 BC)」
- Wikipediaイタリカ語版 「Guerra sociale」
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