『哲学改革のための暫定的提題』と『将来哲学の根本命題』とはドイツ哲学者ルートヴィッヒ・フォイエルバッハの哲学改革、キリスト教批判の論文である。
概要
フォイエルバッハは『哲学改革の必要性』の中で「人類はいまこれまでとは全く違った時代に差し掛かっている」と述べ、哲学改革の必要性を論じている。新しい時代に求められる哲学は、これまでの時代に求められる哲学とは異なるものだと彼は考えたのである。そこで、旧来の(というかヘーゲルの)「哲学のための哲学」から、新時代の「人間が必要とする哲学」への哲学改革を試みたのが今回の二つの論文である。
哲学の改革のためにフォイエルバッハが着手したのは、近世まで哲学と密接に関わっていたキリスト教の否定であった。近世における神学、宗教、哲学は区別が区別できないほど近似していた。その中でキリスト教を否定しようとする哲学があっても、それは内容的にはキリストの教えと繋がりを保ち、継承する側面を持ってしまっていた。しかしフォイエルバッハの想定する新しい哲学は、キリスト教と完全に手を切り、更にはキリスト教に取って代わることすら自らの義務と課していた。真の哲学は、キリスト教がこれまでの哲学に対して優れていた長所を取り入れ調和し、哲学のまま宗教にもならなければいけないのである。
人類が必要とする新しい哲学は当然、「人間」を中心とする。しかしその「人間」はキリスト教徒が言うところの「天上と地上の分裂で生きているような抽象物」ではなく、「現実的な国家の中で生きる物質的」な人間である。新しい哲学は天上の楽園ではなく、地上の国家を重視するのである。おそらくその国家は共和制[1]国家になるだろう。教皇も国王も普通の人と何ら変わることのない人間であるのだから、国家の元首は国民の中から民主的に選ぶことは当然である。
哲学改革のための暫定的提題
近世の宗教の課題は「神の現実化と人間化」にあった、と『根本命題』の中でフォイエルバッハは言う。遠く離れた彼岸に住む神さまを、私たちが住む地上の1人の人間として見なす行為は初めて実践的に遂行したのはプロテスタントである。プロテスタントにとって神とはイエス・キリストであった。知っての通り、現実的にはイエス・キリストは一人の普通の人間である。プロテスタントはこのキリストという人間を、人間神として信仰するという意味で、神の人間化には成功していた。
プロテスタントは、神がそれ自体なんであるかを特に問題としない。しかし、プロテスタントは神を宗教的な実践の上で無視するだけで、理論の上では神を依然として存続させてしまった。その理論上の神というのはプロレスタントにとっては彼岸的、つまり現実の世界から遠く離れた場所におわす天国的な存在であった。
フォイエルバッハによれば、このようにプロテスタントにとってすら彼岸的となった神自体を、合理的、科学的に検証するのが思弁哲学である。思弁哲学が対象とするのは合理化された神であり、理性的神学であった。そしてその思弁哲学こそがフォイエルバッハが批判の対象とする旧来の哲学であった。
『暫定提題』の中でフォイエルバッハはこの思弁哲学についての批判をくわえる。近世的な思弁哲学はスピノザ[2]から始まり、シェリング[3]に再興され、ヘーゲルにおいて頂点を迎える。その内容はまさに神の合理化であって、そうした意味では思弁哲学はフォイエルバッハが忌避したキリスト教を継承する哲学であった。ゆえにこれは克服されなければいけない。『キリスト教の本質』でもそうであったが、フォイエルバッハ哲学の本質は「人間学」である。よってここでいう思弁哲学の克服とは、「思弁や観念から、人間の主体を人間の手に取り戻す」ことにある。フォイエルバッハにとってとりわけ批判対象になったのは思弁哲学の大家、ヘーゲルである。
ヘーゲルは超越的な「神」なるものを、自己意識を持つ「精神」に理論的に変形させた(この「精神」とは私たちが普段使っている用法とは大きく異なる概念であることには留意したい)。その精神は弁証法的[4]に自らを発展させながら、世界のうちに(国家や歴史などの)様々な形象を生み出し、絶対精神(絶対知)へと高まっていくものである。
フォイエルバッハによれば、ヘーゲルが「精神」を研究した論理学[4]は「論理学とされた神学」である。神学者たちは地上の全ての事象を神の御業として、それらを神学の天上界(形而上)のもとのする。一方のヘーゲルも全ての事象を論理学の論理の中に閉じ込めてしまう。例えそれが国家や経済のような物質的な現象であっても、ヘーゲルにかかれば「精神」という形而上の枠内に収まってしまうのである。あらゆる事象を形而上の動きと見なすという点で神学とヘーゲル論理学は似た存在なのである。
『キリスト教の本質』において、「神とは人間の本質が外部に対象化されたもの」ということが明らかにされた。ヘーゲルにおける「精神」もまたこれと同じことがいえる。つまり、ヘーゲル論理学における「精神」は、実は人間の精神の投影物であるのだ。「精神」は人間の肉体や感性から離れて、人間から外化したものとして絶対化される。またヘーゲルは人間の抽象的知性のみを神的絶対存在であると認めた。ヘーゲルは人間の抽象的知性を神(絶対者)の思考とすることによって、地上の全事象を「精神」の動きを捉える論理学の中に取り込むことができたのである。
フォイエルバッハはこのヘーゲル思弁哲学を改革するために、主語と述語の転倒の回復を提唱する。主語と述語の転倒とはなにか? 例えば「AはBである」という文章があったときにAは主語でBは述語になる。フォイエルバッハによれば、キリスト教神学やヘーゲルの論理学ではAとBの転倒が起きているという。神学において例えば「神は永遠である」という文章があったとする。しかし、『キリスト教の本質』において、神とは人間の本質(類的規定)であることが証明されている。ということは「永遠である」とは人間の本質についての記述であることになる。人間の本質についての記述から、主語である「神」という概念が生み出されるという主語と述語の転倒。これがヘーゲル論理学における「精神」でも同じ現象が発生しているのである。
本来、人間の本質について語っていることがヘーゲル論理学では「精神」のものとして記述される。この主語と述語の転倒を元の位置に戻す。すなわち今まで述語にされていた人間の本質を、主語に位置に置くことによって、宗教的倒錯現象を解消するのである。「精神は完全」であるのではなく、「人類は完全」と言う事によって思弁哲学は克服され、それに変わって、現実に即した人間主義の哲学、つまり真の哲学が誕生するのである。ヘーゲルの思弁哲学は、「存在」を「思考」の述語としか考えなかった。しかし本来は「存在」が主語になることが正しいのだ。「存在」から「思考」は生み出されるが、「思考」から「存在」は生み出されない。フォイエルバッハが目指したのは理念の世界から、人間の生きる現実への復帰だったのである。
フォイエルバッハは、哲学とは実際に存在するものを認識するものでなければならないと主張する。その存在を捉えるのには「感性」と「直観」の働きと、それを生みだす「頭脳」と「心情」という体内器官が必要である。頭脳は能動性や自由や観念論の源であり、心情は受動制や欲求や感覚論の源である。フォイエルバッハによれば、神の存在を認める旧来の有神論においては頭脳と心情が分裂してしまっている。というのは心情は自らの本質こそが神であると感じているにも関わらず、主観と客観を区別する役割を持つ頭脳という器官は自らの本質を外的な存在、つまり人ならざる神に変えてしまう。そこで新しい哲学である人間神学はこの頭脳と心情の分裂の阻止を試みる。心情と頭脳が一体になって働く人間こそがまさしく現実的な人間であり、現実生活と密着した真の哲学者であるからだ。
将来哲学の根本命題
フォイエルバッハは、頭脳や思考ばかりを重視するドイツ観念論に、フランス的な「感性」や直観を導入することを望んでいた。「感性」それが『根本命題』におけるキーワードである。フォイエルバッハは、人間が肉体を備えた感性的存在であることを強調し、現実に存在するすべての物事は感性を通じてのみ与えられるとする。ところでこの「感性」というのは、いわゆる五感のみを指す訳ではない。それはフォイエルバッハが「感性」と「愛」を同一視していたことからも分かる。
フォイエルバッハの目指した哲学は、存在するものをあるがままに表現する、自然科学と協調する哲学であった。存在するものをあるがままに捉えるとは、現実に存在する一つ一つの個別の存在を、まさしく一つ一つ個別の存在であるとして見なすことを指す。「思考」ではこの視座を持つ事はできない。というのは「思考」は物事を抽象化し、一般化して見てしまう作用があるからだ。よって「思考」では全体を一つのものと見なしてしまい、物事を個別に捉えることができないのである。その代わりになるのが「感性」である。というよりもフォイエルバッハは人間の持つ、個別物を捉える能力に「感性」と名前を付けだという方が正しいだろうか。こうするとフォイエルバッハ哲学における「感性」と「愛」がなぜ同じ概念であるかも分かるだろう。「愛」とは、他の誰でもない個別的な人物に対して絶対的価値を認めることに他ならないからだ。
フォイエルバッハの重視する「感性」とは主観的で表層的な評価を下しやすい、という批判もあるかもしれない。しかし人間の物の見方、すなわち最初の直観[5]は対象そのものを見ているわけではなく、表象と想像の直観なのである。例えば、ある人が一輪の花を見ているとしよう。しかし実はその人が見ているのは花そのものではなく、その人が認識している花を想像して見ているだけなのだ。よってヘーゲルは感性の対象物(ここでは一輪の花)を回避し、形而上の世界に閉じこもろうとするが、フォイエルバッハは逆にその花に到達することを目指す。それは今まで想像の中で見ていたものを、実際に見えるようにする目論みである。そしてその目的を達成するためには、自己の主我制を打破する「教養」が必要であるとフォイエルバッハは言う。自己の主我制を打破する「教養」とは一体なんだろうか。
繰り返しになるが、フォイエルバッハにとって存在とは「感性」の対象になる事物である。そしてそれはまた「愛」の対象になるものでもある。ヘーゲルまでの旧来の哲学では「『思考』されることのできないものは存在しない」というが、フォイエルバッハの新しい哲学は「『愛』されることのできないものは存在しない」ことになる。もちろん愛の対象はイヌやネコでもよく、必ずしも人間に限らないが、それでも人間はとりわけ重要な愛の対象である。というのは人間を愛する場合、愛している自分の正体もまた明らかにされるからである。私が何者であるかは、私が他の人間を愛することを通じて、私自身にも明らかになる。つまり、人間の本質は「愛」の対象によってのみ露にされるということだ。
ここでもう一つのフォイエルバッハ哲学の重要ワード「私と汝」という概念を紹介しよう。「私」とはそのままの意味で自分という1人の人間を指す。一方で「汝」とは、「私」以外の1人以上の他人のことを指す。この「汝」はたった1人であっても、「私」とは異なる存在であり、また「私」にとって全人類を代表する存在でもある。
フォイエルバッハの言う「感性」すなわち「愛」は人間と人間の統一を促す効果を持つ。人間と人間の統一とは、自分と自分以外の人間の統一。つまり「私」と「汝」の統一のことである。
フォイエルバッハの新しい哲学とは人間中心哲学であると何度も述べた。そしてその「人間」とは孤独な1人の人間ではなく、「汝」と統一された人間のことなのである。もう一度、復習すると「私」とは自分という個人のこと。「汝」とは「私」でない全人類の中の1人以上の他人のことである。それを踏まえてフォイエルバッハの新しい哲学、人間学の特徴を見ていく。
②新しい哲学は「私」と「汝」の対話をする。すなわちそれが真の弁証法であり、真の哲学をすることである(ヘーゲル哲学=弁証法であることを思い出そう)。
③新しい哲学において「私」と「汝」を区別した上で統一したものが真の神であり、したがって真の宗教の本質である。
フォイエルバッハの提唱する真の哲学とは、まず「私」と「汝」を区別し、その区別に基づいて、改めて統一する(これを「類を実現する」と呼ぶ)という人間哲学である。それは理論的であると同時に実践的な哲学であり、また従来のキリスト教に取って代わる事のできる宗教でもある。
また、新しい哲学は「私」と「汝」の対話として成立する。そしてそれこそが真の弁証法(対話)である。弁証法(独:ディアクティーク)の語源は、対話(ディアローク)であった。つまり真の弁証法とは対話する相手がいなければ成り立たないものなのである。ヘーゲル哲学のことを弁証法と呼ぶが、フォイエルバッハに言わせれば、それは自らの論理学の中に閉じこもった独白(モノローグ)なのである。
ある思想が真実であることは、「私」という1人の人間によってではなく、「私」と「汝」という複数の人間を待って初めて保証される。だが、デカルトの「我思う故に我あり」以来、近世哲学は「汝」を無視し、孤独な「私」を出発点としてしまった。近世哲学は「私」と「類」と同一視し、自我の思想を人類の思想であると言う。フォイエルバッハはこれを批判するために「汝」という概念を発明したのである。極めて複雑なこの世界や自然を個人の知的能力で認識することは限界があるものだ。それどころか、ある物が存在するかどうかですら「汝」なしには保証されることがない。ある存在が本当に存在するということを証明するには、自分1人がその存在が「ある」と認めただけでなく、他人が同じくそれを感覚し、「ある」と認めることが必要なのである。この点からもフォイエルバッハの感覚主義がエゴイスティックな主観主義でないことが伺える。フォイエルバッハ哲学とは常に「汝」の存在を意識するヒューマニズム(人間主義)なのである。
ここで前に出した質問に戻ろう。今まで見えないものを見るための非主我的な「教養」とは何か? それはもちろん豊富な知識のことではない。フォイエルバッハのいう「教養」ある人とは、自分とは異なった個別性を持つ「汝」の存在を認め、世界の実在が複数の他人によって支えられていることを認められる人のことである。それは「汝」を愛することのできる人間ということもできるだろう。
[1]共和制。国家元首を国民から選ぶ政治システムのこと。対義語は君主制。共和制+民主主義が民主共和制である。日本の場合は民主主義であるが、天皇陛下がいるので立憲君主制民主主義である(首相は国家元首ではない)。
[2]スピノザ。オランダの哲学者。スピノザの哲学は汎神論という名で知られている。デカルトが「神」と「精神」と「物体」という三つの実体を認めたのに対して、スピノザは「神」のみが唯一の実体であると考え、精神的現象も物体的現象もすべてそうした一にして無限な「神」の表れであると考えた。スピノザによれば、神とは精神と物体の両方を含む自然(神即自然)であり、すべて(パン)が神(テオス)であることから彼の哲学は汎神論(パンティズム)と呼ばれるのである。スピノザの神即自然の思想(詳しくは脚注で)は自然以外に神は存在しないというもので、キリスト教の立場からは無神論の主張に等しいものであった。というのは、全てが神であるのならば、特殊な存在としての神なんてどこにも存在しないことになるからである。
[3]シェリング。カント、フィヒテ、ヘーゲルと並ぶドイツ観念論の代表人物。
[4]論理学。ヘーゲルの論理学は、現代でいう論理学とは全く別のものである。後者の数1で習うようなA∈Bみたいなのを数理論理学、形式論理学、記号論理学という。それに対してヘーゲルの論理学は「即時」,「対自」,「即かつ対自」というように「矛盾律」を容認する弁証法を指す。ヘーゲルは自らの論理学を形式論理学より優れたものであると考えていた。(参考サイト『ヘーゲル論理学と記号論理学』
[5]直観。推理によらず、直接的・瞬間的に、物事の本質をとらえること。第六感で物事を判断する意味の「直”感”」ではない。
関連項目
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